見出し画像

夏日陰の巣立ち #2

  目次

 地方征圧軍十二傑の序列第三位であるところのヴェステルダークは、ボロ借家の居間で、ひとつの結論に到達していた。
 皇停『禁龍峡』の位置に関する、重大なパラダイムシフト。
「……私は今までとんでもない勘違いをしていたらしいのかもな……」
 眉間を軽く摘みながら、斬れ味鋭い笑みを浮かべるヴェステルダーク。
 ここ朱鷺沢町近郊の〈BUS〉相が不安定に揺らいでいる理由。
 どれだけ〈BUS〉の流れを辿ろうが、まったく《楔》に辿りつかなかった理由。
 ようやくそれが、判然とした。
 今までは、謎の寄生バス停(うねうねしてる)が、正常な〈BUS〉の流動を阻害しているせいかと考えてきたが――
 どうやらそうではないらしい。
 むしろ、逆――
「……ん」
 どこかで、絶叫が、上がった。
 まるで、獣のような慟哭であった。
 生きながら喰われる猫のような喘鳴であった。
 あるいはそれは、笑い声にも似ていたかもしれない。だが、そう断じるには何かが欠け、何かが余分だった。
 軽く眉をひそめるヴェステルダーク。
 叫びは、すぐにやんだ。
 不気味なまでの、静寂。
 やがて、襖が蹴破られる音が微かにした。
 足音が響いてきた。
 規則的で、異常に緩慢な、人がましさを感じられない足音だった。
 どうやら廊下を歩いているようだ。
 板張りの床が、軋む。
 だんだんと、近づいてくる。
 ゆっくりと、近づいてくる。
 ヴェステルダークは、鋭く目を細め、自らの顎を掴んだ。
 ……ある予感があった。
 確信していたわけではないが、ひょっとしたらこうなるのではないかと。
 無数にある可能性の一つとして、予測はしていた。
 やがて、ヴェステルダークのいる居間へと通じる襖の前で、足音は止まった。
 がたり、と。
 襖が震える。
 がき、がぎっ、と。
 襖が引っ掻かれる音がする。
 乱暴というよりは、襖の開け方がわかっていない獣のような所作だった。
「――入りたまえ」
 ヴェステルダークがそう声をかけると、わずかに開いた隙間から、派手な音をたてて指が突っ込んできた。
 細かく痙攣しながら、指は爪を立てて襖の端を握り締める。
 瞬間――
「……ァ……」
 襖を力任せに引き毟って、ひとつの影が姿を現した。
 ソレは、人間に似た姿をしていた。
 ヴェステルダークがよく知る部下のような顔をしていたが、まるで死人のように表情がなかった。
 大量に流れ出た血が、その整った顔を禍々しく染めていた。
 ソレは、手に残った襖の残骸を無造作に投げ捨てると、異様に緩慢な動作で歩み寄ってきた。
 そして、ちゃぶ台の上に広げられていた朱鷺沢町の地図に、血まみれの何かを叩きつけた。
 ――縞の獣毛が生えた、二つの肉片だった。
 見ようによっては、耳のようにも見えた。
 くす、と、ヴェステルダークはかすかな失笑を漏らした。
 それはまぎれもなく嘲笑ではあったが、出来の悪い生徒がようやく及第点を出してきた時の教師の笑みにも似ていた。
おはよう・・・・バケモノ・・・・
 ソレは、無言であった。
 ただ、ブラウンの前髪の狭間から、底光りする眼でヴェステルダークを見下していた。
 ヴェステルダークは、亀裂のような笑みを頬に刻む。
「私が、憎いのかもな?」
 ソレは、何も言わず、何もせず、ただ見下してくる。
 ただの人間であれば、それだけで絶息しかねないほどの視線だった。
「――知って、いたのか」
 ようやく、ソレは口を開いた。
 鈍い光沢を持った声だった。低く、動かず、ただ黒々と蟠る声だった。
「ああ。一部始終、知っていたのかもな」
 重圧を伴った沈黙が、二人の間を覆った。
 何ら友好的な空気などなかったが、不可思議な調和が保たれていた。
「あんたは」
 ソレは、やや躊躇うような仕草を見せてから、
、が、飛びかかってきて首を絞めてくるような展開を期待しているんだろうが――」
