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【宿題帳(自習用)】サファリとテンベア


KenTanahashiさん撮影

Mais le vrai voyageur sera ceux qui partent pour partir.----Baudelaire(ただ行かんがために行かんとするものこそ、真の旅人なれ---永井荷風『あめりか物語』のエピグラフ)---ボードレール「旅」

「あめりか物語」(岩波文庫)永井荷風(著)

東アフリカの共通語、スワヒリ語に「サファリ」(safari)という言葉と「テンベア」(tembea)という言葉がある。

サファリというのは、「狩猟狩り」だと思われているが、もとは、目的を持った旅である。

これに対して、テンベアというのは、目的をもたずに放浪する旅である。

トイレに行くのもサファリなのである。

目的だけをめざして行くサファリは、途中にかいま見る景色や邂逅する人との触れあいが少ない。

目的を持たずにさまようテンベアでは、いつどこにたどり着くか分からないが、その時その時の出会い、発見に満ちた旅になる。

路上観察学というのも、トマソン運動というのも、テンベアの思考がなければ生まれてこない。

「路上観察学入門」(ちくま文庫)赤瀬川原平/藤森照信/南伸坊(編)

そして、思考も垂直思考、水平思考に倣ってサファリ型とテンベア型に分けることができる。

思想的にも、お散歩することが大切なのである。

高速道路を道なりに進むことではない。

将棋の羽生善治に、高速道路理論というのがある。

過去の対局の棋譜がデータベース化されており、局面に応じて、どの棋士がどんな手を打ったかがすぐわかる。

定跡(囲碁では「定石」)や手筋の研究も容易になった。

その結果、ある程度の強さまでには、時間がかからずに到達することができる。

高速道路を突っ走るようなものだというのだ。

問題は、その先で高速の下り口まではたどり着けても、そこで大渋滞に巻き込まれたかのように、先へ進むことができないでいる。

下の道をゆっくり散歩できる気力をもっていないといけないというのだ。

確かに!

移動というのは目的地に行くだけではなかったはずだ。

ウンベルト・エーコは、「エーコの文学講義」の中で、

「なにか重要な、もしくは魅力的なことがおころうとしているときには、道草の技量を磨く必要がある」

といい、

「森は散策の場所です。狼や人喰い鬼から逃れるためにどうしても抜け出る必要がないのなら、のんびりするのも悪くありません。

木立ちのあいだを抜け、草むらを彩る光をながめたり、苔や茸や下草の様子をじっくり調べたりして。

のんびりするというのは時間を無駄にすることではありません」

と話している。

「エーコの文学講義―小説の森散策」ウンベルト・エーコ(著)和田忠彦(訳)

民俗学者で旅の達人だった宮本常一も、大正12年、故郷から初めて大阪に働きに出るとき、父親から十カ条の旅の心得を教えられた。

「宮本常一の旅学―観文研の旅人たち」福田晴子(著)宮本千晴(監修)

その第一が「汽車の窓からよく外を見よ」だった。

田や畑に何が植えられているか。

育ちはどうか。

村の家が大きいか小さいか。

駅の荷置き場にどんな荷が置かれているか。

参考までに、宮本善十郎さんの言葉「父の十箇条」を紹介しておく。

(1)汽車に乗ったら窓から外をよく見よ、田や畑に何が植えられているか、育ちがよいかわるいか、村の家が大きいか小さいか、瓦屋根か草葺きか、そういうこともよく見ることだ。

駅へついたら人の乗りおりに注意せよ、そしてどういう服装をしているかに気をつけよ。

また、駅の荷置場にどういう荷がおかれているかをよく見よ。

そういうことでその土地が富んでいるか貧しいか、よく働くところかそうでないところかよくわかる。

(2)村でも町でも新しくたずねていったところはかならず高いところへ上ってみよ、そして方向を知り、目立つものを見よ。

峠の上で村を見おろすようなことがあったら、お宮の森やお寺や目につくものをまず見、家のあり方や田畑のあり方を見、周囲の山々を見ておけ、そして山の上で目をひいたものがあったら、そこへはかならずいって見ることだ。

