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週間版【今日の歴史】(2月25日〜3月3日)皇帝軍総司令官 一代の英傑ヴァレンシュタイン暗殺さる

30年戦争のクライマックス、北方の獅子ことスウェーデン王グスタフアドルフ対傭兵上がりの皇帝軍総司令官、デア・フリートランデル(フリートラント公)ことヴァレンシュタイン。
この二人が対峙したリュッツェンの決戦では、グスタフアドルフがヴァレンシュタインを破るも、自らは戦死。
スウェーデン軍自体も大損害を被りその進撃は完全に停止しました。
こうなると権力を持ちすぎたヴァレンシュタインはもはや用済み。
1634年2月25日、皇帝の命を受けたと考えられる部下に裏切られ、暗殺されてしまいました。

☆ 2月25日 皇帝軍総司令官 一代の英傑ヴァレンシュタイン暗殺さる(1634年)☆


30年戦争で皇帝軍を率い連戦連勝。最後にはフリートラント公爵、帝国大元帥として栄華を極めた傭兵隊長ヴァレンシュタインは1634年の今日、部下の傭兵によって暗殺された。

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ヴァレンシュタインは独自の軍税により組織化された傭兵隊を率いる傭兵隊長で、最盛期には15万もの傭兵の指揮をとっていた。
デンマーク王クリスチャン4世を破り人位を極めたヴァレンシュタインだったが、成り上がり者の常で諸侯に疎まれ失脚。
その後スウェーデン王グスタフアドルフの侵攻により、カトリック軍総司令官ティリー伯が戦死し、皇帝軍が崩壊すると再び皇帝に請願されて皇帝軍総司令官の地位に復職した。
彼はリュッツェンの戦いでスウェーデン王グスタフアドルフを戦死させるも、戦い自体はスウェーデン軍がやや優勢で終わった。
しかし最大のライバルを失ったことで、皇帝によってはヴァレンシュタインはもはや用済みなってしまう。
彼はその後独自にスウェーデンとの講和を図り、ボヘミア王位を狙おうとしたと噂されたが、その為もあってか反逆の疑いをかけられ、皇帝フェルディナントによって暗殺されたと言われている。


☆ 2月26日 教皇派VS皇帝派 シチリアを巡る戦い(1266年)☆

教皇派(ゲルフ)と皇帝派(ギベリン)が争う13世紀のイタリア。
北イタリアの情勢は両派が拮抗していたが、イタリアの南半分を治めるシチリア王国は皇帝フリードリッヒ2世の庶子マンフリートがイタリア王となっていた。
教皇クレメンス4世は皇帝派のシチリア王国を支配するマンフリートが皇帝家のホーエンシュタウフェン家の世子ではなく庶子であることを利用して、正当な相続権はないと難癖をつけ、フランス王ルイ9世の弟カペー家のシャルル・ダンジューをシチリア王に任命した。
1266年の今日シャルルはベネヴェントの戦いでシチリア王マンフレーディを敗死させ、シチリア王カルロス1世となった。

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この戦いからしばらくして正当なシチリア王継承権を持つホーエンシュタウフェン家のコンラディンがシチリア奪還を計ろうとするも敗死し、世継ぎのいなかったホーエンシュタウフェン家は断絶。
神聖ローマ帝国ホーエンシュタウフェン朝は滅亡した。
こうして一見教皇派の勝利に終わったように見えたシチリアの戦いだったが、教皇の意に反し、カペー家は教皇に従わず、教皇派対皇帝派の戦いは下火になる一方、逆にフランスが大国としてヨーロッパに影響力を強めていくことなる。

☆ 2月27日 独立国ドミニカの苦難(1844年)☆

隣国ハイチの占領下に置かれていたドミニカは1844年の今日革命軍が蜂起し独立を果たした。

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しかしハイチの軍事圧力は強く、ドミニカは仕方なく独立を放棄しスペインに再併合を求めた。
流石にこれは 売国的ということですぐに再独立したものの、その後はアメリカに併合を求めて断られた挙句、今度は債務不払いを理由に50年間アメリカ軍に占領されるなど国政は困難を極め、ようやく独立国家として体をなしたのはアメリカ軍撤退後の1924年のことだった。

