シュメール文明以降のメソポタミア

シュメール文化からアッカド帝国

シュメール文化はメソポタミアの南部のウルクなどの多数の都市国家時代で、農業を中心としつつインダス文明との交易、円筒印章、銅にイラン高原の錫を加えてより強い青銅器などを発明し発展した。紀元前2330年頃上流のアッカドのサルゴン王が下流のシュメールを併合しメソポタミアの統一を成し遂げアッカド帝国を築き、孫のナラム・シン王はさらに王国を拡大し道路網を充実させた。なお紀元前2120年頃に制作されたルーブル美術館蔵 グデア坐像は石への彫刻技術が飛躍的に向上して不思議がられていますが、素人には18金制の石加工道具を携えた古代エジプト人が販売や技術指導にメソポタミアを訪ねただけと感じる。

バビロン王国とアッシリア帝国

紀元前2022年頃シュメール地方で大きな飢饉が発生するなどアッカド帝国末期のウル第3王朝も滅亡し、各有力都市が群雄割拠するも紀元前1894頃下流部ではバビロンに有力な王朝ができ、特に紀元前1764年頃にハンムラビ王の時代には勢力範囲を拡大した。一方上流域のアッシリールを中心にアッシリア商人はロバをもちいてバビロンなど平野部のヒツジの毛織物と山岳部の錫を交易するなど各地を交易し商人が多くの富を蓄積しアッシリア王国を支えたようである。

バビロンとアッシリアが戦いの後併合されて紀元前1235年頃アッシリア帝国となるも、たぶん氷河蓄積の払拭に伴うティグリス川ユーフラテス川などの流水量の大幅減少から穀物生産が減少し、どんどん貧しくなるので安定とは程遠い時代が続いたのでありましょう。メソポタミア内の各都市国家の盛衰や域外からの異民族の侵攻を受け混乱した時代で、どれが信ぴょう性の高い資料かわからない時代が続いたようです。

紀元前670年頃アッシリア帝国内でのバビロンの経済的地位がどんどん高まり、紀元前612年にバビロン王がアッシリアの王都ニネブェを陥落してアッシリア王国を滅亡させ、息子で後のネブカドネザル2世は紀元前605年にエジプトからシリアを奪い、紀元前597年にエルサレムを占領しユダ王国の人々をバビロンに連行した、またフェニキアのティルスなどパレスチナ全土を支配下におき新バビロンニア帝国時代を築きました。

バビロン市が急発展できた理由

紀元前670年頃からバビロン市が驚くべき急発展し、政治や宗教とともに国際商業の中枢都市として繁栄を極めたことにより、紀元前612年にアッシリア王国を滅ぼしメソポタミア全土を再統一し、紀元前605年にはシリアを、紀元前597年にはエルサレムをはじめフェニキア、パレスチナ全土を支配下におくとは、先年までのアッシリア王国のジリ貧状態からは信じられない状況が出現しました。

これは長年の道路の整備とロバでの運搬に優れたメソポタミアがペルシャ湾から地中海方面への東西交易ルートを開拓し、宝石、象牙、金、銀、乳香、鉱石などがバビロンを中心に運ばれていたことを示していると考えられます。国際交易の利益、都市の繁栄が異国の高度な技能技術者の移住・流入を促し、高度な武器の開発や武器購入に充てられたことにより一気に商業流通帝国を築いたのでしょう。ここで重要なことはたぶん紅海からヨルダン川を北上して死海を超えエルサレムを介して地中海側へ通じる東西交易ルートが、ヨルダン川の流水量の減少から死海まで船が航行できなくなった時期が紀元前670年頃であろうと推測されます。

紀元前1000年からの300年のエルサレムの繁栄がちょうど終焉する年代です。紀元前605年のシリア編入、紀元前597年のエルサレム、フェニキア占領は、衰退しながらも依然競争相手のエルサレムから完全に東西交易の覇権を奪うためだったのかもしれません。エルサレムからバビロンに連れ帰つた人たちは東西交易のエキスパートや石材加工・建築、冶金の高度技術者など当時の世界最先端の人たちですので、一気にバビロニア帝国は世界を席巻してしまいます。