高いところでよく見ておいたら道にまようようなことはほとんどない。

(3)金があったら、その土地の名物や料理はたべておくのがよい。

その土地の暮らしの高さがわかるものだ。

(4)時間のゆとりがあったら、できるだけ歩いてみることだ。

いろいろのことを教えられる。

(5)金というものはもうけるのはそんなにむずかしくない。

しかし使うのがむずかしい。

それだけは忘れぬように。

(6)私はおまえを思うように勉強させてやることはできない。

だからおまえには何も注文しない。

すきなようにやってくれ。

しかし身体は大切にせよ。

三十歳まではおまえを勘当したつもりでいる。

しかし三十すぎたら親のあることを思い出せ。

(7)ただし病気になったり、自分で解決のつかないことがあったら、郷里へ戻ってこい、親はいつでも待っている。

(8)これからさきは子が親に孝行する時代ではない。

親が子に孝行する時代だ。

そうしないと世の中はよくならぬ。

(9)自分でよいと思ったことはやってみよ、それで失敗したからといって、親は責めはしない。

(10)人の見のこしたものを見るようにせよ。

その中にいつも大事なものがあるはずだ。

あせることはない。

自分のえらんだ道をしっかり歩いていくことだ。

(宮本常一「民俗学の旅」講談社学術文庫、p36-38から引用)

「民俗学の旅」(講談社学術文庫)宮本常一(著)

今は、電車の中でも、バスの中でも、ひたすら音楽を聴いて、マンガを読んでいる人の何と多いことか。

散歩した時に見かけた花が、家でたまたま開いた雑誌で紹介されているということがある。

偶然なのだが、実は、感性が、それだけ広がって、今まで見過ごしていた事柄にも関心が持てるようになったということだ。

川本三郎が「あのエッセイこの随筆」で書いているが、散歩というのは、近代になって西洋から入ってきた。

「あのエッセイこの随筆」川本三郎(著)

江戸時代には、目的もなく、街中をうろつく行為はさげすまれ、どんなに歩きまわっても、何の収穫もないこと。

また、金を持たずに店頭をぶらつくことを、「犬の川端歩き(犬川)」と言った。

明治時代になると、ステッキが散歩に欠かせないアクセサリーとしてはやり出した。

文学作品に登場する散歩者の早い例は、森鴎外「雁」や夏日漱石「三四郎」であるという。

「雁」森鴎外(著)

「三四郎」夏目漱石(著)

漱石は、ロンドン留学中、紳士がステッキ片手に街を優雅に歩いているのをみて、それにならったという。

大佛次郎の「散歩について」という随筆もある。

それは知識人(高等遊民)やそれにならった学生だったという。

「日本の名随筆 (別巻32) 散歩」川本三郎(編)

坪内祐三は、「古くさいぞ私は」の中で、アメリカの思想家ケネス・バークのキー・コンセプトの一つ、“perspective by incongruity”

「不調和による展望」とされるが、“incongruity”「ごちゃまぜ」)を「寄り道しながら見えるもの」と意訳して説明している。

「古くさいぞ私は」坪内祐三(著)

寄り道していると、まっすぐの道に歩いていては、気がつかない展望に出会う。

その展望は、寄り道した者だけが知る、特別の展望だ。

まっすぐに道を歩いている時に見えるものは、もし見落としたとしても、いつでも、ガイドブックが教えてくれる。

しかし、寄り道で見える特別な展望は、そうはいかない。

大学で学ぶ学問も、そういうものだ。

教室での授業は、まっすぐな教えだ。

そのまっすぐな教えを、いかに効率よくさばいていけるのかの能力を、大学受験では問われる。

それはそれで、人間に必要な能力だ。

人生のある時期を、そういう能力の錬成に費やすことは無駄ではない。

けれど、それだけでは、まあ、半分。

また、「ストリートワイズ」の中で、「ささやかな未知」が大切だとして、福田恆存の言葉(新潮社版「小林秀雄全集」第十二巻「考へるヒント」の解説)を引いている。(表記は変えてある)

「ストリートワイズ」坪内祐三(著)

吾々が道を歩いている時、一里先の山道に目を奪う様な桜の大木があることを吾々は知らない。

そういえば、私も、東京/青山に、隔週で一年半、二泊三日の長期研修で来ていた時、散歩して坂を下りている時にいきなり、東京カテドラルが見えてきて、「なにごとにおわしますはしらねどもかたじけなさに涙こぼるる(どういう方がいらっしゃるかは知らないけれども、恐れ多く、そしてありがたい気持ちで一杯になり涙がこぼれてくるよ)」と西行が伊勢神宮を前に感嘆したような気分になったものだ。

