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哲学へのいざない 〜古代ギリシャから思いを馳せて〜

やあ、こんにちは。哲学大好きお兄さんだよ。
この記事を読んでくれて嬉しいよ。キミも哲学に興味があるんだね。
今日は「哲学とはなにか?」を考えるよ。

まず、キミは「哲学」に対してどんなイメージをもってるかな?

「哲学」に対するイメージ

パッと浮かぶのは小難しい顔をしたオジさんかな。「物は存在するか」とか「正義とは何か」とか言うんだよね。あるいはもっと怪しい雰囲気かもしれない。「すべての根源は神」とか「愛はパトスから生じる」とかさ。

ビジネスの世界では違った使われ方もするよね。「あの人は哲学を持っている」とか「これが成長企業の経営哲学」だみたいなさ。この場合は個人的な理念みたいな意味があるんだろうね。

どれも哲学といえば哲学なんだろうけど、イマイチ「これだ!」感がないよね。

いろんな「◯◯学」と比べてみる

「学」とついているからには、何かを研究する学問なんだろうね。
じゃあ他のいろんな「◯◯学」と比べてみるのはどうかな。

例えば、生物学は「生物」を研究する学問だよね。わかりやすい。
じゃあ数学は何だろう。これも「数を扱う」学問だね。図形もあるじゃないかと言われそうだけど、こちらは幾何学という名前がつけられている。数の代わりに文や記号を扱うのは論理学と呼ばれているね。

他にも、物理学は「物質の振る舞い」を考える学問と言って良いし、化学は「物質の変化」を解き明かす学問と言えそうだ。経済学も文字通り「経済の動き」を捉える学問だ。

じゃあ哲学は? そう「哲を研究する」学問だよね!
……とはならない。何だよ「哲」って!

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Philosophyを「哲学」と名付けた西周(にしあまね)先生
ちなみに「哲」は「あきらか。道理にあかるい」の意

「哲学」という概念が日本に入ってきたのは19世紀後半。Philosophy(知を愛する行為)を西周先生が雰囲気で訳したんだ。だから単語自体にはあまり意味はないんだ。

哲学とは「知を愛する」行為?

哲学はPhilosophyの翻訳で、元々は「知を愛する」という言葉だということは分かったね。でも待ってほしい。学問って全部そういうものじゃないの?

生物学者も数学者も物理学者も宇宙学者も、みんな知を愛している。研究に没頭し、新しい発見すべく汗を流している。それは何よりも知ることが好きだからじゃないのかな。でも彼らは哲学者とは言われない。

Google先生に聞くとこう返ってくる。

哲学とは、人生・世界、事物の根源のあり方・原理を、理性によって求めようとする学問。また、経験からつくりあげた人生観である

確かに哲学の説明っぽい。後半はまさに「スティーブ・ジョブズの哲学」みたいなやつだよね。でも前半はどうだろう? やっぱり物理学とか生命科学も「世界、事物の根源のあり方」を求めているのではないのかな?

実は全部、哲学だった!

そう!実はすべての学問は哲学だったんだ
それを紐解くために、古代ギリシャ時代に立ち返ろう。
ほら、見えるかい? あそこの川岸に難しそうな顔をしたおじさんが座っているね。ぼくたちがいま学問と呼んでいるものは、この男性のつぶやきから始まったんだ。あっ、ほら何かを言うよ、耳を澄まして。

タレス「モノって何からできとるんかな? 水なんちゃうかな?

そう!これ!タレスさんマジ最高です!!!!
何……?よくわからない? ごめん、一人で興奮してしまったね。

この人、タレスさんっていうんだけど、何がすごいって、それまではみんな「この岩がここにあるのはゼウスが蹴り上げたから」とか「今日風が強いのはヘーラーがため息をついてるから」とか、そんな神話で納得してたんだよ。でも彼はそんな説明に頼らず自分の頭で答えを出そうとした。

だって大地って水に浮いてるやん? 雨降ったらオリーブに実ぃ成るし。やっぱ全部もとは水やて

わあああああああ!なんてすごいんだ!
……繰り返しになるけれど、それまでは物事が起こる理由なんて、誰も考えもしなかったんだ。黒い石をこすったら火が出るし、川に横道を掘れば低い方に流れてくる。そんな知識はあったけれど、何故それが起こるかなんて誰も真剣に考えてこなかったんだ。

