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【140字の noteことはじめ】 #スタートライン

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note初心者の五百蔵が、こわごわと投稿しながら発見したことを書いた140字の日記のようなエッセイのような私小説のような連載のような連続小説のようなもの。 初心者のじたばたぶりを… もっと読む
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あの問題の裏には「調べる」と「知らせる」のダイナミックなリレーがありました。

上西充子/ Mitsuko Uenishi さん《文字起こし:「桜を見る会」質疑を支えたもの 山本豊彦(しんぶん赤旗日曜版編集長)・上西充子(国会パブリックビューイング代表)》※記事のURLはコメ欄に

noteではこんな記事が読みたいんです。《140字以上のnoteことはじめ 》

 私がわざわざnoteで読みたいのは、こんな記事です。  大事なこと、肝心なことを書いてある、…

「うつ」だけど、noteが1年以上は続いています《140文字以上のnoteことはじめ》

 「#noteの続け方」のお題企画に乗ってみます。  だけど、じっさいのところ「続け方なんても…

「表現の不自由展」に対する抗議電話は表現の自由により守られるべきです。ならば当然、「表現の不自由展」も表現の自由のひとつとして守られるべきです。私は、両方の表現の自由を擁護します。擁護するゆえに「抗議電話風」の言葉の暴力や脅迫が展覧会を中止に追い込んだことに抗議します。

ショスタコーヴィチを聴きながら、ふと気がつきました。この時代のソ連の芸術家は、「自由に表現したい!」と望めば望むほど、「スターリン、早く死んでくれ!」と呪うしかなかったのかも……。
自由のために一個人の死を待ちわびる、って状況が、出る涙もないくらい不毛で不毛で……やりきれません。

あったらいいかも、「クソリプしてごめんなさい m(_ _;)m」ボタン《140字以上のnoteこ…

 noteではじめて、いわゆる「クソリプ」とよばれるものをもらいました。  はじめはふつーにコ…

かわいい ふたりは、世界を変える《時事社会・時給自足》

 常夏さわやさんの描いた、れいわ新選組の新参院議員のおふたりがあまりにもかわいいので、 「みんなのフォトギャラリーにアップしてください!」  とお願いしたら、リクエストにこたえてくださいました!    私が常夏さんにアップをお願いしたのは、ひとつは「イラストとして純粋にかわいいから」です。  あまりにもかわいくて、私の中にあった船後さんと木村さんへの心の壁や、「国会議員としてちゃんやってけるの?」という、ちょっとイジワルな疑問を、ばっこーん!とこわしてしまいました。

noteを読むのが精神的に重く、いい!と思ってもスキすらも打てない日が続いています。はじめは「もと通り」になろうと抗ってましたが、いまはレッセフェールです。「できない」のも心身の何らかのサインであるのは間違いななく、「できる」になれば心身は勝手に動きます。時を待つしかありません。

ガチンコの記事を読むのにエネルギーが要するのは当たり前です。が、それにスキを打つのにも、同じだけエネルギーが要るとは知りませんでした。エネルギー不足で「スキ」という意思表示すらできないのは苦しいものです。だから、さらっと読んでさらっとスキができる記事には、安堵と感謝をおぼえます。

スパムな「スキ」はいりません《140字のnoteことはじめ + 》

noteは「スキ」でつながる場です。そのつながりがよりよいものになるために、この場に集う人は…

noteの連続投稿の日数が増えれば増えるほど、続けていたときのしんどさを思い出すのか、息が詰まる感じがします。するとこんどは「ここらで一度、連続を切らねばならない」という変な圧力も高まってきて、にっちもさっちもいかなくなります。気随にやればいいだけなのに、なぜかうまくいきません。

不調で長文がかけなくなっていました。ひさしぶりにふと長くかけたら、ひさしいあいだ聴くのがしんどくなっていた交響曲が聴きたくなりました。しょぼかった晩ごはんも、おかず多めで出来ました。ということは、この三者はバラバラの事象ではなく、ひとつにつながっているのでしょう。脳の不思議です。

noteで書き始めたのが、去年の今日。まがりなりにも1年続いたことになりました。
これまで、ダッシュボードの数字は、「年」も「全期間」も同じだったけど、これからはべつべつの数字になります。早くその日が来ないかとずっと待ってたはずなのですが、なんだか名残惜しいので、記念にスクショ。

イチローの引退会見、羽生の銀メダルの会見、両者とも国際的な選手だけど、応答に用いた言葉は日本語。 日本語のままでも言葉が届くのは、世界の人口75億のうち、日本列島という小さな範囲に住む1億2000万が、ほぼ全て。英語ならずっと広範囲に届くが、それでも日本語を用いる意味は有るのか?