「西行全歌集」(岩波文庫)西行(著)久保田淳/吉野朋美(校注)

明確に、いつ詠まれたかは分かっておりませんが、西行が、伊勢にいた頃、伊勢神宮に参拝した際に詠まれた歌と言われており、西行にそのつもりがあったわけではないが、「この歌は日本人の宗教感をあらわしている」と言われている。

面白いとおもうのが、真言宗(仏教)の僧侶だった西行が、神社(神道)で感動した歌を詠んでいるという点である。

よく言われるように、日本人は、教会で結婚式を挙げ、正月は、神社に初詣に行き、先祖供養には、お寺でお経をよむ。

宗派を超え、仏教も神道もごちゃまぜで大切にしてしまう民族(宗教感)である。

これは誇ってもいいことだと思う。

他宗を認めないことよりも、全て受け入れてしまう方が、所謂、「神」のおもいに近い気がするし、多様性に長けていると考えられるからである。

さて、話が少し逸れてしまったが、ドイツの科学者ヘルムホルツは、「素晴らしいアイデアは、晴れた日にゆるやかな山の斜面を登っていく時によく現れる」と語っているという。

「音感覚論」ヘルマン・フォン ヘルムホルツ(著)辻伸浩(訳)

かつて「美人論」を書いた井上章一も、散歩が好きだという。

「美人論」(朝日文庫)井上章一(著)

ある日、京都の河原町を歩いていたら、カーネル・サンダースの人形の前で写真を撮っているアメリカ人を見つけて、この人形が、日本にしかないことを知り、「人形の誘惑 招き猫からカーネル・サンダースまで」を書いた。

「人形の誘惑―招き猫からカーネル・サンダースまで」井上章一(著)

カントは、毎日、同じ時刻に、同じ所を散歩したので、町の人から時計がわりにされた。

「潮文庫 カント先生の散歩」池内紀(著)

女流作家のヴァーノン・リーは、各国を遍歴して作品を遺したが、「地霊」というものを信じていた。

「教皇ヒュアキントス ヴァーノン・リー幻想小説集」ヴァーノン・リー(著)中野善夫(訳)

「ことばの美学」ヴァーノン リー(著)栗原裕/荒木正純(訳)

人間に対する観察眼が鋭いシェイクスピアも、散歩が好きだったに違いない。

戯曲家のアーノルド・ウェスカーは、「彼ら自身の黄金の都市」という劇で、主人公に「バッハの方がシェイクスピアより先に天国に着いたのではないか」といわせている。

もちろん、バッハ(1750年没)の方が、シェイクスピアよりも遅く亡くなったのだが、シェイクスピアは、寄り道が好きだったから、まっすぐ天国へは行かなかったのではないか、というだ。

知りたいことしか書いてないマニュアルに頼らず、こんな感じで、「ささやかな未知」を探して生きたいものだ。

日常を、非日常の目で眺めることが大切だ。

異人の目で、物事に接することが大切だ。

今和次郎の考現学や、

「考現学入門」(ちくま文庫)今和次郎(著)藤森照信(編)

「現代思想2019年7月号 特集=考現学とはなにか――今和次郎から路上観察学、そして〈暮らし〉の時代へ」藤森照信/中谷礼仁/panpanya/石川初/鞍田崇(著)

「路上と観察をめぐる表現史 ──考現学の「現在」」石川初/内海慶一/田中純/中川理/中谷礼仁/南後由和/福住廉/松岡剛/みうら じゅん(著)広島市現代美術館(監修)

赤瀬川原平らの路上観察学も、

「海外路上観察学―ぼくの地球歩きノート」下川裕治(著)

「まち歩きが楽しくなる 水路上観察入門」吉村生/高山英男(著)

「風景の見え方」乗松毅(著)

そうした流れから生まれている。

赤瀬川は、「奥の横道」の「見える竜安寺と見えない竜安寺」の中で、

「奥の横道」赤瀬川原平(著)

