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世界の首根っこをつかみたい

 まとまらないなりに書いとく。

 そもそもは高校の倫理か現代社会の時間かに、世界観には大きく2つあって、

 唯物論と観念論

 このどっちかであり、結局この世を動かしているはどっちの原理なんだ?……ってのが課題である、というようなことをきいたことが始まりだった。

 それからずっと考え続けて……ていうか、いつかは自ずと解がおとずれるはず、と棚上げし続けて、妊娠中の「自分の体内に独自の意思を持って活動する他人が居る」という理不尽な状態の体験を通じて、

 こりゃもう、
 唯物論で決まりだな (๑•̀ㅂ•́)و✧

 と直感的に確信して。
 いや、その時はちゃんと筋が通ってたんだけどさすがに忘れた……メモっとくんだった。私は妊娠とか出産とかに過剰に意味付けすることには賛成したくないひとなんだけど、にもかかわらず、女性固有の体験として、その渦中に放り込まれたら世界観がごちゃごちゃになってイチから練り直さないといけないほどのインパクトがある体験、っていうよりは、例えとしては悪いけど、コロナ禍のような強烈なクライシスの来訪であることは否定しないし、それゆえに、体験した女性群には世界観とか思考とか感性とかに一定の傾向が現れうることは否定できないのではないか、と感じている。
 とにかく、もし妊娠したら妊娠した自分を突き放した目で観察してみろ。自分の体であるのにツワリが来たりしてコントロールは失調するし、お腹が大きくなる成り行きに身を委ねるしかないし。《自分》が胎児という《他人》のための《道具》になるという、奇妙で理不尽な得難い体験だから。
 妊婦こそ哲学者になるべきだと私はおもってる。妊婦が哲学者になったら、絶対哲学の世界に新しい局面がもたらされるはずだ……と予言しとく。

 ということで、なんか、一生かけても解決しそうにないほどの哲学的命題が解決しちゃったよー 工エエェェ(´д`)ェェエエ工……としばらくは虚無におちいってたんだけど、にしても、唯物論についてちゃんと腑に落ちるような説明ができない、ということに気がつき、こんどは、

 唯物論を E = mc2乗 のノリで説明する

 という新しい課題を思いついたのだったっけ。
 ちなみに、指数は手書きなら難なく書けるのだが、スマホではどう書けばいいのか分からなかった……一体どこにあるんだ(?_?)


 で、これについてはわりと最近思いついて、それが、

 あるものはある
 無いものは無い

 だったわけで。
 note を使い始めた年かその翌年ぐらいだったと思うから、ホントに数年前。金曜ロードショーかなんかで「千と千尋の神隠し」見てて、あーね、と腑に落ちた。このときもまた、課題が解決してしまったので、工エエェェ(´д`)ェェエエ工 することなくなったー……と虚無に陥ってたのだった。
 「千と千尋の神隠し」については次また書く気になるのはいつかわからないのでついでに書いとくと、千尋が汽車にのって銭婆婆のところに行こうとしたとき、釜爺が

 この汽車は最近は行ったっきりで、
 帰ってこれるかわからない

 と告げる。
 ここで釜爺も視聴者も、千尋の無事な帰還を願ってハラハラドキドキオロオロと内心で冷や汗を流す瞬間になるのだけれど、そこで千尋が、

 線路があるなら、
 その上を歩いて帰って来ればいい

 というような答えをした瞬間に気が付いた。
 つまり。
 あるか無いか分からないモノの前でドキリとする釜爺と視聴者に対して千尋は、確かにあると分かっているモノを辿っていけば帰り道はある、と答えたわけだ。

