ナイル川流水量増減と古代エジプトの盛衰

流域の氷河の溶融に伴うナイル川の流水量の増減が古代エジプト文明の盛衰を規定したのではないかという疑問をそれなりに調べてきたのだが、どうも初期王朝時代のバダリ文化からナカダ文化への移行を、農業から海外交易の萌芽と強く意識しすぎて、パピルス船さえあるか無いかの時代に、キナから紅海への東部砂漠に船旅ルートを創作してしまったようだ。

何もバダリが消滅してナカダ文化になったのではなく、ナイル川下流の両岸にはたくさんの有力集落があり、まだ中枢交易都市というのも生まれていないようで、相方の港ともいえるメソポタミアの歴史での紀元前3200年頃にはたして葦船にどれだけの外洋航行能力があったかのか疑問だ。ナイル川の航行は一定の北風が吹くことで比較的たやすいが、外洋ははるかに高度な造船技術を要求しただろう。

メンフィスは非常に広い都市

最初の首都メンフィスは非常に広かったということは、ナイル川の流水量の増加に伴い毎年5cm水位が継続的に上昇すれば例えば30年で1.5M、100年で5Mであるから、普通は長年同一地区にある都市の中枢機能を担う建物が河岸の移動に伴い当然後退して再建されねばならなかっであろう。砂の下から立派に装飾された石の建造部材があちこち広い範囲から発掘されるのはそういう理由ではないでしょうか。

ハトセプストとラムセス、ツタンカーメンの王墓

ルクソールの王家の谷はツタンカーメン王墓の出土品でその富の莫大さに驚愕させ、カラッポのラムセス2世の巨大王墓に一杯の宝を想像させます。ただ弱小王のツタンカーメンといえども王墓があるので弱小ではなさそうです。王名表で紀元前2050年から紀元前1070年までの980年間の王は129人なのに王家の谷の王墓は64基ですから65人のファラオには王家の谷には墓がありません。

一人平均8年弱、中にはラムセス2世さんのように67年の超長期の方もいるので、ルクソール時代が繁栄したように誤解しますが、ハトセプスト女王とラムセス2世の大活躍に幻惑されているだけで、すぐにCEO退任を迫れれたファラオも多いようです。トトメス3世は紀元前1457年メギドの戦でカナン地方を制圧し、ラムセス2世は紀元前1286年カデシュまで遠征しヒッタイト王国に迫りますが、どうも自国の長期経済衰退趨勢を領土拡大で何とか挽回しようと必死だつたのではないか。

紀元前1200年頃のモーゼ物語も、ナイル川の水量減少に伴う古代エジプト経済の将来に見切りをつけた人たちがカナン・パレスチナ方面へ新天地を求めて盛んに移住したことを示したものではなかろうか。