次のように書いているが、赤瀬川は、お寝しょがひどくて修学旅行に行かなかったという。

この竜安寺というのは、教科書その他で、あまりにも知りすぎているので、それをもう一度確認するという感じがあるのは否めない。

たとえば、この寺が、ぜんぜん無名で、たまたま住職と路上で知り合って、ちょっと寄りますかといわれて、何も知らずに来て、この石庭の縁側に立ったら、やはり感動してしまうだろう。

何だこれは、と思って、思わず縁側に坐って、そのままじーっと眺め入るということになるだろう。

でも、いまは、もうそれを知っている。

頭で知った上でのことなので、縁側に坐っても、それらしくそれを演じるということになってしまってはどうもいけない。

竜安寺に限らず、いまは、何ごともそうである。

だから、外人になれたらいいのになと思う。

[4K] Ryoan-ji Rock garden 龍安寺 京都の庭園 Ryoan-ji Temple [4K] The Garden of Kyoto Japan

いまの世の中で感動を得るには、できるだけ、無知でいることである。

散歩するというのは、時間に変化を持たせることだ。

チェンジ・オブ・ペースなのだ。

直線的に時間を使っている時に、ふと、別の時間の使い方をするのが、新しい発見につながる。

惰性から逃れるということでもある。

芭蕉は、奥の細道を歩いたから、生涯の旅人だと思われているが、40歳をすぎて宗匠となって、「芭蕉翁」と呼ばれるようになって初めて、大がかりな旅をしたのである。

恐らく、周りに門弟ばかりで、日常性に、埋まりそうになってしまったのだろう。

別の視点、非日常を求めて旅をしたのである。

ルーチンワークからの脱出が、偉大な文学を生んだのである。

もちろん、きちんとした目的があったのだろうが、テンベア型な旅をしている。

文化というのは、結論ではなく、プロセスだ。

細部だ。

寄り道だ。

こだわりだ。

それが楽しめない人に、文化は語れない。

ムダの効用、ということも言いたくないが、ムダは、ムダであるだけで、意味がある。

「無用の効用」ヌッチョ・オルディネ(著)栗原俊秀(訳)

「無目的 行き当たりばったりの思想」トム・ルッツ(著)田畑暁生(訳)

余白にも意味があるように。

「考えすぎない練習」ジョセフ・グエン(著)矢島麻里子(訳)

デジタルの百科事典を持っているが、ちっとも楽しくない。

それは、知りたいことが、直線的に分かるからであり、「散歩」の部分がないからである。

大学も、自分が学ぶことがはっきりしていたら、誰も行かなくなるだろう。

自分の知らないことに出会えるから、「ときめき」があるのであり、何だか分からないけど、すごそうなことに出会うから、面白いのだ。

「資本主義の次に来る世界」ジェイソン・ヒッケル(著)野中香方子(訳)

「資本主義は私たちをなぜ幸せにしないのか」(ちくま新書)ナンシー・フレイザー(著)江口泰子(訳)

有用性ばかりの大学になったら、誰も行かなくなるだろうって思っていたけど、そんな大学が多いいにも関わらず、文科省が公表した学校基本調査(確定値)によると、2021年度の大学進学率は、54.9%で、過去最高だったことが分かった。(前年度比0.5ポイント増)

短期大学と専門学校を含む高等教育機関への進学率は、83.8%で、こちらも過去最高だった。(同0.3ポイント増)

これを知って、驚いた。

専門学校でいいから・・・・・・

「急がば回れ」ということわざは、「もののふの矢橋の船は速けれど急がば回れ瀬田の長橋」という、連歌師の宗長の歌から生まれたという。

昔、東から京都に入るのには、琵琶湖を横切る矢橋港からの船便と、瀬田の唐橋へ回る陸路のコースがあった時代の話だ。

船は近道だが、比叡おろしの強風を受けるので、欠航が多い。

また、危険でもあるので、陸路の方がいいという具体的忠告だったという。

ラテン語でも“Festina lente.”というが、急いては事をしそんじるのである。

谷川俊太郎の「あいまいなままに」に、こんなくだりがあった。

「谷川俊太郎 あいまいなままに」(人生のエッセイ)谷川俊太郎(著)鶴見俊輔(監修)

「楽しむことのできぬ精神はひよわだ、楽しむことを許さない文化は未熟だ。

詩や文学を楽しめぬところに、今の私たちの現実生活の楽しみかたの底の浅さも表れている。」

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