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週間版【今日の歴史】(4月1日〜4月7日)紅海の出口を確保せよ!

世界104カ国を訪問したことのある私ですが、過去2回も渡航ビザを取得しながら遂に訪問の機会なく今に至る国があります。
それはアラビア半島の南端にあるイエメン。
かつては幸せのアラビアと呼ばれ、シバの女王で有名な古代シバ王国として栄えた歴史のある国なのですが、このところほとんど切れ目なく内戦が続いている国です。
そもそも部族国家で全くまとまりのない国なのですが、大元の原因を作ったのは例によってイギリスが南部を中途半端に占領し、植民地にしたこと。
欧米の植民地統治技術は、分断統治の観点からは巧妙といえば巧妙で、それはそれで凄いといえますが、その傷跡も未だに癒えぬまま残されている国が世界中にあるわけですね。


☆ 4月1日 紅海の出口を確保せよ!(1937年)☆


紅海の出入り口に位置するイエメンのアデンは古くから南海貿易の中継地であり、戦略上の要地として、諸勢力により帰属が争われる係争地だった。
575年にササン朝が占領、628年にはウマイヤ朝が支配し、あのサラディンも遠路遠征軍を送りこの街を確保している。
1513年にはポルトガルのアルブケルケが攻略したものの、1538年にオスマン・トルコのスレイマン大帝が奪取し約100年間トルコ領となった。
しかしインドとエジプトを結ぶ要衝をイギリスが黙って見過ごすはずはなく、1839年イギリス東インド会社が武力によって奪取しイギリス領となった。

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その後1869年にスエズ運河が開通によりアデンの重要性は益々高まり、1937年の今日イギリス直轄植民地に昇格することとなった。
スエズ運河とインドを守る軍事拠点としての処置だったが、結果的にイエメンはこの地域が南イエメン、元々のオスマントルコ領が北イエメンとして分離されてしまい、以後今日まで続く内戦の遠因となったのだった。


☆ 4月2日 バイキング王国の終焉(1801年)☆


1801年の今日、ナポレオン戦争で中立を宣言したデンマークに対し圧力をかけるべくイギリス艦隊がコペンハーゲンを攻撃した。
デンマークはロシア、スウェーデン、プロイセンと共に武装中立同盟を結びイギリスに対抗しようとしており、イギリス艦隊の目的は武力の故事によってデンマークを同盟から離脱させることにあった。

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この時艦隊司令官のハイド・パーカーは陸上砲台によって固く守られたデンマーク艦隊に対しては牽制するだけで積極的な攻撃をするなという指示を出していたが、副将のネルソンは攻撃を主張。
渋々攻撃に移ったパーカーだったが、陸上からの猛砲撃により戦況はイギリス艦隊が劣勢となると、パーカーは戦闘停止命令をだした。
しかしネルソンは隻眼の為見えなかったと嘯きこれを無視。
積極的な攻撃にでてコペンハーゲン湾内に突入し、あえてデンマーク艦隊と至近距離で撃ち合うことで陸上砲台を無力化した。
質において劣るデンマーク艦隊は近距離砲撃戦に持ち込まれると一方的にネルソン艦隊の的となり壊滅。
デンマークはバイキング以来の伝統的な海軍大国だったが、この海戦で主力艦隊を喪失し、敗戦の代償としてノルウェの支配権も失うこととなる。
長くバイキングの末裔として北方の海上を支配したデンマークの海上帝国の歴史の終焉であった。

☆ 4月3日 報酬を渋った残忍王の最後(1367年)☆


100年戦争中の1367年の今日、イギリスの支援するペドロ残忍王とフランスの支援するエンリケがカスティーリャの王位を巡ってナヘラで戦った。
ペドロ軍を率いたのはイギリスの名将エドワード黒太子で、ペドロの約束した膨大な報酬に引き寄せられて各国から傭兵が集まり、その数は1万以上に膨れ上がった。
数に劣るエンリケ軍は黒太子の攻撃の前にほぼ壊滅し、エンリケは身一つでフランスに亡命した。

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しかし勝ったペドロが黒太子に約束した報酬を払わなかったことで、イギリスと仲間割れし、間も無く黒太子も病死した。
1369年再びエンリケがフランスの支援で来襲するとペドロにはもう援軍はなく、モンティエルの戦いで敗れ戦死した。

