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週間版【今日の歴史】(3月11日〜3月17日)変態皇帝の最後

ネロ、カリギュラ、コンモドゥス、カラカラなど悪名高いローマ皇帝の中で、一番最悪な皇帝は誰か?と問われれば、恐らくトップに君臨するのがヘリオガバルス帝(エラガバルス)
何が最悪といえば、ローマ皇帝だけでなく歴代帝王の中でダントツの性的倒錯者。平たくいえば超変態。
一説にはトランスジェンダーの祖として最近は一部で人気があるという話もなくはありませんが、個人的な性的な趣味を国政に持ち込まれたら人民はたまったものではありません。
速攻で暗殺されたのも、まあ当然といえば当然でしょう。

☆ 3月11日 変態皇帝の最後(222年)☆

五賢帝の後の混乱を立て直したセヴェルス帝亡き後、跡を継いだカラカラ帝はまたしても暴君で、それゆえにパルティア遠征途上で兵士によって暗殺されてしまった。

この時親衛隊長を務めたマルクス・オッペリウス・マクリヌスは一説によれば暗殺の主犯とも言われるが、ともかくも帝位につき事態の収拾に勤めようとした。
しかしカラカラの起こした戦争の後始末でパルティアと屈辱的な講和を結んだことで軍隊は不満を抱いており、これを好機と見たカラカラ帝の母ユリア・マエサが息子のヘリオガバルスをカラカラの隠し子に仕立て上げて反乱を起こし、マクリヌスを倒し帝位につけた。

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しかし皇帝となったヘリオガバルスは軒並み外れて常軌を逸した人物であった。
公の場でも女装を好んだだけでなく性的にも完全に倒錯しており、変態的、凄まじい淫乱でもあったとされる。

彼は政治をまったく顧みず、公然と性的な倒錯や怪しげな宗教儀式に耽り、ローマの風紀は地に堕ちた。流石に彼の即位を支持した軍部もヘリオガバルスを見限り、かくてローマ帝国史上最悪の皇帝とされるヘリオガバルスは222年の今日遂に親衛隊によって暗殺された。

☆ 3月12日 ウィリアマイトのアイルランド制圧(1689年)☆

1689年の今日、イギリスの名誉革命をきっかけにアイルランドでは敗れたジェームス2世を支持するジャコバイトと呼ばれるカトリック信者が、プロテスタントによる土地の収奪などを不満として蜂起した。一方新たなに即位したウィリアム3世を支持するプロテスタントはウィリアマイトと呼ばれ、彼らとの間にウィリアマイト戦争と呼ばれる内乱が始まった。

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当時アイルランドではカトリックが多数だったものの、寄せ集めの軍は大軍といえど烏合の衆で、ボイン川の戦いでウィリアム3世の自らが率いたウィリアマイト軍に粉砕された。
この敗北に衝撃を受けたジェームス2世はジャコバイト軍を捨ててフランスに逃亡してしまう。

しかしその甲斐あってか間も無くルイ14世のフランスから援軍がジャコバイト側に到着。
これに力を得たジャコバイト軍はオーグリムでウィリアマイト軍に決戦を挑んだ。
しかし奮戦虚しくジャコバイト軍は敗北、同時にアイスランドのカトリック勢力は壊滅した。
これによってアイスランドは引き続き少数のプロテスタントによって支配が継続されることとなった。
そしてこのウィリアマイト戦争の結果が、後々の北アイルランド問題に繋がるのである。

☆ 3月13日 オーストリアの3月革命(1848年)☆


1848年の今日、フランスで起こった2月革命の影響がオーストリアに飛び火した。
民衆は憲法の制定や民族の自立などの自由主義的な改革を望み、ナポレオン亡き後の絶対王政を主導した宰相メッテルニヒの退陣を要求した。

皇帝フェルディナント1世の叔父ヨハン大公までがメッテルニヒを非難するに及び身の危険を感じたメッテルニヒは辞任してロンドンに亡命。
このオーストリア3月革命によってウィーン体制は崩壊し、自由主義的改革を目指す革命の波は全欧州に拡大した。

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更にこの機に乗じハンガリーでは民族意識が高揚し、ハプスブルグの支配から離脱せんとウィーンに迫った。

