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週間版【今日の歴史】(4月15日〜4月21日)100年戦争を終わらせたフランス国民軍の勝利

100年戦争と言えばジャンヌダルク。
ジャンヌダルクによるオルレアンの解放は有名ですが、実際に100年戦争が終わったのはオルレアン解放戦から20年後のことで、その原動力となったのが初めて編成された国民軍の力によるものでした。
当時の軍隊の主力は戦争の度に貴族が雇用する傭兵隊が主力で、褒賞はもちろん戦地での略奪が彼らの主たるインセンティブでした。

リッシュモン大元帥は貴族の徴税権を奪い、これを原資に募兵した国民軍を主力とするという兵制改革を実施しました。
折しも長引く戦争が徐々にフランス人としての国民意識を醸造しつつあった状況にあったこともあって、金のためではなく国の為に戦う彼らは強く、各地でイングランド軍を打ち破りました。
又略奪をしない国民軍は、イングランド兵の略奪に苦しむフランスの人々の支持を受け、瞬く間にフランス軍が全土を解放する一因ともなったのでした。


☆ 4月15日 100年戦争を終わらせたフランス国民軍の勝利(1450年)☆


ジャンヌダルクによってオルレアンが解放されてから18年、フランス国内に残るイングランド領はプランタジネット家領のギュイエンヌとノルマンコンクエスト以来のイングランドの故地ノルマンディの2箇所だけになっていた。

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ジャンヌダルクに代わってフランス軍を率いるリッシュモン大元帥は、従来の傭兵からフランス史上初めてとなる国民軍を編成。
1449年遂にイングランドとの決着をつけるべくノルマンディに侵攻を開始した。
1450年の今日、優勢なイングランド軍に対して騎兵突撃を勇攻したリッシュモン大元帥は、フォルミニーの戦いで決定的な勝利を収めた。

これのよりイギリスは故地ノルマンディの全てを喪失。
実質的に100年戦争の勝敗は決した。
フランス軍勝利の要因となった国民軍の活躍によって以後欧州大陸におけるフランス陸軍の優位は揺るぎないものとなったのだった。

☆ 4月16日 ジャコバイトの反乱(1746年)☆


プロテスタントからカトリックへの回帰を図ったイングランド国王ジェームス2世は1688年の名誉革命によって追放され、ジェームス2世の娘メアリーとオランニェ(オランダ)公ウィレムが新たなイングランド国王に即位した。
しかしあくまでも前国王ジェームス2世を支持する勢力はジャコバイトと呼ばれ、特にスコットランドのカトリック教徒は、イングランドの支配への反発と同盟国フランスの援助もあって根強い反抗を続けた。

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1745年ルイ15世に支援されたジャコバイト達は、チャールズ・エドワード(若僭王)の下ハイランドの貴族達を糾合して反乱を起こし、エディンバラを奪取、更に南進してイングランドに侵入するなど一時優位に戦いを進めた。
しかしハイランド地方を除いてはジャコバイトへの支持は広がらず1746年の今日カンバーランド公率いるイングランド軍にカロデンの戦いで完敗した。
これによってスコットランドのジャコバイトの反乱は完全に鎮圧されたるとともに、反乱の再発を防ぐため、スコットランドはイングランドによる厳しい軍事占領下に置かれることになったのだった。


☆ 4月17日 335年続いた戦争(1986年)☆


1986年の今日オランダとイギリス領シリー諸島が戦争の終結を宣言した。
清教徒革命時の1651年にオランダが国王派のグランヴィル卿が支配する国王軍最後の拠点シリー諸島に宣戦したのが始まりとされるが、直後に国王軍は降伏。
しかし宣戦布告自体は国王ではなくシリー諸島になされたものであったため、そのまま継続されたまま皆忘れてしまった。

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後にかつての記録から戦争が終結していないことがわかり、こうして335年に渡る世界最長の忘れ去れらた戦争はただの一人の死傷者も出すことなく終結したのだった。