 ついでながら、「千と千尋の神隠し」というタイトルは意味がわからなくて嫌いだったんだけど、この瞬間にやっと腑に落ちた。それから、この映画全体が「あるものはある、無いものは無い」というテーマで貫かれているということも。
 この《千と千尋の世界》にはあるはずなのに見えてないものが沢山ある。ハクが本当の名前を見失っていたこととか。坊にはオンモに出て冒険して帰ってくる強さがそなわっていたんだとか。逆にあると思っているものに騙されていたりもする。カオナシの生み出した金の粒が実は土くれだったとか。品位ある大人であるはずの千尋の両親が図々しくも屋台の食べ物を貪り食う姿とか。それが《神隠し》ということばに集約されている。オクサレサマが川の神としての神々しい姿を現すシーンと、いま目の前にいると見える坊は、坊ではないぞ、とハクが指摘し、はたして、その実体がカシラであった知った湯婆婆が憔悴するシーンは、《神隠し》というタイトルを最も象徴する瞬間だろう。しかし、あの湯婆婆のひととしての真の姿が、坊にはメロメロでかつ過保護な親バカであった、だなんて、油屋を仕切る雄姿から誰が想像しただろう。そして、神隠しされていたものの白眉はやっぱり、無気力少女にしか見えなかった千尋のなかに隠されていた、真面目さ、気働き、両親への愛情……宮崎駿さんがそんなこと考えてこのタイトルにしたかどうかは知らないけど、そーゆー解釈で大丈夫だと私は考えてる。

 ということでまた虚無におちいってたんだけど、ただ、このキャッチフレーズだけでは説明したりてない、使い勝手が悪い、つまり、現実的な課題に対して応用が効かない。ということで、

 もうちょっと使い勝手のいいキャッチフレーズはないかいな (?_?)

 というのがそれ以降のテーマで、なんかしらんが最近ズバズバと思いついている。


・◇・◇・◇・


 ということで、やっと本題にきたぞ……(;´Д`)

 使い勝手のいいキャッチフレーズ集

 は以下。

 ビジネスも子育てもご近所付き合いも創作の行き詰まりもなんとなく体が重だるいのも、世の中の大抵の問題は全部多分コレで説明できるし解決の方向が見えるはず。「△△を解決するには〇〇!」みたいなノウハウも、基本的な骨格はコレに落とし込めると予想している。
 ついでに。なんとなくだけど、メンタル系の疾患やトラブルの原因の一端は世界観のバグにある、と自分は考えてて、以下のキャッチフレーズは病気やこころがしんどい状態にあるところから直っていくのに役に立つ……つまり、世界観のバグ取りに使える、と考えてる。ていうか、自分で実験中。


① あるものはある
 無いものは無い

 これが大前提。説明省略。

 あるか無いかは、行動することで外部の世界に打診して、その結果で検証される。← 大事ッ!(๑•̀ㅂ•́)و✧

 《足で地面を踏むと下に地面があるのが感じられる》という程度のことですらそう。《歩く》という活動の一歩一歩が、「そこに地面があるということを実践をとおして検証してることになる」といっていいくらい。
 呼吸をしてるのも、そこに酸素があり、有害なガスが無いことを自身の身体を挺した人体実験で検証してるようなもの。坑道ではカナリアの死を通して、空気の状態が生存に適したものではなくなってきたことを検証する、ってことになる。

 ところで、昨今の日本人にとって、いちばん手痛い実践の検証結果は、小選挙区制自体には政治を良くする効果は無かった、じゃなかろうか(_ _;)……以前に戻すかどうかはさておき、すくなくとも中選挙区政のほうが、一強である自民党の奢りを抑制する効果は高かったんじゃないかと思われる。とはいえ、なにせ子ども時代のことだし、中選挙区制で投票したことないからそのへんの機微は実感をもってはよくわからない。中選挙区制下での選挙におけるリアルな体験や感情といまの小選挙区制下との違いは、ぜひとも上の世代に語ってほしいところだし、後の世代のためにも語り残しておいてほしいと思う。
 で。この手痛い実践経験は、② の《あると思っていても無いものは無い》という結果が出ることもあるのだ、という現実を厳しく教えてくれたわけだ。

② あると思っていても無いものは無い
 無いと思っていてもあるものはある

 ① だけでは人間ならではの問題は説明できないよな……と思ってて思いついたキャッチフレーズ。アタマの中で思ってることと現実との間に齟齬がありうる、というのが人間の特徴。
 で、① は動物的で、② は人間的ということ……とまとめようとして、うまくいかないことに気がついちゃった。だって動物って、アゲハの幼虫の目玉っぽい模様を目玉だと勘違いする。《無いものをある》と勘違いするから擬態が成立するわけで。

