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週間版【今日の歴史】(4月8日〜4月14日)敵の敵は味方

イギリスとフランスと言えば歴史上一貫してずっとライバル。
しかし、そこに第三の敵が登場するとなれば、一転共闘してきたのが近代のヨーロッパ史の骨子と言えます。
第三の敵とはいうまでもなくドイツ。
プロイセンによりドイツが統一されたのは1871年のことで、日本の明治維新とほぼ同時期のことです。

近世以降のイギリスとフランスの対立は基本的に植民地の争奪を巡るもので、最初はアメリカ大陸、次いでアフリカの分割を巡って争い、1898年に両軍がスーダンのファショダでぶつかった時は危うく戦争になるところでした。
しかし逆にこの事件でアフリカの植民地分割の手打ちが成立したことから、両国の目は新しい植民地獲得、つまり英仏の利権を狙うドイツに向けられることになったのでした。


☆ 4月8日 敵の敵は味方(1904年)☆


1894年のファショダ事件でフランスに譲歩を強いたイギリスだったが、1899年から1902年まで続いたボーア戦争で多大な出血を強いられ、一方で統一されたドイツの勢力も無視できず、単独での世界秩序の維持は困難となりつつあった。
こうした国際情勢の変化にともない両国は過去数百年の対立の構図から、協調への方針を転換させ、1904年の今日、イギリスのランズダウン侯とフランスのポール・カンボン駐英大使の間で英仏協商が締結された。

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これによりエジプト、モロッコ、マダカスカルなどにおいて、ここまで対立を続けてきた両国が互いの勢力圏を確定させた。
また両国がドイツという新しい脅威を前に手を結んだことは、この後の第一次、第二次世界大戦へと続く新たな枠組みが確立されたことでもあった。

☆ 4月9日 死体の山の戦い(1241年)☆


バトゥ率いるモンゴル西征軍のうち3万余がバイダルに率いられ、ポーランドへと侵攻すると、ドイツ、ポーランドの諸侯はシロンスク候ヘンリク2世を指揮官に連合軍を編成し、ポーランドでこれを迎え撃った。

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1241年の今日、ドイツ、ポーランド諸侯軍はモンゴル軍の前に壊滅的な敗北を喫し、ヘンリク2世は戦死した。
この後モンゴル軍の別働隊がヘルマンシュタットの戦いでトランシルバニアを、更にバトゥ率いる本隊もモヒの戦いでハンガリー軍を全滅させ、次の目的地であるウイーンに迫ったが、ここにバトゥの元に皇帝オゴデイの急死の一報が届く。
オゴデイは後継者選出の為にモンゴル本国で開催されるクリルタイに出席するためハンガリーを放棄して撤退。辛くもヨーロッパは危機を脱した。
尚この戦いはワールシュタットの戦いと呼ばれるが、ワールシュタットとは地名ではなく死体の山という意味で、実際の戦場はポーランド南西部のリグニツァ(旧ドイツのリーグニック)である。
又当時の文献にこの戦いの記録がないことから、一説にはワールシュタットの戦い自体なかったという話もある。


☆ 4月10日 夏の無かった年(1815年)☆


1815年の今日インドネシアのタンボラ火山が過去1600年で最大と言われる大噴火を起こした。
これは歴史に残る最大の噴火で、そのエネルギーはポンペイを滅ぼしたベスビオ山噴火の20倍、山頂が吹き飛ばされた結果、4000メートルの標高のタンボラ山は2850メートルとなった。
火砕流は一瞬にして25キロ先の町々まで飲み込み、火砕流による死者は7万5000人から12万人に及んだと考えられている。

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更にこの影響は全世界に広がり世界の平均気温は1.7度あまり低下。
このため5月に吹雪が発生したり、7月に河川が氷結するなど異常気象が続出した。
極度の寒冷化による飢饉や疫病によってヨーロッパだけで20万人以上が死亡したと言われる。
その為この年は夏がなかった年として歴史に記録されている。
尚、ナポレオンのワーテルローでの敗北は、この噴火による異常気象による泥濘で持ち味だった電撃的な行軍が封じられたのが原因であるという真偽不明の説もあったりする。

