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週間版【今日の歴史】(3月18日〜3月24日)フランスを滅ぼしたテンプル騎士団の呪い

利子と複利の発明は人類史上最大の発明と言われることがあります。
現在の私たちが謳歌している繁栄の多くは、資本主義の発展によるものですが、資本主義と利子とは切っても切れない関係にあるからです。
資本主義は近代ヨーロッパにおけるプロテスタンティズムを思想的なバックグラウンドにしていますが、中世ヨーロッパにおいても、利子により膨大な富を蓄えた人たちがいました。
それが、よりによって十字軍の末裔テンプル騎士団だったことから、その富は後に各国の羨望とそして嫉妬の的となることになりました。

1309年フランスのフィリップ4世はテンプル騎士団の団員達に無実の罪を着せ、騎士達を投獄、あるいは処刑し、その富を奪おうと目論みました。
そして騎士団がほぼ壊滅した1314年3月18日フィリップは騎士団長ジャック・ド・モレーを処刑し、ここに栄華を極めたテンプル騎士団は消滅したのでした。


☆ 3月18日 フランスを滅ぼしたテンプル騎士団の呪い(1314年)☆


1314年の今日テンプル騎士団の団長ジャック・ド・モレーが異端として処刑された。
テンプル騎士団は、聖地に向かう騎士の遺産管理から始まり、当初は信託銀行として、後に教皇から利子の徴収を認められるようになって以降、最初の国際銀行と言われるほどの金融財閥に発展していた。(最初の国際銀行 テンプル騎士団の破綻 )

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テンプル騎士団の栄華を妬んだフランス王フィリップ4世は、同じくテンプル騎士団の財産収奪を狙う教皇クレメンス5世と組み、でっち上げの罪を着せて騎士団を弾圧したのだった。
テンプル騎士団は崩壊し、その膨大な財産はフランス王室に没収されたが、実際にはその多くはホスピタル騎士団を初めて他の団体に継承され、フランスが手にしたものはその1割程度に過ぎなかったと言われている。
ジャック・ド・モレーは処刑の日、フィリップを呪う言葉を吐きながら火あぶりとなった。

ところがこの処刑の後、フィリップ4世はジャック・ド・モレーの呪いに悩むようになり、数ヶ月後脳梗塞で倒れ死亡。後を追うように教皇クレメンス5世も又急死した。
それでも不幸は止まらず、フィリップの親族は立て続けに死亡し、後継者を失ったカペー家は14年後に断絶。
カペー朝は滅亡し、テンプル騎士団の呪いというミステリアスなワードだけが歴史に名を残したのだった。

☆ 3月19日 南宋の壇ノ浦(1279年)☆


‪元に首都臨安を奪われた南宋は降伏したものの、宰相陸秀夫は幼帝衛帝を奉じて南に逃れた。
彼は遊牧民族であるモンゴル軍に対し、残された優勢な海軍で対抗しようとしたが、泉州の有力者だった蒲寿庚が元に寝返り、追い詰められた南宋残党軍は香港近くの崖山に要塞を築き、徹底抗戦にでた。‬

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‪しかし1279年の今日、奮戦虚しく敗北し、追い詰められた陸秀夫が衛帝とともに入水すると、残された南宋の重鎮達も次々と海に身を投げた。‬
‪あたかも壇ノ浦の戦いを彷彿させる崖山の戦いの結果、南宋は完全に滅亡したのだった。‬

☆ 3月20日 皇帝ナポレオンの復活(1815年)☆


1815年2月26日にエルバ島を脱出したナポレオンは、1000名余の護衛兵とともにカンヌ近くのゴルフ・ジュアンに上陸した。
しかしパリに向かうナポレオンは、グルノーブルでナポレオンはルイ18世の派遣した討伐軍7000人と初めて遭遇する。

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街道を塞ぐラ・ベドワイエル大佐の率いる第7戦列歩兵連隊を前に、ナポレオンは護衛兵に銃を下げさせると兵士の前に進みでて言った。
「第七連隊の兵士諸君。諸君らの皇帝はここにいる。撃ちたければ撃つがいい!」
銃声は起こらなかった。次の瞬間、皇帝万歳の声が沸き起こり、討伐軍全軍はナポレオンに寝返った。
ナポレオンの行くところ、軍は次々と寝返り、フランスは再びナポレオンを受け入れようとしていた。

この時の様子をル・モニュトゥール紙はこう報じたという。(後世の創作という説もある)
 「コルシカの怪物、ジュアン湾に上陸。」
 「食人鬼、グラッスに向かう。」
 「王位簒奪者、グルノーブルにはいる。」
 「ボナパルト、リヨン占領。」
 「ナポレオン、フォンテヌブローに近づく。」
 