 ということでひねり出したのが、

③ 無いハズのものをあらしめ
 あるハズのものを無からしめる

 うんうん。
 こうなってくると、

 ① は植物的な生き方
 その場所にある資源を活用して、その場所に適応して生きていく。まさしく《あるものはある、無いものは無い》の生き方。
 ということで、そこに生えている植物は、何があって何が無いかを反映している(光があまり無い、水分は多くある → シダやコケが生えてる、みたいな)。

 ② は動物的な生き方
 今いる場所に食べ物がなくなっても、《無いと思っていてもあるものは(どこかに)ある》と探しに行く。
 一方、《ある》と思って行動しても、《あると思っていても無いものは無》かったりして、騙されたり勘違いしたりすることもありうる。

 ③ は人間的な生き方
 身の回りの便利なアイテム全部、縄文人にとったら《無いものは無い》的なアイテム。無いハズのものをあらしめるために、試行錯誤を繰り返し、様々なアイテムを発明して来たのが人間。
 ついでながら、空想でファンタジーの世界を存在させてしまうところも、ココに入れちゃっていいと思ってる。

 というふうに考えると、エジソンが「実験の失敗ってものは、これは違う、ということをしらみつぶしに明らかにしてるってこと」みたいにうそぶいていることの迫力が変わってくる。《無いハズのものをあらしめる》ために、外界に打診して《無いものは無い》を明らかにして、無いハズのものをあらしめるための条件を洗い出す、つまり失敗を繰り返しながら、《無いと思っていたけどあるものはある》を洗い出す、そうして新たな発明がこの世に生まれてくる。

 NHKの「魔改造の夜」なんて見てたらまさしくそれで。
 家電製品等々に実用性の面では全くカオスな改造を施し競うこの番組、トンデモなく想定外の《無いハズのもの》をあらしめるためには、とにかく手を動かす(実践を通して外の世界に打診する)しかないということが出場企業のドキュメンタリーからよく見える。
 そして悲しいことだけど、日本の超有名大企業は、《無いハズのものをあらしめる》力が弱まってきてるらしいことも……基本的に、大企業の出してくるものは見ていて面白みが少ないし、競技力も弱い(いや、KセラとT芝のアイデアは見てて面白かったけど)。逆に、業界では実力派なんだろうなと思われる名前を知らない企業が出してくるものは競技力がキレッキレで、それだけでもう目を奪われてしまう。
 Eテレの「すイエんサー」ですいガールたちが超有名大学生に勝てるのも、「ちょっとわけわかんないんですけど(?_?)」みたいなお題に既存の知識で対処するのではなく、いや、知識がないからこそ一から手を動かして自然法則に打診している……からだとおもってる。これはもうすこしきちんと語りたいけど、とにかく疲れたから省略(_ _;)


 みたいなことを考えてたら。
 《① あるものはある、無いものは無い》は、植物が種が落とされたまさにその《点》で享受できる物質で生きていくしかないわけで、とりあえずこれを【原点O】としとく。
 動物の場合は【原点O】に留まっている限り見いだせないもの(あるいは逃れられないもの)についても、《② あると思っていても無いものは無い、無いと思っていてもあるものはある》とばかりに移動することによって、より快適な環境を見出していくことができる。生まれ落ちた地点【原点O】を中心に、生存範囲が面的に広がるイメージ。
 人間はその上に(文字通りその上に)、【原点O】周辺をウロウロして見出したものを組み合わせて、自然界では自然発生的には生まれ得ないものを発明する。そして、発明されたものに囲まれながら生存する。これが《③ 無いハズのものをあらしめ、あるハズのものを無からしめる》生き方。うんうん。【原点O】の存在する《自然界》という【土台の平面】の上に(つまり、z軸の正の方向に)、発明品がズラズラと並んでいる《人間界》という【肩車されてる面】を作っちゃった。しかも、一次的な発明品群を《土台》として新しい発明品群を生み出したりするわけだから(ざっくりいうと、言葉 → 文字 → 本 → インターネット……みたいな。だけどその伝達手段の土台は、話すための口、聞くための耳、書きかつ入力するための手、見るための目という自然の産物。ということで、視力の限界を超えてくる微細な字でしか書けない「豆本」は好事家のための「趣味のアイテム」ではあっても「本」としては流通しない)。

