見出し画像

声、顔、アンバランス

人は、自分の顔だけは絶対に肉眼で他の人が見ているように客観的には見れない。
自分の声だけは絶対に、リアルタイムで他の人が聞いているように客観的には聞くことが出来ない。

どんなに進化しても、技術を進歩させても、永遠に出来ない。
出来ないものは仕方がないのだけど、やっぱり撮られた写真や録音した声に違和感とか嫌悪感を感じる。
何度も聞いて慣れるしかない、と言うけど、何度聞いてもウッとなる。

これはどういう事なんだと内観して考えてみた。

自分の中で、受け入れられない部分と許せる部分がある。
受け入れられない部分をもっと遡ると、子どもの頃に何か怒られたり同級生に何か言われたりして、
こんな思いするなら、もうこんな自分は出したらダメなんだと思った部分だろう。

それは自分じゃない、と否定して、逆の傾向を強くして打ち消そう、バランスを取ろうとする。
私の場合、怒りの感情を悪いものとして、子どもの頃に封印してそれすら忘れてしまった気がする。

アンバランスをカバーする為に心が偏っている。
この心や感情の癖は、もう無意識に続いているから自覚出来ない。

写真で自分の顔を見た時、普段見慣れている鏡の像とは左右逆になるから、そのアンバランスさが目立つ。

録音された声も、アンバランスをカバーしようと無意識に力が入っている自分さえも客観的に記録されているから、すごく歪んで醜く感じられる。

この長年の心のアンバランスが身体に影響して、健康状態のアンバランスを引き起こす。
心や身体のバランスが取り戻せたら、自己治癒力が正常に働いて、長引く不定愁訴が治るのではないか?
人が病気になるのは、元々はこの心のアンバランスさと関係するのではないか?

自分の中の受け入れ難い面も、良い悪いでジャッジせず、これも私なんだとまず認める。
怒りを感じる自分を今まで抑えていたので、怒りが少し顔を出した時点で必死に打ち消して、怒りの言い分を聞かなかった。
何を言おうとして出て来たのか、感じ切って消える所まで行けていなかった。

怒りの部分を認めたからと言って、これからの私が怒りっぽくなったり暴力的になったりする訳ではない。
むしろ、存在を否定していたからこそ、私の怒りの部分は心の中で無視するなと主張し続けて、色々な問題となって表面化していたのではないか?
感じ切れず行き場の分からないエネルギーになって自分自身に向けられていた。

自分のここが嫌だという部分や、他人の嫌な部分。
他人にムカついて、私は絶対にこんな事しない考えないと憤る部分。
こういうのは私らしくないと思う部分。
そういう所こそ、それも忘れて来た自分の一部な気がする。
自分や他人にウッと思った時、アンバランスが生まれる前の自分の全体像を知る手掛かりになるかも知れない。

ただ最初に書いたように、絶対に完全に自分を客観的に捉える事は出来ない。
未来の可能性も分からない空白のままだ。

分からない部分もやっぱりそのままに認める。
こうありたいというのは置いといて、そういうもんとして自分を丸ごと認める。

というのを最近考えました。
考えていた数日間、頭の中でアナ雪の勝手「ありの〜ままの〜」という歌が回っていた。
ありのままってベタな陳腐な言い回しになるけど、ありのままが難しいよな。

私も学生時代、ありのままとかオンリーワンに大した価値なんてない。ありのままを受け入れて欲しいなんて甘えた事言ってないで、自分を磨いて価値ある人間になれと教わった。

自分より人生経験を重ねた偉い先生が、私達の事を思って言ってくれているのだからそうなんだろうと聞いていたけど、
そうした価値観が大人になっても精神や身体に影響を与えて不調をもたらしているなら、やっぱりちょっと違うのかなと思った。
動物や草木のように、ありのまま、自然のまま、というのはそんなに悪い事にはならない、結構価値ある状態なのかなと思った。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?