タレスさんを馬鹿にしてはいけない。いまあなたが「宇宙の始まり、ビッグバンはどうして起こったの?」と聞かれたらなんて答える? これはそういうことなんだ。

これがいまから2600年ほど前の出来事。この日が哲学の始まりであり、いまぼくらが学んでいるすべての学問の始まりでもあったんだ。それから一大ブームが起きた。古代ギリシャ人はいろいろな根源や原理を探求し始めたんだ。ただこれは、別にタレス先生が指原莉乃みたいに影響力を持っていたわけじゃない。ここには社会の変化が関係しているんだ。

ちょうどギリシャが積極的に周辺国を征服していた時代なんだ。そしてすごいスピードでいろんな国の文化や知識が流れ込んできた。すると何が起こるか。自分たちが当たり前と思ってたものが絶対の価値じゃないとわかってくるんだね。戦争は奴隷制も支えたから、働かなくてよい市民たちは、気になる気持ちを抑えられなかったんだろうね。

そして古代ギリシャ人のセンスの良さは秀逸だった。彼らは世紀の大発明「論理的な筋道で物事を考える」という手法を生み出したんだ。論理的な筋道とは「AだからB」というのを、誰が見ても同意できるということ。いまでは当たり前だよね。でもこれはギリシャ人が発明した思考法なんだ。この技を使っていろんな物事を解明しようとした。

例えばタレスの「世界は何からできてる論」はその後200年にわたって議論されて、最終的には「すべては原子からできている」というところまで到達したし、幾何学に至っては紀元前3世紀にユークリッドが完成させてしまった。ぼくらはいまでも彼が発見した定理を使っているんだよこれらをすべて紙と鉛筆(もといパピルスと葦)だけで解き明かしたというのだから、本当に驚きだよね。

そして「論理的に考える」ということはどんなものにでも応用することができた。だから、哲学も物理学も数学も元々は同じ行為だったんだ。時代が進むとそれぞれの分野がだんだんと専門的になってきて、覚えることも多くなってきたから分離して名前をつけていったんだ。その分類をしたもの古代ギリシャ人。そう、アリストテレス先生だね。彼はよく「万学の祖」って言われるんだけど、彼が学問を作ったわけじゃなくて、ぐちゃぐちゃになってた学問体系をわかりやすく整理していったんだ。「自然学」とか「政治学」とかね。

アリストテレスは(中略)学問体系を「理論」「実践」「制作」に三分し、理論学を「自然学」「形而上学」、実践学を「政治学」「倫理学」、制作学を「詩学」に分類した。
出典)Wikipedia

哲学は取り残された学問?

すべての学問は「哲学」という一つの学問だったことがわかったね。
そして、そこからいろんな学問が切り出されていった。物の動きは「物理学」と名付けようとか、政治に関するのは「政治学」としようとか。

これでようやく、現代の「哲学」が何かが見えてきたね。そう。2500年の間にいろんな学問が切り出されていったあとに、現代まで残っているもの、どうしても分類できなかった学問の集まりが「哲学」なんだ

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Wikipediaによる「哲学」のジャンル一覧。
とらえどころのないものばかりが並んでいる

こうして眺めてみるといくつかの傾向が浮かんでくるよね。

まずは「目に見えないもの」が残っちゃってるみたい。形而上学(感じることができないものという意味)とか心理学とか。考えてみれば当然だよね。目に見えない/触れられないものはつまり実験できないってことだから、学問として成立しそうにないものね。

あとは場所や時代によって変わるものも残っちゃってるね。倫理学とか美学とか、社会哲学もそうだね。「三角形の内角の和は180度」とか「地球が太陽の周りを回っている」とか言えれば学問として成立するんだろうけど、「猫を食べたら罪」とは言えないものね。(じゃあなんで「鶏はいいの?」という問に答えられない)

もちろん近い将来「人間の認識」を完全再現できる実験器具が生まれたら「認識学」は物理学に分類されるかもしれない。学問の切り出しとはそういうものだ。

じゃあ、哲学って取り残されてしまった学問なのかな?
実はそんなことは全くない!むしろ「哲学」が扱うテーマが深すぎて切り出すことができなかったという方がしっくりくるんだ。円をコンパスで描くことはできるけど、幸せを紙の上に表現することは非常に難しい。生き物を体系化することはできるけど、人間の存在理由を分類することは困難だ。