そして最後は、
 「皇帝陛下、明日、忠誠なるパリにご帰還の予定。」
かくて1815年3月20日午後9時、ナポレオンはパリに入城し、フランス皇帝に復位したのだった。

☆ 3月21日 フランス革命の集大成 ナポレオン法典(1804年)☆


1804年フランス民法典、所謂ナポレオン法典が発布された。
ナポレオンは士官学校時代にローマ法大全を読破するなど民法に詳しく、ナポレオン自らが参加した起草委員会にて審議されたと言われている。
ギリシア・ローマ法以来の諸法に、フランス革命によって確立された人民の権利を加え包括的に明文化されたこの民法典はその後全世界の法律に大きな影響を与えた。

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所有権の絶対、契約の自由、過失責任など現代の民法の基本はナポレオン法典によって確立されたと言っても過言ではない。
ナポレオンの偉業のうち最大のものの一つである。


☆ 3月22日 ローマ帝国 軍人皇帝時代の始まり(238年)☆


皇帝を暗殺し帝位を簒奪したマクシミヌス・トラクス帝に対抗して238年の今日、元老院は属州アフリカ総督のゴルディアヌスをローマ皇帝に擁立した。
ゴルディアヌスは80歳という高齢だったため、息子を共治帝として皇帝宣言を行い、カルタゴに入城した。

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ほぼ全ての属州はその帝位を承認したが、マクシミヌス帝の部下がヌミディア軍団を率いて襲来しゴルディアヌスは敗死した。その治世は僅かに36日間だった。
一方ゴルディアヌスを退けたマクシミヌスも、直後に親衛隊の反乱によって暗殺された。
一連の内乱はゴルディアヌスの孫がゴルディアヌス3世として即位したことで一旦は収束したものの、ゴルディアヌス3世が不審死を遂げると内乱は再開。
50年にわたり、26人(自称、僭称まで含めると70人とも言われる)もの皇帝が交代する軍人皇帝時代が始まったのだった。


☆ 3月23日 束の間のベトナム王朝(1400年)☆

1400年の今日ベトナムの将軍だった胡季リは陳朝の少帝を廃し胡(ホー)朝大虞(ダイグゥ)国を興した。
胡は陳朝末期の腐敗を正す一方、 ベトナム初の紙幣を発行するなど開明的な政策を進めたが、ベトナム支配に野心を持つ明の永楽帝は、陳朝を再興すると称して大軍を派遣し、胡は敗れて処刑された。
その王朝は僅か7年間だった。

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こうしてベトナムは事実上明に併合されたが、間も無く明に対する不満をバックに黎利を指導者としてゲリラ戦で明を悩ませた。
1424年に永楽帝が亡くなると、遂に明はベトナムの統治を諦め、独立を認めざるを得なくなったのだった。


☆ 3月24日 ヒットラー独裁への道(1933年)☆

1933年の今日ドイツで内閣に広範囲な立法権を付与する授権法が成立した。
同種の授権法は過去何度もあったが今回はヒトラー内閣の事実上の独裁を可能にするほどの強力なもので全権委任法とも言われる。

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授権法の内容は以下の通り。

ドイツ国の法律は、憲法に規定されている手続き以外に、ドイツ政府によっても制定されうる。本条は、憲法85条第2項および第87条に対しても適用される。
ドイツ政府によって制定された法律は、国会および上院の制度そのものにかかわるものでない限り、憲法に違反することができる。ただし、大統領の権限はなんら変わることはない。
ドイツ政府によって定められた法律は、首相によって作成され、官報を通じて公布される。特殊な規定がない限り、公布の翌日からその効力を有する。憲法68条から第77条は、政府によって制定された法律の適用を受けない。
ドイツ国と外国との条約も、本法の有効期間においては、立法に関わる諸機関の合意を必要としない。政府はこうした条約の履行に必要な法律を発布する。
本法は公布の日を以て発効する。本法は1937年4月1日と現政府が他の政府に交代した場合、いずれか早い方の日に失効する。

授権法の制定のためには、ナチス以外にカトリック中央党の賛成が必要だったが、第5条の通りこの法律が時限立法であったことから、最終的にカトリック中央党も賛成に回ったのだった。
しかし、その後ドイツがどうなったかは歴史の示す通りである。
結果的には、政争を繰り返す立法府議員への失望がナチスの独裁への道を開いたのだった。