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急に具合が悪くなる① 未来に広がる可能性

 ツイッターで話題となっている「100日後に死ぬワニ」
 ちらちらと読んでいたのだが、気がついたらあと数日で死を迎えることになっていた。このマンガが何を意図して作られたのか、そしてどんな100日目を迎えるのかはちょっとだけ気になる。

 『急に具合が悪くなる』(晶文社)、この本は哲学者の宮野 真生子さんと人類学者の磯野 真穂さん2人の往復書簡だ。宮野さんは乳がんを患い抗がん剤治療を受けていたものの多発転移がみつかり、主治医から「急に具合が悪くなるかもしれない」と宣告されている。そんな宮野さんが人類学者の磯野さんとイベントを開催する計画を立てているとき、宮野さんは自分が「急に具合が悪くなるかもしれない」ためこのイベントを引き受けていいのか迷っていることを磯野さんに伝えたことからこの話は始まっていく。
 磯野さんは、でも考えてみたら誰だって「急に具合が悪くなるかもしれない」じゃないかと考え、リスクってなんだろうと問いかける。

マルティン・ハイデガーという哲学者が『存在と時間』(ちくま学芸文庫)で、日常生活に追われている人間にとって「死」とは何かを問うて、こんなふうに言っています。「死はたしかにやってくる。しかし今ではないのだ」。

 「100日後に死ぬワニ」は100日後に死ぬことが決まっているが、私たちは自分がいつ死ぬかを知ることはできないし、それは医師であっても正確に予想することはできないものだ。だから「死」は常に未来にある。

だつて、そもそも、私たちは「死」の「今」を経験することはできず、いつだって未来に「死」はあります(それはハイデガーも指摘しています)。たしかに未来の死は確実ですが、しかし、なぜ、その未来の死から今を考えないといけないのでしょうか。それはまるで未来のために今を使うみたいじゃないですか。いつ死んでも悔いのないように、という言葉は美しいですが、私はこの言葉にいくばくかの欺瞞を感じてしまいます。
私が「いつ死んでも悔いがないように」という言葉に欺瞞を感じるのは、死という行き先が確実だからといって、その未来だけから今を照らすようなやり方は、そのつどに変化する可能性を見落とし、未来をまるっと見ることの大切さを忘れてしまうためではないか、と思うからです。

 「急に具合が悪くなるかもしれない」という未来から今を照らしてどんなに考えたとしても、それはあくまでも「かもしれない」という可能性の話である。そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。それなのに、そうなるかもしれないという未来を確実視してそこから今の行動を決めていってしまうと、本当なら広がっている未来の可能性が失われてしまうというのだ。私たちは色々な可能性が広がる世界の中で、その都度自分の進む道を選んで生きていくのだ。

 この後、宮野さんは残念ながら本当に急に具合が悪くなってしまい、死という未来の出来事であるはずのものが手を伸ばせば届いてしまうような身近なものとなってしまう。つまり、100日目が目の前に迫ってきていることを知ってしまうのだ。そんな中でも、宮野さん未来に広がる可能性を追い続け磯野さんは伴走し続ける。お二人が紡ぎだした言葉をもう少し追っていきたいと思う。

 



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