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(読書)「世界のエリートはなぜ美意識を鍛えるのか」山口周 著

 大学の瑣事に囚われてまたもアウトプットが遅れてしまった。つらい。

 前々回で「映画を早送りで見る人たち」でエンタメを急いで消化する人たちを、前回で「ファスト教養」で教養を急いで摂取する人たちを見てきた。今回はその真逆に位置する人たちに触れた『世界のエリートはなぜ「美意識」を鍛えるのか」を紹介したい。といっても、この本、伝えたいメッセージは徹頭徹尾シンプルである。ロジカルシンキングだけではこのVUCA(不安定、不確か、複雑、曖昧)の変化に対応しきれないので、ぶれない自分の美意識を持つことが大事ということだ。


 本書ではロジカルシンキングだけだと困る部分として、論理だけで導出できる答えは結局のところ「誰にでも到達できてしまう」こと(コモディティ化)、そうなると今度はその解への到達の速さ、あるいは省コスト化が求められてしまうこと、商品開発などの場合、さらにその先には独自性や個性(ブランド)を求められてしまうこと、技術や社会の変化もまた早いため、法がその変化においつかないため、ロジックだけで出した答えがその場は良くとも後で法改正で通用しなくなったり、遡及的に違法とされてしまうリスクがあることなどが指摘されている。コモディティ化の部分とそれに伴うスピードと省コストへの要求は特に深刻で、これはまさにAIが最も得意とするところだろう。人間同士でもこれを競ってきたからこそファスト消費、ファスト教養が求められてきたというのに(前回記事を参照)、AIがここに入ってきてしまったらもうAIの独壇場だろう。
 ここまでは前回紹介したファスト教養ともつながる部分だが、それとは別に技術や状況の変化に法が追い付かない現状に言及している点もまた重要だ。本書ではDeNAやホリエモンなどの事例から、その時点での法律に抵触していなかったとしても社会的に問題となりうる施策を挙げて実定法主義と自然法主義の議論にも触れている。ルールから逸脱しなければおとがめなしの実定法主義では、法令不遡及の原則としてそれまで違法ではなかったものが、のちの法改正で違法となってしまった場合には遡及して罪に問わないとされている。だが、実際問題としてグレーゾーンの行いは遡及して罪に問われることは少なからずある。単にルールやその論理的な適用だけでことを運ぶと、後から違法となって罪に問われたり、罪ではないにせよそれまで許された方法の変更を求められて手詰まりになったりするリスクがある。そんな憂き目にあわないようにするためには、単にルールが許すかどうかだけでなく、さらに己の倫理感やポリシーに照らし合わせてもなお許されるか、という2段階の判定で考えることを本書では促している。
 これは個人的にもよくわかる。企業の活動と法律の関係だけでなく、日常生活にも見られることではないだろうか。例えば、技術的に可能なことなら、法で規制されていないことなら何をやってもいいというわけではないだろう。夜中の3時に急用で部下に電話をかける。これを禁じるルールはないし、技術的にも可能だが、これを繰り返せば立派な迷惑行為だ。非常に軽微なケガで救急車を呼ぶ、カフェで飲食を終えたのに追加注文もせず長時間居座る、こうしたことも法に触れることではないが誰か(主にサービスを提供する側や他の利用者)に迷惑をかけている。法で縛ることはなくとも、後からローカルルールで禁じられることもあるだろう。これらは例としてはちっぽけで遡及して罰が課せられることはないだろうが、企業の活動と法の場合には遡及がありうるというわけだ。なので、「ルール的にはしてもいいだろうけど、人としてどうなの?」という最低限の発想(美意識や倫理観?)が問われる。
 また、美意識に沿った判断やアイデアは無難なだけでなく、その美意識やポリシーに惹かれて支援する、商品の場合なら固定ファンとして購入するといったことが起こりうる。先に述べたように論理だけで導出される答えは、他の競合他社(他者)にも到達できるし、AIには追い抜かれることすらありうる。そうした中での個性を出すとするならば、美意識やポリシー、企業理念の部分になる。

 今こうした美意識の必要性が叫ばれている理由としてはもう一つ、それまでのサイエンス偏重の反動というところもある。企業で何か企画を立ち上げる時、言葉とデータで共有し、説得できるサイエンス(研究者・科学者)側や、手に取れるモノや経験で示せるクラフト(エンジニア・職人)側の主張に比べて、非記号的な感覚や直感で美意識に訴えるアート側の主張は通りにくい。しかし、サイエンスやクラフトの側だけの意見では、先に述べたような競合他社との差別化に苦労する。だからこそ、マネのし難い美意識やポリシーの部分で人を巻き込むことが望まれる。たしかに、同じような製品でも、機械で大量生産されたもの、AIで導き出されたものよりは、歴史ある企業や熟練の職人の手で作られたもの、こだわりを持って作られたものの方がありがたみがあるし愛着もわくだろう。これについては以前別のエントリーでも言及した。

 とはいえ、その美意識に気付いてもらうのは簡単ではない。それは「映画を早送りで観る人たち」でも述べられているように、難解だと思う物は端折られるし、時間がないので一目でわかる強みを持たなければその美意識にも付き合ってもらえない。芸術にせよ、それ以外のコンテンツにせよ、やはり一目でわかる強みと、じっくり付き合って分かる、親しみの持てる美意識の両面が求められるのだろう。

 ・・・前回の「ファスト教養」にしてもそうだが、とにかく時間の余裕がなさすぎて皆が競い急ぐ状況にも問題がある気がする。早熟を求める気風がなければ落ち着いて自分の好きなものを探すこともできるのだろうが。これに関しては個人や組織の努力だけじゃなく、社会全体の問題という気もする。早熟じゃなくてもよい、やり直しがきいて遅咲きでもやっていける社会なら、ファスト教養に走らずに自分の美意識に従って学び楽しむこともできるんじゃないだろうか。





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