見出し画像

"年”をとるのが楽しみで仕方がないpart1


本題に入るその前に、、、
先日、初投稿させていただきましたが、多くの方に読んでいただきとても感謝しております。

自分の考えがたくさんの人の目に触れて、反応がもらえる。
表現する楽しさを知りました。
相変わらず、noteの使い方はまだよくわかっていないのですが……
これからもよろしくお願いいたします。
それでは本題です。。。


「歳をとるのが楽しみで仕方がない」と思うようになりました。
「歳をとる」などと言うと、「若いくせに何言ってんだ」と説教されてしまいそうですが、、、最近、本当に心の底からそう思うんです。

肉体的な話をすると、身体機能は10代でピークを迎え、20歳を過ぎてからは緩やかに下降していきます。
つまり、20歳以上であれば誰もが老いを経験するわけです。自覚があるかどうかは別として。

それにしても、なぜ年長者はあんなにも「若い人が何言ってるの…」と言いたいのでしょうか。
私が「昔より体が重い」だの「疲れやすくなった」だの言い出すと、そんなことをよく言われます。

「歳」というワードが年長者にとってはコンプレックスとなっているからか、敏感に反応してしまうのでしょうね。
だからこんな若造が安易に「歳」などと言うと、皆さん眉間にシワを寄せるのでしょう。

私の愚痴はこのぐらいにして、、、

私はあえて「年」をとると書かせてください!
つまり、21歳→22歳、57歳→58歳のような、年齢に依存する絶対的な時間軸ではなく、去年→今年、今年→来年のような年齢に依存しない相対的な時間軸においての、「年をとる」であります。(「年を越す」のような意味です)

そして、この「年をとる」が私は楽しみで仕方がないのです。

楽しみである理由を書く前に、もう一つだけ前置きをしておくと、年をとるのを楽しみにしているのは、決して老いに対する強がりを言いたいわけではないということ。先ほども書いたように肉体的な老いは確実に存在し、受け入れなければならないでしょう。

しかし、精神的な老い(ここでは成熟、あるいは熟成と言う方が適切でしょうか)は歓迎されるのではないでしょうか。

すなわち、私が楽しみにしているのはこの、精神的な「年をとる」になります。

皆さんは、「今ならわかる」という経験を一度はしたことがあるのではでしょうか。
わかりやすいのは親の苦労です。
子供の頃は気づかなかったが、いざ自分が子を持つ親となって、初めて親の苦労が身に染みてよく分かる。今なら心の底から「あの時はありがとう」と言える。

私は正直、思春期の頃はへそ曲がりな性格で、「親なんだから子供を育てるのは義務だし当たり前だろう」なんて思っていました。(なんて親不孝な…)
今でもその考えは大きくは変わっていませんが、少なくともあの頃より親の偉大さに気づいているし、リスペクトしています。

この時大事になってくるのは、若かりしあの頃に見ていた光景を、詳細に記憶しておくことです。
これが今回のテーマの最も重要な部分になります。

当時の感情のみを記憶するだけでは、何の考証もできないのです。視界に入った全ての光景を詳細に記憶して、それを鮮明に思い出しながら思考を巡らすことで「今ならわかる」を体験できるのです。

これを私は「認知のタイムトラベル」と呼びたい。(これは発明だ!と思いましたが、調べてみると同じような概念でメンタルタイムトラベル(心的時間旅行)という言葉がすでにあるそうです。)

先ほどの親の偉大さの話でいえば、思春期の私の「親ウザい」の感情のみを記憶しているのでは、いくら年をとろうとそこから何も得られないわけです。

しかし、感情を記憶するのではなく、あの頃の親の一挙手一投足を事細かに映像として記憶していれば、私が何歳になっても目を瞑ればあの時代に意識をタイムトラベルさせることができ、そこで私はその都度新たな発見をすることができるのです。

家を出る間際の「気をつけなさいよ」や、食事を終えた後の「お腹いっぱいになった?」など、あの頃気にも留めなかったような何気ない言葉でも、タイムトラベルをしている際にこの言葉が聞こえてくると、何ともいえない感情に襲われます。

そんな言葉には空返事をし、そしらぬ顔でその場を後にしようとする思春期の自分の頭を引っ叩いてやりたくなります。


ということで、またまた長くなってしまったのでpart2に続きます。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?