 さて、イメージしやすいように《肩車》という表現をしたけど、つまりこれ、マルクスのいう「土台と上部構造」を腑に落ちやすく言い換えたもの(しかし、マルクスなんてまじでロクに読んでない。でも、この構造もまた唯物論と観念論と並んでホンマかいな?、と高校時代からずっと考察対象だった)。もっと砕くと、「土台 = お父さん」で全然オッケー。
 ていうか、物事が見えてきたら、この

《お父さんに肩車されてる》の関係

 はめっちゃつかえることがよくわかる。
 そして、いま人間は、あれも欲しいこれも欲しいと子どものごとくワガママホーダイに振る舞って、自然というお父さんを疲弊させていることも……お父さんだってずーっとおんぶに抱っこで肩車する(人間が必要とする資源を与え続け、人間の際限ない廃棄物を受容する)のは疲れるってばよ(;´Д`)


 【原点O】とか【平面】とか、数学的に理解するのはこの記事を書きながら発明して、《肩車》という表現はいまさっき発明した。けど、《肩車する子どもとお父さん》のイメージは、うつになった初期の頃に、なんでこんなにアタマも働かないしカラダも動かないんだろう、と考察してるときにひねり出した。
 これもいつ書く気が起きるかわからないので書いとくと、

 《心身の疲労》はつまり、
 《自分》という子どもが、脳みそさんや体さんという《お父さん》の疲弊を無視して《肩車》の上でワガママをいうから起こる

 という理解。これを、

 人間肩車理論

 と名付けてる。
 お腹が張っててもケーキを食べたいとか、眠いのに夜ふかしがやめられないとか。メンタルの疲労もそう。ヤバいケースだと体に悪いのに深酒して、あげく依存症になってしまったり、状況によってはクスリに手を出してしまうことすらある。
 脳も体も《お父さん》として自律的に運動して健やかさを保っている。この自律的な運動を邪魔してるのが、《肩車の上の子ども》である《自分》……《子ども》であるがゆえに無邪気でワガママで好きなものに一途。そんな形象でもある。そして《お父さん》は優しいから言いなりだし、よほど酷使されない限り文句を言わない。理科的でありながら詩的なテーゼなんだよな。
 ついでながら、これが、道元の短歌、

 濁りなき心の水にすむ月は波もくだけて光とぞなる

 につながってくる。
 《お父さんに肩車されてる子どもである自分》は、盲目で横暴で、道元の云う心の水をガンガン濁してくれやがる(ーー;)……そーゆー関係性に目を開け!、そうすると、心の水を澄み切ったまま保つ術も自ずと見えてくるから!、と道元は喝を入れてくれてるんだと解釈してる。

 ていうか、メンタルを病むと考察の宝庫になる、っていうの、当時を振り返ってつくづく思う。この《人間肩車理論》は当時うつとそこからの快復の方途について考察した三大理論の2番目で、さらに《① 人生重いコンダラー理論》と《③ 妄想鏡餅理論》っていうのがあるんだぜ(๑•̀ㅂ•́)و✧。それぞれ着眼点が微妙に違うだけで、指してるものは全部一緒だけど。
 もともとは、心と体は車の両輪、という一般的な言い回しへの違和感から発展したんだった。だから、私にとっては「違和感」ってすごく大事。違和感があるってことは使い勝手が悪い、ってこと。「両輪」的な理解はコンダラー理論でずいぶん使い勝手が良いものに変貌したし、しんどいときには何かと助けられた……折が来たらそのうち書く。
 いまは当時よりずいぶん楽にアタマもカラダも働くから(なにせ、2桁の足し算の繰り上がりを間違えまくってたりしてたんだよ(_ _;))なにも懊悩しなくても生きてられる……ということで、偉大なる哲学者達は絶対、ハンパない生き辛さに青息吐息してたに違いない、と推察してる。


