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週間版【今日の歴史】(3月4日〜3月10日)赤髭皇帝バルバロッサ

ナチスドイツのソ連侵攻作戦として名高いバルバロッサ作戦。
それまでドイツは侵攻作戦に、白作戦(ポーランド侵攻)、黄色作戦(フランス侵攻)など単純な色の名前を用いていましたが、対ソ連戦だけは少しひねって赤髭(バルバロッサ)として知られる歴史上の人物の名前を作戦名に使いました。
しかし、肝心のバルバロッサ作戦が失敗したため、翌年の攻勢作戦は再び色に戻され青作戦(ウンターネーメン・ブラウ)と名付けられることになりました。
因みにこの青作戦の結果、スターリングラードでドイツ軍は大敗し、以後第三帝国の崩壊への道を転げ落ちていくことになります。


☆ 3月4日 赤髭皇帝バルバロッサ(1152年)☆

1152年の今日即位したバルバロッサことフリードリヒ1世は中世で最も有能な皇帝であった。
バルバロッサとはイタリア語で赤髭という意味で、フリードリッヒが赤みを帯びたブロンド色の髭を生やしていたことからの渾名だったとされる。 
彼は巧みな政治力で宿敵ヴェルフ家やバーベンベルク家を懐柔して帝国の動乱を沈め、返す刀でイタリアへ遠征。

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レニャーノの戦いで敗れるも得意の政治力でロンバルディア同盟の内部分裂を誘い、コンスタンツの和約を結んで北イタリアを平定した。
又シチリア王国とも姻戚関係を結ぶことで南イタリアにも領域を広げ、神聖ローマ帝国に安定と平和をもたらした。

バルバロッサは1189年第三回十字軍として出征し、イコニウムの戦いでアイユーブ朝を破るなど大戦果を挙げたが、行軍途上で川で溺れ死ぬという予想外の死を遂げた。
しかし一部の人々はその死を信じず、ドイツが困難になった時バルバロッサはまた戻ってくるという伝説が生まれたのだった。


☆ 3月5日 幻の日本ハワイ連合(1881年)☆


1881年の今日世界一周の外遊中だったハワイのカラカウア王が来日し、突如明治天皇への会見を申し出た。これは史上初の国家元首の来日と首脳会談であった。
当時のハワイはアメリカの侵略にさらされており、明治天皇との会見に臨んだカラカウア王は将来の日ハ連合を見据えて、王位継承権を持つカイウラニ王女と天皇家との婚姻を申し入れた。

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しかし当時の日本にはまだ明治維新直後であり、日清戦争は更に13年後、日露戦争は23年後の時期である。当然他国に肩入れする余裕も、ましてやハワイに対するアメリカの侵略を跳ね返す力など到底なくこの申し出を断らざるをえなかった。
このカラカウア王の行動に不審を抱いたアメリカは、1887年入植アメリカ人によるクーデターを決行し、王宮を占領。
白人のみに参政権を認める新憲法を強要し、王の実権を簒奪した。
日本との連合によるハワイ独立の夢を見たカラカウア王はサンフランシスコに送られ、その一年後に亡くなったのだった。

(奪われた楽園 ハワイ亡国物語)
http://blog.livedoor.jp/archon_x/archives/4071363.html

☆ 3月6日 リメンバーの原点 アラモ砦の玉砕(1836年)☆

メキシコ領テキサスに入植したアメリカ人達は、メキシコのサンタアナの独裁に反発を強め、1835年独立のための反乱を起こした。
サミュエル・ヒューストン率いるテキサス独立軍は、コス将軍のメキシコ軍を駆逐し、暫定政府を樹立。
これに対しサンタアナは自ら大軍を率い、テキサス平定に乗り出すこととなった。

サンタアナの大軍は次々とテキサス軍を破り、アラモ伝道所に籠る250人のテキサス独立軍を包囲した。
彼らは13日間の籠城の末英雄的な奮戦をし、メキシコ軍に多大な犠牲を強いる。
しかし1836年の今日、圧倒的多数のメキシコ軍の前に遂に力尽き全員玉砕したのだった。

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この時点でテキサス独立軍は連戦連敗で追い詰められていたが、アラモの英雄的な戦いに勇気づけられた独立派はメキシコからの独立を宣言した。
そしてここで思わぬ神風がテキサスにもたらされる。
サンジャシントでサンタアナ率いるメキシコ軍を偶然補足したのだった。
テキサス軍は、約3倍の大軍にも関わらず「リメンバーアラモ!」の掛け声の下これを強襲。
思わぬ奇襲によってメキシコ軍は総崩れとなり、大統領サンタ・アナは捕虜となった。
この大逆転勝利によって、サンタアナ解放の引き換えにテキサスは独立を果たしたのだった。