☆ 4月11日 秘密兵器回回砲(1240年)☆


1240年バトゥ率いるモンゴル帝国西征軍は三軍に別れ、一軍はバイダルに率いられワールシュタットの戦いでポーランド・ドイツ軍を撃破した。
一方バトゥ率いる本隊は1241年の今日、ハンガリーの首都ペスト近郊のモヒ平原に進撃したが、ここにはベーラ4世率いるハンガリー軍10万が待ち構えていた。
数で劣るバトゥ軍先鋒はハンガリー軍に撃破され退却を開始、勝利を確信したベーラ4世は追撃しシャイオ川を渡って強力な橋頭堡を築いた。
しかしこれはバトゥの罠だった。
シャイオ川の南からスブタイ率いるモンゴル第三軍が姿を現し、南北からシャイオ川で包囲されたハンガリーの大軍は身動きが取れなくなってしまった。

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ここでバトゥは秘密兵器である7門の回回砲(大型カタパルト)で攻撃を命じ、密集したハンガリー軍に大損害を与えた。
逃げ道を失ったハンガリー軍は大混乱に陥り壊滅した。

このモヒの戦いでハンガリーは領土の大半を失い、滅亡一歩手前に追い込まれたが、バトゥの撤退により辛うじて命脈を保つことになったのだった。


☆ 4月12日 金で狂った十字軍(1204年)☆


第四回の十字軍は予定していた3万にうち1万に足らずしか集まらず、その為軍資金が大幅に不足。
ベネチアに払うはずの船代金が未払いのまま出発することとなった。

ここに現れたのが、弟に皇位を簒奪されたビザンチン帝国の亡命皇子アレクシオス。
彼は皇位奪還の暁には報酬として20万マルクを支払い、東西教会の統一を約束した。
この誘いに乗った第四回十字軍は、コンスタンチノープルを攻撃して皇帝イサキオスを放逐し、アレクシオスをアレクシオス4世として皇位につけた。

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しかしアレクシオスには約束を守る気も、又その能力もなく、早々に殺されてしまった。
金が払われないことに激怒した十字軍は、1204年の今日第四回十字軍は再びコンスタンチノープルを攻撃してこれを陥落させた。
こうしてビザンチン帝国は一旦滅び、新たにベネチアの傀儡国家ラテン帝国が建国されることになった。


☆ 4月13日 アムリットサルの虐殺(1919年)☆


第一次世界大戦への協力を条件に、将来のインド独立を約束したイギリスだったが、戦争に勝利すると早々に約束を破り、民族運動や独立運動をしたものを令状なしに一方的に逮捕、拘束できるというローラット法を制定し、独立運動を抑えにかかった。
この動きに反発したガンディは非暴力非不服従運動を提唱し、ゼネストなどが急速にインド全土に広まった。

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しかし1919年の今日アムリットサルでローラット法の制定に抗議して集まった民衆にイギリス軍が発砲。
死者1000人を越す大惨事となった。
アムリットサルの虐殺に衝撃を受けたガンディーは、一時非暴力非不服従運動の停止を表明するが、この事件はインド人の反英感情を高め、最終的にはガンジーの非暴力非不服従運動がインド全土に広まるきっかけの一つともなった。


☆ 4月14日 キングメーカーの死(1471年)☆

薔薇戦争前半において、最も権勢を振るったのはランカスター家のヘンリー6世を捕虜として、ヨーク公エドワード4世を即位させたウォリック伯だった。
その後エドワード4世と不仲になったウォリック伯は、エドワードを追放しヘンリー6世を復位させるなどして権勢ぶりを発揮し、キングメーカーの名で知られるようになった。
しかし、追放されたエドワード4世は1470年帰国すると、コベントリーで兵を集めていたウォリックの機制を制して電撃的にロンドンを制圧、ヘンリー6世を拘束した。
これに対しウォリック伯はロンドン奪還に向かうも、1471年の今日、バーネットの戦いでエドワードに敗れ敗死した。

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キングメーカーと言われたウォリック伯の死によってヨーク派の優勢は決定的なものとなったが、残ったヘンリー6世の王妃マーガレットはフランスの援助を受けてイギリスに上陸。
ランカスター、ヨークの両軍はディークスベリーでの最終決戦に臨むこととなった。