しかし寸前のところでヴィンディッシュ=グレーツ元帥率いる反革命軍がハンガリー軍を撃退。返す刀で国内の革命派も次々と鎮圧した。

こうして1948年の革命は潰え、欧州は新たな絶対主義体制へとつながっていくのだった。

☆ 3月14日 匈奴の建てた漢 晋を滅ぼす(313年)☆


三国志の最後の勝者となったのは魏の宰相だった司馬炎が建てた晋(西晋)だった。
しかし司馬炎は皇帝になると酒に溺れ、外戚の楊氏が国政を専横するなど不満が高まっていった。
司馬炎が病気で亡くなると、各地に封じられていた司馬氏の一族が次々と兵を挙げ、晋は八王の乱と呼ばれる大混乱に陥った。

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こうした中、八王の一人司馬穎は匈奴の軍事力を利用しようと図り、そのトップだった劉淵を招いたが、間も無く匈奴は漢王朝を復活させると称し自立。自ら漢を建て永嘉の乱と呼ばれる戦乱を引き起こした。

そして313年の今日洛陽、長安を次々と落とした第二代目の皇帝劉聡は、遂に西晋の懐帝を処刑し、これによって晋は滅亡した。
こうして華北に覇を唱えた劉聡だったが、晩年色香に迷い国を傾けその死後内部分裂により崩壊した。
以後中国は五胡十六国と呼ばれる300年に渡る未曾有の大混乱期に突入することになった。


☆ 3月15日 ブルータス、お前もか!(BC 44年)☆

BC44年の今日、ローマ内戦を収め独裁者となったユリウス・カエサルがブルータス、カッシウスら20人余りの共和派により元老院内で暗殺された。

この暗殺事件は「ブルータスよ、お前もか!」と言う言葉とともに非常に有名で、そのセリフは現代でも思わぬ裏切りの代名詞として使われる。

ところで、実は暗殺犯にはブルータスと言う人物は二人いたことはあまり知られていない。
一人がカエサルの落胤と噂されるほど溺愛されながら、暗殺犯の主犯となったマルクス・ブルータス。
そしてもう一人はカエサルの遺産相続人の一人で、オクタウィアヌスに継ぐ第2位に指名されたデキムス・ブルータスである。

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一般的には知名度が高いマルクス・ブルータスに対して言ったのだと言う説が有力だが、デキムスも死後公開された遺言書に相続順位2位と記されていたのでわかるように、陰ながらカエサルの寵愛を受けていた。(皮肉なことに本人がそのことを知ったのはカエサルの死後のことだった)
従って本当はそのどちらに言ったのかは、いまだに分かっておらず、カエサルの死とともに永遠に謎となったのだった。

☆ 3月16日 仮面舞踏会での暗殺(1792年)☆

1792年の今日仮面舞踏会の会場でスウェーデン王グスタフ三世が暗殺された。
グスタフ3世は専制啓蒙君主として国力を高め、戦争ではロシアを破り、フランス革命を巡って度々大陸へも鑑賞するなどスウェーデン中興の祖として、その地位を大きく高めたことで知られる。

因みにベルサイユの薔薇に登場するマリーアントワネットの愛人フェルゼン(ハンス・アクセル・フォン・フェルセン)は彼の寵臣であり、フェルセンがフランスに送られたのもグスタフ3世の命によるものだった。
しかし一説によれば暗殺事件の黒幕は、実はフェルセンだったとも言われている。

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グスタフ3世は占い師から暗殺を警告されており、自身もその危険を感じていた。
しかも驚くべきことに、その場が仮面舞踏会になるであろうことも自ら予言していた。
不幸にもその予言はあたり、 同時にその死によってスウェーデンが再び大国となる道は完全に閉ざされたのだった。
なお、文化を愛した叡王が仮面舞踏会で最後を遂げると言うドラマのようなシチュエーションからか、グスタフ3世は宝塚のミュージカルの演目としても有名である。


☆ 3月17日 ムハンマド初めての勝利(624年)☆

メッカを逃れメディナに移ったムハンマドは、メッカに経済的な打撃を与えるべく、300の信者を率いてメッカの支配者アブースフヤーンの隊商を攻撃すべく出撃した。

これに対し一方メッカでは1000人の軍勢が、ムハンマド討伐のため差し向けられ、624年の今日両軍はメッカに向かう通商路に位置するバドルで激突した。

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数的には大きく劣っていたものの、巧みに自軍に有利な地形を占めたムハンマドの戦術の才と信者達の宗教的な情熱に支えられたムハンマド軍は強く、数倍のメッカ軍を散々に打ち破った。

バドルの戦いで寡兵で大軍を破った事はムハンマドの宗教的奇跡と受け取られ、その後イスラム教が急速に普及する契機の一つともなったのだった。