・◇・◇・◇・


 というふうにふくらむから長くなるんだが……(-_-;)

 ③ 無いハズのものをあらしめ
 あるハズのものを無からしめる

 については、《無いハズのものをあらしめる》については、「例えば、発明とか発見とかだな」とか「ファンタジー小説とか夢小説とかだな」、あるいは「抽象化して典型を絞り出すこととかイデアとかだな」とか理解しやすいけど、

 あるハズのものを無からしめる

 って、ちょっとわかんない。
 最初は「ニホンオオカミとかニホンカワウソを絶滅させたようなもの……かな (・・?」なんて考えたりもしてたけどしっくりこない。

 で、さらに考えた。
 これってつまり、

 そこにちゃんとあるのに、
 「無い」ってことにした世界線で生きてくことができる

 ということではないかと。

 大きくいうと、ナチスの罪悪を無かったことにする歴史修正主義とか。敗退を誤魔化す大本営発表とか。どっちもエグいゼ(ーー;)
 それから、いまホットなのは、LGBT の存在。現在の日本では法律も常識も「LGBT は存在しない」という世界線で組み立てられている。それを、あるものはあるとして認めた体系に変えようぜッ(๑•̀ㅂ•́)و✧、というのがいまの運動だ、と理解したら、なんだかスッと腑に落ちる。
 女性の社会的な能力もそう。無いってことにされてきた。逆に男性は、家事育児の能力が無いってことにされてきた。家事がGNP に入ってない、なんて、Qアノン的な陰謀かよ!、といまなら理解しやすいけど、学生時代にはイマイチピンときてなかった……それは「家事には経済的価値は無い」という前提の世界にどっぷりハマってたから。
 社会全体で《あるハズのものを無からしめる》方向に動くと恐ろしい結果になることをありありと示したのが、ジャニー喜多川さんの件。
 陰謀論の数々も、《あるハズのもの》を自分の視野から無くそう、無くそう、と必死になって思い込もうとしてる個々人の営みの集合体、というふうに理解したらいいのかもしれない。

 ついでに。いま現在もかなり多数のひとが目をつぶっているのが、「ソ連も中国も、そもそも社会主義の国なんかじゃぁないシロモノだったんだよ。社会主義としての実態なんて、ロクになかったんだよ。たぶん」ってこと。私はなぜか先月か先々月に突然悟りが来た。ソ連解体前に中学校で「社会主義国家」として学ばされたことの効力が、突然切れたんだと理解している。
 じゃあアレはなんだって?……看板だけ社会主義の「羊頭狗肉」の独裁国家ってのがとりあえずは適当なんじゃないだろうか(独裁が「君主」とか「独裁者」とかいった個人によって世襲的になされるんじゃなくて、「政党」という集団によってなされてるところになんだか独自性が感じられる)。うん、ヨガっぽいポーズだけ真似てヨガとしての効き目は全然無いヨガ、ってイメージがピッタリかも。あと何年かしたら間違いなく、「アレを社会主義と思ってるなんて勉強不足」「アレは結局、自称社会主義。『自称』してるのを鵜呑みにするとか無いよな」といわれる時代がくると考えてる。
 とりあえずこれは社会主義について論争したいんじゃなくて、「人間は学ばされて思い込まされたことに縛られるし、思い込みの効力が切れるのにはかなり時間がかかる(下手したら10年とか20年とかの単位で)」という実例としてあげてる、ってことを読者には理解してほしい。

 こんなふうに考えていくと、ジャーナリズムもだけど、個々人が「あるものはある、無いことにはしないで」と声に出すのは大事。
 だってこんなふうに人間は簡単に

 《あるハズのものを
  無からしめた世界》

 で生きていくことができるから。

 ところで。
 《あるハズのものを無からしめた世界》ってのは、数学的なノリでいうと、z軸の負の方向なんだろうな……とうっすらおもってる。あるいは虚数の世界なのかもしれない。ていうか、数学は苦手なのに、こーゆー場面では数学に落とし込むのは好きだし自然とそうなる。

 ああ……そういえば、湯婆婆の「名前を奪う」というのは、《あるハズのものを無からしめ》た世界を創ったことになるんだ、そこに対象者を閉じ込めて、過去にあったハズの諸々によって形作られた人格を名前ごと記憶からも消去させてしまうんだよ……と理解すると、マジで恐怖 ((((;゚Д゚))))ガクガクブルブル


・◇・◇・◇・


 ということでだ。
 これでだいたいは羅列できたかな?