 禍々しくも剄烈な力を込めた眼で、ヴェステルダークを睨む。
 その瞳は、ひとかけらの温かみもなかったが、どこまでもまっすぐで、澄み渡っていた。
「《王》たるあんたの力を俺は見誤らない。俺が一生涯をかけようが、到達できない高みに、あんたはいる」
 ヴェステルダークは、その言葉を卑屈とは受け取らなかった。
 眼が、力を失っていない。
 状況を正しく理解し、絶望的な力の差を知り、それでもなお成すべきことを見据え続ける。冷たく研ぎ澄まされた覚悟に燃える眼だった。
 ――いい貌を、するようになった。
 ヴェステルダークは笑みを深くした。
 この、欠落を抱えた青年は、今ようやく、生き始めたのだ。
「それに、あんたたちのことを、そこまで怨んではいない」
「……ほう、意外かもな」
 ソレは、血にまみれた自らの手を凝視した。
 細かく、震えていた。
 だか病的な震えではなく、内部より溢れ出る力の扱い方に、まだ慣れていないだけという印象を受けた。
「こんな、強さなど、欲しくはなかった。ずっと、たったひとりの妹を守っていたかった。たとえそれが幻覚であっても、俺はそれでも良かった」
 言いながら、眼を閉じた。眉間に、苦悩の皺が寄った。
「欲しくは……なかったんだ……現実を見据える強さなど……」
 それは、己の身にかつてあった弱さへの郷愁だった。
 すでに失われてしまった、弱さへの。
 その弱さは、致命的な隙となって、とある特殊操作系バス停使いの精神介入を許した。
 序列第五位、エイリオハート。
 ある意味、目の前の青年にとっては恩人であり、憎むべき詐欺師でもあったが――
 この様子では、彼の眼はすでに別の方を向いていそうだった。
「貴様が諏訪原篤と停を交えた時、恐らくはバス停同士での感応が発生したのだろう。そして、彼と貴様の間で精神的な共震現象が発生した」
 共に強烈な感情をぶつけ合いながら死闘を演じたバス停使いの間には、稀にそういった現象が発生することがあった。
「すなわち、貴様のその強さは、すべて諏訪原篤に起因するということだ」
「あぁ……わかっている……わかっているさ……」
 震える五指を握りしめ、ソレは――かつてタグトゥマダークという名で呼ばれていた怪物は、呻いた。
 ふいにこちらへと視線を戻し、鋼のような声で言った。
「今日は、決別を伝えに来た」
「ふむ」
「もはや《絶楔計画》などどうでもいい。あんたたちで勝手にやってくれ。俺は、俺の生を闘う。生きた証を、自分の手でつかみ取る」
 ヴェステルダークは、目を細めた。
「つまり……裏切ると?」
「そう取ってもらって構わない」
 ヴェステルダークは、軽く吐息をつくと、わずかに眼を見開いた。
 その身に横溢する、あまりにも強大な〈BUS〉を、ほんの少しだけ視線に込めた。
「今この瞬間にでも貴様を消し炭に変えることができるが、それでも撤回する気はないのかもな?」
「くどい」
 ヴェステルダークは、呆れたように息を吐いた。
「……思い人は、あの少年かもな」
 彼は、答えない。
 それが何よりも雄弁な答えだった。
「諏訪原篤は、ディルギスダークが――あの『狂鴉』が、一片の間違いもなくすっきり爽やかに抹殺することだろう」
 酷薄な嘲笑を、口の端に乗せる。
「貴様の出番は、恐らくないのかもな」
「かまわない。俺は――」
 一瞬、青年の顔が嫌悪に歪んだ。
「――奴を、信じている」
 まるで、昨日喰い残した残飯の話でもするかのように、そう吐き捨てた。
 ……腹の底から、笑いの衝動が込み上げてきた。
 くつくつと、低い忍び笑いを漏らしながら、ヴェステルダークは言った。
「よかろう。悔いのないよう、独りで生き、独りで死ね」
「……ありがとう」
 青年は、踵を返すと、振り返りもせずに居間を出ていった。
 後には、血にまみれた獣の耳だけが残された。

【続く】

小説が面白ければフォロー頂けるとウレシイです。