☆ 4月18日 北欧統一国家構想の終わり(1864年)☆


1848年に起こったフランスの2月革命は忽ちヨーロッパ全土に拡大し、各国では絶対王政が揺らぎ民族主義が台頭した。
こうした中、デンマークの支配下にあったシュレースヴィヒ・ホルシュタインの両公国ではドイツ統一に参加すべきという機運が高まっていた。
一方デンマークとスウェーデンでは、再び北欧に統一国家を作るべきという汎スカンジナビア主義が唱えられ、シュレースヴィヒ・ホルシュタインを巡ってドイツ統一主義との確執が激しくなっていった。

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こうしてプロイセンとデンマークはシュレースヴィヒ・ホルシュタインを巡って2度にわたって戦果を交えたが、1864年の今日、プロイセンは第二次シュレースヴィヒ・ホルシュタイン戦争の決戦場となったドゥッブル堡塁を攻略に成功し、遂にデンマークの中心部に侵攻することに成功した。

デンマークはたちまち降伏し、シュレースヴィヒ、ホルシュタインの両公国の割譲を余儀なくされた。
この戦争におけるプロイセンの勝利は、この後のドイツ統一の足がかりとなった反面、汎スカンジナビア主義、つまり北欧統一国家構想の終わりを意味するものでもあった。


☆ 4月19日 アメリカ独立戦争の号砲(1775年)☆

1775年の今日マサチューセッツ州コンコードの植民地兵の武器庫を接収しようとしたイギリス軍は、レキシントンの街で植民地兵と偶発的な戦闘になった。

この時コンコードに向けて別のイギリス軍が進軍していたが、レキシントンの戦闘の報を受けた植民地軍によってイギリス軍は包囲され、小規模な戦闘の後ボストンへの撤退を余儀なくされた。
レキシントン・コンコードの戦いと言われるこの小規模な戦闘で、イギリス軍は武器接収に失敗したばかりか、植民地兵との間で戦火を交えるという決定的なミスを犯した。
この戦いによってイギリスは本国にシンパシーをもっていた市民さえも、本国につくか独立派につくかの選択をせざるを得なくなり、多くは先に手を出したイギリスではなく独立派に加わることになった。
こうして始まった反英反乱は忽ち植民地全土に拡大、アメリカ独立戦争へと発展していったのだった。

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☆ 4月20日 クロムウェルの独裁(1653年)☆


クロムウェルのクーデターによって解散した議会(長期議会)は、残った議員によるランプ(残部)議会となりイングランド共和国の国政を担っていた。
しかし1653年の今日、第一次英蘭戦争に反対し軍の縮小を主張する議会に愛想をつかしたクロムウェルは再びクーデターを決行。
腹心のトマス・ハリソンが銃兵隊を率いて軍事力により議会を制圧し、ランプ議会を解散した。

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これにより事実上クロムウェルの支配が確立され、12月12日護国卿に就任したクロムウェルはイギリスの独裁者となったのだった。

☆ 4月21日 ムガール帝国因縁の地 パニーパット最初の戦い(1526年)☆


ティムールの子孫であるアフガン太守バーブルは、1万2000あまりの兵力でインダス川を渡った。
北インドを支配していたロディ朝の国王イブラーヒームは10万の大軍と1000頭の軍象を率いて迎撃に出たが、1526年の今日パーニーパットの戦いで敗れ戦死。
これによってロディ朝は滅亡し、インドに入城したバーブルによってムガール帝国が建国された。

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バーブルの勝因は寡兵ながら鉄砲や大砲を上手く使い、ロディ朝の戦象の動きを封じたことであった。
尚パニーパットはデリーに至る要衝の地であったことから、この後何度もムガール帝国の命運を握る戦いの決戦場となっている。

通常バーブルがロディ朝を破りムガール帝国を築いた戦いを第一次、アクバル大帝がスールー朝を破りムガール帝国を再建した戦いが第二次、ムガール帝国に代わってインドの覇権を握ったマラータ同盟が、アフガニスタンのドゥッラーニ朝に敗れ、その覇権を失った戦いを第三次パニーパットの戦いという。