☆ 4月4日 色仕掛けで倒産しかかった毎日新聞(1972年)☆


1972年の今日、毎日新聞の西山太吉記者が沖縄返還に絡む日米の外交機密を得るため、既婚の外務省女性事務官から色仕掛けで情報を入手、社会党に渡して政治的キャペーンに利用したとして国家公務員法違反で逮捕された。

当初毎日新聞は情報の入手経路について把握していたものの、バレることはないと高を括り、言論の弾圧ではないかと政府批判キャンペーンを繰り広げたが、週刊新潮に西山記者が酒を飲ませて既婚者に肉体関係を迫り、それを元に情報を入手したという事実がすっぱ抜かれると世間の風は一変。

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行き過ぎた取材行為は一転して世間の非難の的となり、ニュースやワイドショーなどでも連日取り上げられた為、毎日新聞側が大きな非難を浴びることとなった。
毎日新聞社は大幅な部数減により、債務超過となり、遂に経営危機にまで追い詰められることとなったのだった。

☆ 4月5日 イギリス対オランダ最初の戦争(1652年)☆


イングランドへの輸入にあたってはイングランド船を使わなければならない、という航海条例は、当時世界の海を支配していたオランダにとって看過できないものだった。
航海条例をめぐる英蘭の対立は1652年遂に両国の戦争に発展した。
経済力・軍事力共にオランダが優勢だったものの、経済を重視するあまり大型艦を保有しない政策が仇となっていくつかの海戦で敗北。
又軍の強制徴募が禁じられていた為、艦隊の長期運用に問題があり、その戦力を生かすことができなかった。

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一方勝利したイギリスもバリバリのプロテスタントであるクロムウェルが、プロテスタント国同士が戦うことでスペインを利することを嫌ったため深追いはせず、1654年の今日結ばれたウエストミンスター条約によって、第一次英蘭戦争はイギリスの優勢のうちに終わった。

☆ 4月6日 スコットランドの独立宣言(1314年)☆


イングランドの征服王エドワード一世はスコットランドを征服し併合したものの、その息子エドワード2世は不幸にも父のカケラほども軍事的能力を有していなかった。
エドワード2世は1314年、半分にも満たないスコットランド軍にバノックバーンの戦いで決定的な敗北を喫し、スコットランドの大半を喪失した。
勢いずいたスコットランドだったが、指導者のロバート・ドゥ・ブルースは教皇から破門されており、当時の慣習から国王に就任できないという問題があった。

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そこで1320年の今日、スコットランドの諸侯はアーブロース宣言を発し、イングランドから独立し、その指導者をロバート・ドゥ・ブルースとすることを宣言した。

この宣言によりスコットランドが一つにまとまった事で、以後イングランドによる軍事的侵攻は困難になり、又教皇ヨハネス22世もこれを承認せざるを得なくなった。
アーブロース宣言はスコットランドの独立という意味で歴史上大きな意味を持っているが、同時に諸侯が王を擁立したことから王権が制限され、スコットランドの中央集権化を阻むことにも繋がったのだった。

☆ 4月7日 アルバニアは俺のもの(1939年)☆


第一次世界大戦の時イタリアがドイツやオーストリアを裏切って連合国側で参戦したのは、戦後アルバニアをイタリアの勢力圏にするというロンドン密約に従ったものだった。
しかし実際には戦後その約束は反故にされ、1920年に独力でアルバニアのヴァロナに上陸しヴァロア戦争と呼ばれる軍事行動をおこなったものの、各国からの非難で撤退せざるを得なくなった。
以来不満を募らせていたイタリアだが、1939年の今日イタリアのムッソリーニは遂にアルバニアへ侵攻を開始。僅か5日間の戦闘でアルバニアを降伏させ、アルバニアはイタリア王国の同君連合として事実上の占領下に置かれた。

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この時ムッソリーニがアルバニア侵攻に踏み切ったのは、同盟国のドイツがバルカン半島に手を伸ばしていたからだった。
イタリアは当時アルバニアの油田に石油消費の3分の1を頼っており、強欲なドイツがこれを支配するのを恐れた為だった。
イタリアにとっては敵より味方のドイツの方が恐ろしかったのであった。