人が自分自身の姿を見ることができないように、人間は人間自体のことが一番よくわかってないんだ。「良い」とか「悪い」とか「好き」とか「嫌い」とか「関係」とか「認識」とか。きっと感覚ではわかっているのに、これらが一体何なのかを僕らは説明できそうにないよね。いろんな学問が切り離された現代哲学は「人間を知る学問」と言っていいんだ。

理性を使うと、見えない世界が見えてくる。
当たり前だと思っていたことが、そうじゃないとわかる。
これが、僕たちが哲学を愛してやまない理由なんだ。

理性を使うと、見えない世界が見えてくる

最後にギリシャ人が「すべては原子からできている」という結論に至ったストーリーを紹介して終わろうと思う。哲学の奥深さがきっと伝わるはずだ。

最初はタレスさんが「全部水からできてんじゃね?」って言ったんだよね。その後いろんな人がいろんな説を唱えた。火やら数やら空気やら。そんな中で全く異なる視点を持った、三人の天才が出てきたんだ。(名前は覚えなくて大丈夫だよ)

一人目、ヘラクレイトス先生は「感覚」を信じる人だった。彼は自然を観察し、すべてが移り変わっていることに気づいたんだ。雲は流れ、芽を出した草木は枯れ、雨が降るとまた芽吹く。彼は物質は決まったものから成るのではなく絶えず移り変わっているという発想に至ったんだ。(=万物は流転する)

二人目、パルメニデス先生は逆に感覚なんて信じなかった。だってどう考えてもモノは確実にあるもの。石を砕いても小さい石になるし、それを砕いてもまだ小さい石(=砂)になる。目や肌という「感覚」に頼ると存在しなくなるように見えるけど、理性で考えると物質はどんなに砕いても絶対に無にはならないと考えたんだ。(=万物は不変である)

どちらも正しそうだよね。だからこの論争は長きに渡った。

そこで三人目、デモクリトス大先生が登場する。
「理性的に考えてどちらの主張も正しそうに思える。ということは、どちらかが間違っているのではなく、どちらも正しいのではないか?」。そして彼はこう考えたんだ。

 物質が変化するのは間違いない。だが絶対にこれ以上は砕けないという状態も存在する。じゃあその最も一番小さい状態のものがモノの根源なのではないだろうか。そしてそれがいろんな形に組み合わさることで、我々には変化して見えるのではないだろうか。

…………。すごくない?
顕微鏡も何もない時代に、理性だけで2500年後の現代まで伝わる真理を解き明かしちゃったんだ! もちろん、これは彼がひとりで考えたわけじゃない。彼の師匠やそのまた師匠から脈々と思想が受け継がれてきたわけだけど、人間の理性が底知れない可能性を秘めているのがわかる事例だよね

おわりに 〜哲学へのいざない〜

さて。哲学の楽しさが伝わったかな?
決して小難しい顔をした人たちが、小難しい言葉でブツブツつぶやいてるわけじゃないってことだけでも伝われば嬉しいな。

頭を使って、何かを考えてみること。
それでキミも、立派な哲学者だ。

「何か」はできるだけ身近なものから生まれた疑問が良いね。日常のいろんな面を切り取ると、何でも哲学できるんだ。例えばこんな感じかな。

「昨日も先輩に怒られた」
→「なんで先輩は怒ったんだろう」
→「どうして人は怒るという感情を持ってるんだろう?」

ニュースをきっかけにしても良いね。

「香港のデモが半年たっても収まらないらしい」 
→「国に不満があるんだなあ」
→「そもそもなんで国なんてものがあるんだろう?」

こうやって疑問を持つことができれば、無限に遊べるのが「哲学」なんだ。
答えが正しいかはさほど重要じゃない。答えを導こうとする行為自体が哲学であり、その答えが「自分にとって信じられる」ものであるかが重要なんだ。

いわゆる歴史上に名前が残っている哲学者というのは、彼らが導き出した答えが、多くの人にとって信じられるものだったということなんだ。決して彼らが「唯一の真理」を見つけ出したわけじゃない。時代によっても変わるし、むしろ哲学は「その時代を映した人間のありさま」とも言えるんだ。

彼らのアイデアの中には共感できるものもあれば、全く賛同できないものもある。これは次回以降で説明していければと思うよ。

それではまた!
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