 世界の首根っこをつかむための、
 使い勝手のいいキャッチフレーズ

 をまとめるとこうなる。

 ① あるものはある、無いものは無い
 ② あると思っていても無いものは無い、無いと思っていてもあるものはある
 ③ (人間は)無いハズのものをあらしめ、あるハズのものを無からしめる(ことができる)

 それぞれは表と裏というか、禍福は糾える縄の如しというか、互いが原因となったり結果となったりみたいな関係にある。つまり、この事象はコレで決まりッ(๑•̀ㅂ•́)و✧、みたいにスパッとはならない、ということ。


 あるか無いかは、

 実践 → 外部の世界に打診 → 検証結果が返ってくる

 ということ。
 とにかく最後には、なんでもいいからやってみなはれ(๑•̀ㅂ•́)و✧
 ていうか、やらんことには検証できぬ。
 それがこの世だ。

 メンタルの主治医に夫のことをグチったら「口下手な可能性が高いから、ことばよりも行動に注目してあげた方がいいよ(つまり、行動にこそ本音が反映している)」とアドバイスされたけど、これもその類なんだろうと理解してる……で、たしかに観察してみたら、口と態度はビミョーにモラ夫なんだけど、やってくれることはまともでやさしい……お願い事をしてもめったに動いてはくれないけどね(^_^;)。


 それから、

 《お父さんに肩車されてる》の関係

 を世界のアチコチに見出していくこと。

 この世界は、微生物を土台とする食物連鎖しかり、《そこにあるもの》を土台に肩車してもらいながら組み立てられている。《そこにはないもの》を土台にしたり組み込んじゃったりしたら、日本の技術力の粋、あーんな長大橋も、こーんな高層建築も、どえりゃー高速移動手段も成立しない。秒で事故る。もしくは空白部分に負荷がかかり、じわじわと疲弊がすすみ、いつか破綻する。
 逆にいうと、ムリな注文でもこなしちゃう「職人」という産業を支える《お父さん》が無くなったら、これらもぜーんぶ作れなくなっちゃうってことなんだろうな(T_T)


 これらを人間の心と体と自分とメンタルヘルスの関係の理解に使うときは、

 ① 人生重いコンダラー理論
 ② 人間肩車理論
 ③ 妄想鏡餅理論

 ということになるんだけど、これらは上記3つを具体的な事象に当てはめた同工異曲な理論ということになる……思いついたのはコッチが先だけど。いうまでもないが、理論としてちゃんとしてるから「理論」ってつけたわけじゃなくって、大袈裟で面白いから「理論」ってつけてるだけだからッ!(๑•̀ㅂ•́)و✧


・◇・◇・◇・


 最後になるけど。
 いまの人類にとって重要にして実現困難な課題は

 平和

 だと思ってる。
 これについても、闘争本能が……とか、現実を見ると……とか、お花畑 www……とか、いろいろ悩むことは多いんだけど、

 無いハズのものをあらしめる

 のが人間の、実に人間らしい営みなのならば、平和な世界をあらしめるためにやれるだけの手を尽くし切るのが正解なのではないか、という理解に達した次第 (`・ω・´)ゞ



#あるものはある無いものは無い #哲学 #世界観 #土台 #人間性  



いま、病気で家にいるので、長い記事がかけてます。 だけど、収入がありません。お金をもらえると、すこし元気になります。 健康になって仕事を始めたら、収入には困りませんが、ものを書く余裕がなくなるかと思うと、ふくざつな心境です。