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僕がしたいこと。

僕は、人が好きです。

人を驚かせるのが好きです。人を喜ばせるのが好きです。人と話をするのが好きです。

僕の知らない世界を知っている人を見ると、その世界が知りたくて頑張ろうと思います。 

 

小学校六年間は、学校や家でよく泣いていました。先生に怒られたり、友達にいたづらされたり。
※山裾の温かな小学校で、激しいいじめの様なものがあるところではありませんでした。

なにかあるたびに、母親によく相談していたのを覚えています。とても小さなそのやり取りを、おそらく母親は覚えていないと思うけれど、的確な一言で悩みはすぐに解消されました。

 

たとえば、小学校登校初日、教室に入った瞬間。(これほど、初めての経験が重なることは一生でもそうそうないと思います。)

初対面の同級生(ここでコウちゃんとします。)と目があいました。

僕の顔を見た彼の第一声は、「顔、丸!」でした。多分、親友のコウちゃんも、こんなことはもう覚えていません。

コウちゃんはクラスの中心的な存在で、みんなと楽しそうに笑っていました。何かが胸に「ぐさり」と刺さりました。僕は生まれてそれまで、容姿のことを気にしたことは一度もなかったのです。初日の学校は、初対面の人ばかり、仲良しの友達とは違うクラスになっていました。

その日は、緊張のあまり、ほとんど何が起きているのか理解できずに終わっていったのだと思います。

家に帰るころには、緊張の嵐のなか。たぶん、その「言葉」は記憶の奥底に埋めてしまっていました。

学校から家に帰り、いつものように外に遊びに行き、夜ご飯を食べて、寝る前に母親と一緒に小学館の冊子の付録を組み立てていた時でした。付録はスーパーマリオのヨッシーでした。

ふいに、コウちゃんの言葉を思い出し、母親に言いました。「今日学校で、初めての人に『顔が丸い』って言われた。」悔しかったわけではありません。何でそんなことを言われたのかと、涙が止まりませんでした。

母親からの言葉を期待していたのかもしれませんし、ただ聞いてほしかっただけかもしれません。

瞬間、母親から返ってきた言葉は、「知らんかったん。」でした。
間の無さと、予想だにしていなかった返しに、上っ面ではなく、僕の核の部分が反応しました「あれ?」という感じでしょうか。いや「おいおい。」かもしれませんが、とにかく、胸に刺さっていると思っていた「何か」が丸みを帯びました。痛くありません。

そうです。僕は、自分の顔が綺麗に丸いことを「知らなかった」のです。新鮮な衝撃で、不思議と涙は止まっていました。

次の日、学校で楽しそうにコウちゃんが言います。「顔丸。」
そこに痛みはありませんでした。「そうやで。」僕は心の中で少し照れながら言います。

その日から、僕のあだ名は「カオマル」です。今でも、呼ばれると「なによ。」と少し照れます。

(余談ですが、あだ名の総数では、世界ランキングでも、そこそこ上位に食い込む自信があります。)

学校では、席替えがあることを知り、せっかくなので自分の中で勝手に目標を立てました。
「隣の席に座った人と、必ず友達になる。」でした。いろいろありましたが、その度、母親に相談し、小学校ではその目標は、いちよう達成できたように思います。

 

中学校に入ったときも、目標は変わりませんでしたが、部活動の忙しさ、人の種類の多さに三年間はあっという間に過ぎていきました。部活動で疲れ切っていたことや、それほど、ガチガチの学校ではなかったので、授業中はほとんど寝ていた記憶しかありません。

ただ、とても良い友達に恵まれました。

 

人の種類の多さといいましたが、僕は本当に環境に恵まれています。

中学校では、片親の人、不登校の人、たばこを吸う人、喧嘩早い人に出会いました。皆一様に、僕よりも深く世界を知っていて。どうしても、頭が上がりませんでした。僕の目標に対して、僕はあまりにも力不足です。

何かを身に着けようと、高校は全寮制を選びました。

 

高校進学の際は、猛勉強しました。「僕は勉強が好き!」と錯覚するほどに。模試評価をGからBに変えました。
※模試の意味も分からずGを取った僕に、母親は「この子は、本当に可哀そうな子」と思ったそうです。あなたの子ですよ。

 

類は友を呼ぶ、高校では、(人間味のある)あまり頭の良くない友達が大勢出来ました。

大学も全寮制へ進学し、その後、晴れて社会人となります。

 

そんな中、僕の中で何かが少しづつ変化していました。

母親に相談しなくなったころからでしょうか。
自分だけで、何かを身に着けようと思ったころからかもしれません。

多くの人と出会うなかで、気付かないうちに、いろいろな基準を自分の中で勝手に作り上げていきました。

その過程で、「嫌い」な人が出てくるようになりました。
僕の中で、その感情はとても大きな障害となります。

僕の目標「隣の席の人と友達になる」ために、力を着けるため、踏み出した世界。
そこで、嫌いな人を作っていくのです。

その矛盾を、うまく言葉にすることが出来ず。見ないことにしました。
それら全ての見たくないものに、「嫌い」というラベルを貼りました。

 

 

社会人になり、サラリーマンとして働きました。

サラリーマン五年目くらいからでしょうか。
僕の目標は、スーパーサラリーマンになりました。遅いですね。それでも本気でした。

自営業の父親は、仕事の話を家では一切せず。また、親戚付き合いがあまりうまくないため、サラリーマンがどういうものか、会社とは何か。
僕は、社会人になるまで本当に理解できていませんでした。

サラリーマンとして会社に入り、仕事をする中で気付いたことは。皆が皆、仕事が好きで働いているわけではないこと。その不満や不安は、巡り巡ります。

生きていく中では、家庭の悩み。プライベートが付いて回ります。職場とプライベートの狭間の葛藤は、一筋縄ではいきません。

 

ある日。

定年間際の上司が、定年後の話をしてくれました。
その方は、とても頭が良い方で、頭が良すぎてたまに何を言っているのかわかりません。その方は、言います。「定年後は、趣味の幅を広げようと思う。」目を輝かせながら。

その目を見ると、何故かとても救われた気持ちになりました。

おそらく覆い来る不安も同じくらいの大きさである中、その方は、希望を選んでいます。

 

最近になりようやく気付きました。
僕が一くくりにした「嫌い」の対象は、「『人が自分の痛みに無頓着になること』で、その『痛み』を伴う感覚を、僕はどうすることも出来ないかもしれないという、焦りや憤りでした。」

 

僕は、人が好きです。

おそらく、この先で定年を迎えていく多くの社会人は、とてつもない不安を抱え日々を生きていると思います。

空気中を漂う。生への不安や不満を、言葉にならなくても皆が自覚しています。

僕は、皆が一つのことをやり切った先に。
万全の「安全地帯」を作りたいのです。

不安に押しつぶされそうな日々。聞かされること、聞こえてくることが変わり続ける日々。
それらを超えた先に、思い思いの節目を迎え、一段落し、なかには、満身創痍の人もいるでしょう。
そんな「やりきった。」があるとき。
「本当に、そうだね。」と受け止められるように。
皆の、照れた顔が見られるように。

そんな制度を、僕は作りたい。

僕は今、介護職に就かせていただいています。

【写真】岐阜公園の池の畔の木

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