☆ 3月7日 超緊縮政策 ドッジライン(1948年)☆

敗戦後の日本は凄まじいインフレに見舞われた。
卸売り物価は1935年を100とすると、1949年には2万8000というハイパーインフレになっていたのだった。
これに対抗するため1946年の今日、所謂預金封鎖や新円切り替えが実施されたが、インフレを抑えるには至らず、1948年の今日GHQは、日本経済は米国の援助と補助金という竹馬に乗っているようなものでありこれらを廃し緊縮財政政策をとるべきであるというデトロイト銀行のドッジ頭取の意見を取り入れ、為超緊縮財政や1ドル360円の固定相場制による消費抑制、輸出振興、およびシャープ勧告による税制の抜本改正を柱とする経済安定9原則を日本政府に実施するよう命令した。

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通称ドッジラインと呼ばれたこの政策で戦後インフレは収まったが、その反動は大きかった。
超緊縮財政により中小企業の資金繰りは悪化し、街には失業者が溢れ、一転して激しいデフレを招いた。
この安定恐慌と言われたデフレにより、株価も暴落し、この時つけた東証株価平均85.25円が現在に至るまで東証株価の最安値となるほどだった。
日本経済の本格的な復興は、1950年の朝鮮戦争による戦争特需を待たねばならなかった。

☆ 3月8日 肥満女王のブリテン統一(1702年)☆

1702年ステュアート朝最後の女王アンがイングランド・スコットランド・アイルランドの女王に即位した。

彼女の治下で三国は統合されグレートブリテン王国が誕生し、その初代ともなった。
アンは17回妊娠したが、不幸にも世継ぎには恵まれなかった。
そのため彼女は王位継承法を定め、この後の王位継承順位を定めたことがこの後のグレートブリテン王国の安定につながることになったと言われる。

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彼女は幼少期は運動好きな少女であったというが、ブランデーナンと呼ばれるほど酒好きで、そのせいか晩年は大変な肥満体となり、亡くなった時の棺桶はほぼ正方形であったという。

☆ 3月9日 装甲艦の決戦! バージニア対モニター(1832年)☆

19世紀後半、それまでの木造の戦列艦に対し炸裂弾が圧倒的な威力を示すことが判明すると、各国は鋼鉄の装甲を施した戦艦、装甲艦の建艦に着手した。

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そして南北戦争中の1862年の今日、ハンプトンローズで遂に史上初の装甲艦同士の戦いが行われた。
まず緒戦で南軍の装甲艦バージニアは圧倒的な防御力で多数の北軍の木造船艦隊に大打撃を与えた。
しかし間も無く北軍の装甲艦モニターが戦場に到着し、バージニアの砲撃もまたモニターの装甲を破ることはできなかった。
モニターの砲撃はバージニアに若干の損害を与えたものの致命傷には至らず、結果は痛み分けで終わった。

その後も南軍はモニター撃沈するため何度も挑発を繰り返したが、モニターは戦場に姿を表すことなく、両者の対決は2度と発生しなかった。
いずれせよ以後軍艦の進歩は、重装甲を張り巡らす一方、それを上回る砲撃力を持つ大型砲を搭載するというシーソーゲームが展開されることになったのだった。

☆ 3月10日 遅すぎた勝利 カルタゴ艦隊壊滅す(BC241年)☆

第一次ポエニ戦争末期、アフリカに上陸したローマ軍を駆逐したカルタゴは、ローマに全島を制圧されたシチリア島奪還の為名将ハミルカル(ハンニバルの父親)を派遣した。
ハミルカルは少数の兵ながらゲリラ戦を展開して次々とローマ軍を撃破し、遂にはイタリア半島の南部のクーマエを略奪するなど猛威を振るった。
しかしハミルカル強しとみたローマ軍は、あえてハミルカルとは戦わず、海上からカルタゴ軍の拠点マルサカを攻略。

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更にマルサカ救援に向かったカルタゴ主力艦隊が、BC241年の今日アエガテス諸島沖でローマ艦隊と戦い、カルタゴ艦隊は全艦隊の半数を失うという壊滅的な打撃を受けた。
艦隊再建の財政負担に耐えられないと判断したカルタゴは戦争継続を断念。
ここに第一次ポエニ戦争は終結した。
実はこの時ハミルカルのカルタゴ軍は全島をほぼ手中に納めるまでになっていたのだが、艦隊全滅の後では全ては後の祭りだった。