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『推し、燃ゆ』と『あの頃。』推しがテーマの2作品を一気に。まずは『推し、燃ゆ』ー推しがあたしの背骨ー

小説『推し、燃ゆ』と映画『あの頃。』、推しに人生を捧げる人間が描かれた作品を立て続けに味わった。

”推し”という共通点はあるものの、作品の中身は全く異なる。どちらも感想を書き残したいので、それぞれ書く。まず『推し、燃ゆ』。

現役大学生の書いた芥川賞受賞作品

『推し、燃ゆ』は先日発表された芥川賞の受賞作品である。著者の宇佐美りんさんは現役大学生で、本作がデビュー2作目、初候補入りで受賞するという快挙だった。

著者が現役大学生だということは読み終わってから知ったのだけど、「その若さでこの表現力と語彙力の豊富さ!(私は多種多様な言葉を使いこなす作家が好きで、かつとても尊敬している)」と驚いた。しかし同時に、その世代でなければ書けない作品だよなぁとも思った。

主人公の女子高生あかりはいわゆるデジタルネイティブ世代で、暮らしの中で水を飲むような当たり前さで、ネットで情報を集め、動画を見て、SNSで表現し、顔の見えない人間と繋がっていく。この辺の表現がとても生々しい。私の感覚では”じっとり”していると言いたい。このじっとり感が切実さに繋がっていると思う。

このじっとり感は、主人公の推しの推し方を描く時も際立っていて、大人が余裕を持って推すのとは全然異なるものとして、ひりひりとした現実感が伴っている。読んでいるうちは、主人公と一緒になって苦しくなる。

推しを推すことが”背骨”という生き方

主人公は学校生活や家族との関係性の中で、ずっと生きづらさを感じている。人が簡単にこなしていくことが、自分はどうしてもできない。

あたしには、みんなが難なくこなせる何気ない生活もままならなくて、その皺寄せでぐちゃぐちゃに苦しんでばかりいる。

そんなままならない人生の中で、主人公は推しを推すということを揺るがない自分の中心=”背骨”として、拠り所とするようになる。そんな推しがある事件を起こして炎上したことをきっかけに、もう一段深く推しに人生を捧げていく、というのが大まかなストーリーだ。

まず、全ての描き方が緻密で丁寧。主人公がなぜ推しをそこまで推さないといけなかったのか、そこが自然に受け入れられないとこのストーリーそのものを受け入れられないことになるが、主人公を取り巻く環境やそこでの気持ちを丁寧に描くことで主人公の心情に寄り添うことができる。

推しを好きになるきっかけを描く部分で印象的なフレーズがある。

重さを背負って大人になることを、つらいと思ってもいいのだと、誰かに強く言われている気がする。

誰かに言って欲しかった言葉を、推しから受け取ったのだろうと思う。この好きになるきっかけの描き方は、映画『あの頃。』と類似していたと思う。『あの頃。』では松浦亜弥のPVを見て涙を流すシーンがあるのだけれど、その瞬間もまた、あややから大きなメッセージを受け取ったのだろうと思う。

推しを推すことを、この本では”背骨”と表現しているわけだけれど、その言葉のチョイスがとても好きだ。身体を貫いている自分の中心、自分を支える全て。その切実さが、まさにじっとり伝わってくる。

推しの炎上と生と死の描き方

人は背骨を失うとどうなるか。生きていけないだろう。(なかなかリアルには想像しにくいが。)

推しの炎上により、主人公は背骨を失う危機に瀕する。

この危機を描く時、実際に生と死になぞらえている。まだ読んでいない人もいるだろうから、物語の終盤は詳しく書けないけれど、この最後の「生と死ゾーン」が個人的には一番すごいと思った部分だ。もうこの辺からは一気読みだった。

この「生と死ゾーン」から一つだけ引用。

推しを推さないあたしはあたしじゃなかった。推しのいない人生は余生だった。


今日たまたま宇佐美りんさんがテレビに出ていて、それを見たのだけれど、「小説とは違う言葉の使い方を知ることができるから」詩集を読むと話していて、当たり前だけれど、やっぱりそういう風にして膨大なインプットをしているんだなぁとしみじみ実感した。

最近もっぱら映像メディアにばかりのめり込んでいたけれど、久々に純文学に触れたら活字ブームが到来していて、今は長らく積ん読になっていた原田マハさんの『たゆたえども沈ます』を読んでいる。

映画『あの頃。』の感想は次回書きます。

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