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歴史は繰り返す、の後に来るもの

昔から歴史は繰り返す、というのはよく言われます。
かのマルクスの「歴史は2度繰り返す。一度目は悲劇として、二度目は喜劇として」というルイ・ボナパルトのクーデターに対する皮肉なんかが有名ですが、類似の表現は古今多様にあり、ある意味経験則としてずっと慣用的に使われてきた文句なのでしょうね。

さて、歴史があたかも螺旋のような発展的循環の様相を呈している、つまりヘーゲルの弁証法で言うところの「事物の螺旋的発展」というのは、大きな流れから行ってまさにその通りなのですが、その螺旋は必ずしも発展の一方向というわけにはいきません。

円環史観を唱えたシュペングラーや、発展的循環史観を唱えたトインビーは、文明はあたかも四季を繰り返し年月が過ぎていくが如く、発生→成長→衰退→解体のサイクルを繰り返していると指摘しています。
歴史に永遠の夏はなく、同時に永遠の冬もない。
繰り返す文明の季節には、春も、秋もあるわけで、決して文明は永遠の成長や発展のプロセスだけをたどるわけではない、ということなのですね。

さて、この100年間は人類史に特筆すべき成長の時期でした。
太陽が燦々と照らす、真夏のような季節であったと言えます。
しかし、次の段階に至る間に、本当に衰退も、解体もないのか? 
私たちは単純にテクノロジーがもたらす輝かしい未来を、このまま信じつづけたらいいのか?
正直ちょっと疑問に思うところもあるわけです。

少なくとも日本においては、文明の「秋」に向かって、衣替えをしていくシーズンなのかもしれませんね。