☆ 2月28日 エジプト反英革命(1922年)☆

1919年、第一次世界大戦の講和会議にエジプトが出席を拒否されたのをキッカケに、イギリスの保護国だったエジプトで大規模な反英革命が勃発した。

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革命は最終的に失敗したものの、革命の拡大恐れをなしたイギリスは方針を転換。
イギリス軍の駐留を条件に独立を承認することにし、1922年の今日アリー朝エジプト王国が成立した。
こうしてエジプトは独立を果たしたものの、実態はイギリスには多くの特権が与えられており、直接の統治でないというだけで、実態それほど大きく変わらなかった。
エジプトがイギリスの軛から解き放たれるのは、30年後のナセルによる革命を待たなければならなかった。


☆ 2月28日 最弱イタリア軍の大敗北(1896年)☆

植民地獲得競争に出遅れたイタリアは1882年にエリトリアに植民地を築くと、積極的に東アフリカへの進出を進めた。
1889年にソマリアをイタリア領ソマリランドとして植民地とし、その中間にあるアフリカに残された数少ない独立国エチオピアに食指を伸ばした。
イタリアは1894年エチオピアへの侵攻を開始したものの、補給が滞り進撃は一向に進まなかった。
しかしそれを消極的とみたイタリア政府は、渋るバラティリエ将軍指揮下の4個旅団1万5000にアドワに集結中のエチオピア軍を殲滅するため攻勢に出るよう指令を下した。

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しかし、この時アドワには12万ものエチオピア軍が集結しており、しかもフランスの支援多くの近代装備も有し、皇帝メネリク2世や皇后タイトゥーも到着して大いに士気が上がっていた。
エチオピア軍の精強さを知っていたバラティエリは夜襲に勝機を見出したが、地理に不慣れたイタリア軍は帰って各地で包囲されてしまい、エチオピア軍の集中攻撃を受けた。
こうして1896年の今日行われたアドワの戦いで、イタリア軍はエチオピア軍に壊滅的な大敗を喫し、実に全軍の3分の2を失った。ヨーロッパ諸国としてアフリカ諸国に初めて大敗したこの戦いはイタリアに衝撃を与え、クリスピ政権は崩壊。軍は撤退を余儀なくされ、エチオピアの独立は維持されたのだった。

☆ 3月2日 失われたブルゴーニュの切り札 ファルコン砲(1476年)☆

1476年の今日スイスのグランソンを攻囲中の当時ヨーロッパ最強の軍勢を率いていたプルゴーニュ公国のシャルル突進公が、援軍に駆けつけたスイス盟約者同盟に手痛い敗北を喫した。
戦いそのものは小競り合いで約2万人のブルゴーニュ軍に対し人的損害は1000人ほどでしかなかった。
しかしスイス軍の伏兵に驚いたブルゴーニュ軍前衛が大砲を置いたままま敗走してしまい、虎の子のファルコン砲の大部分を失ってしまっていた。

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当時の大砲は主として攻城兵器として用いられたいたが、シャルルは野戦砲とし大砲を運用する方法を立案し、当時最先端だった車輪付きで移動が容易なファルコン砲を大量に装備していたのだった。
そして、金にあかせて集めた傭兵と高価な大砲の火力が自慢だったシャルルにとって、この小さな敗北は、決定的な命取りとなった。
シャルルは軍を再編成したものの、失った砲兵隊までは再建しきれず、6月にはムルテンで大敗を喫し、翌年シャルル自身も戦死してブルゴーニュ公国は滅亡した。


☆ 3月3日 ブルガリア人の恨みの原点 サン・ステファノ条約(1878年)☆

汎スラブ主義を旗印に南下政策をとっていたロシアは、バルカン半島のスラブ人の独立を口実にオスマン帝国に宣戦布告。
1878年の今日露土戦争の講和条約であるサン・ステファノ条約が結ばれた。
この条約によりロシアはスラブ系のブルガリア人の自治を要求。結果として黒海からエーゲ海に至る大ブルガリア公国が建国されたが、実際はロシアの傀儡国家以外の何物でもなかった。

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ロシアのエーゲ海に進出を危惧する列強はサン・ステファノ条約の破棄を要求。
ビスマルクの仲介のより、サン・ステファノ条約に変わってベルリン条約が結ばれ、マケドニアはトルコに返還され、東ルメリ地方は独自の自治区になるなど、ブルガリアの領土は大幅に削られた。
この時の一方的に領土を奪われたブルガリアの恨みが、かつてバルカン半島の大国だった第一次、第二次ブルガリア帝国の再興を目指すと言う大ブルガリア主義と結びつき、後にバルカン戦争、更には第一次世界大戦、第二次世界大戦にまでに繋がる導火線となったのだった。