決別

私にはマイナーな趣味があり、一人その界隈の大家がいる。

とにかくマイナーな世界の趣味で、その大家の作品の出会いは幸運な偶然みたいなものだった。特に流行を気にせず、のびのびと気になるものに手を伸ばしたら、運良くその大家の唯一無二の作品の世界に届いたようなものである。だからこそ、その大家の作品は私にとても愛着のあるものだ。


今はその界隈自体が廃れるばかりのもので、もしかするとこのまま絶えるのではないかとすら思う。

大家と称する人の作品の評価は実に様々である。一方では一つの作品のみ知られ、多方においては様々な作品が評価されたり論じられる。それでも同じ趣味の人間ですら、その大家に没頭する人間はなかなかおらず、界隈でも特殊な存在であり、そうした扱いはまた必然だとファンの私も思う。

同じ趣味で、偶然にも同じ大家が好きだった人がいる。しかし、その人は心境や境遇が変化するにつれて、SNS上でその大家の非難をするようになった。これが、「ここはだめ。あれはだめ」といったことや、年齢と共に受け取り方や好みの変わったようなことなら、特に気にしなかっただろう。

ただ、「楽しんで読めなくなった」だとか、自分の境遇に対し作者の表現が癪に障るので不快だとか、どうにも反応に困る内容だった。

挙句、置き場所がなくなったので本を断捨離したとの投稿した時にはもしやとぞっとした。

人間の愛憎など簡単に変貌するものだ。しかし、その人は自身の境遇により被害者意識が年々増している傾向にあり、大家の作品の表現に被害者意識を特にむき出しにし、怒りやストレス、フラストレーションをぶつけているようなところがあった。

この人は、私もその大家のことが嫌いと言えば満足するのだろうかとさえ思った。とにかく、その大家の共通のファンからスタートした人間関係だけに、ひどく反応に困ったのである。


おそろい、を強要する人は多い。特に女性にはどうしてもその傾向がある。

原始時代。人間は男女という別々の生き物に分離し、男は狩猟をし、女は集落を守り子育てなどをするという、性以外の役割分担で進化を遂げた。

男は狩猟のなかで生きていくが、女は閉ざされた集落で同じ面子と協力し、ずっと生きなければならない。特に、他人の力を頼らなければ生きていけない原始時代において、集落からの孤立は死に等しい。

流行を追い求めるあまり、結果的に外見が没個性化し、特に女性に対し量産型と揶揄されることがある。昔なら、「西野カナみたいな顔の女ばっかり」とよくネットや実際の男性が口にしているのを耳にしたが、服装にしろメイクにしろ、女性は周りに合わせることの方が多いだろう。

そこについは美点がある。見た目から、周りの雰囲気を把握して足並みを合わせていること。周囲に同調する意志のあること。流行のなかでとりわけどういったものを好むのか。逐一語らずとも分かる。要するに周りにファッションを合わせるのは、処世術として有効で楽に生きる手段の一つだ。


実際、街中で複数人で歩く女性は服装の傾向に共通点のあることが多いので、ファッションは一つの意思表示の意味合いも強い。同族を呼びたいのなら、その人々のする傾向にあるファッションをすればいいのだから。

かく言う私も、大学のような私服で不特定多数と集まる環境で声をかけるなら、同じ系統のファッションをした同性だろう。そう言う意味で、ファッションは声を出さずとも自分が何者か語れる要素があり、便利だと思う。


私のその人物(仮にAとする)は、マイナーな大家のファンという繋がりが大きいだけに、Aに同調すべきか悩んだ。また、大家への嫌悪は先にふれた被害者意識然り、Aの個人的な事情が多く、そこに共感することも困難であった。正直なところそれがいなかる内容でも、A個人へのバッシングではない。

Aの被害者意識の強さや被害妄想については、いつからそうだったのか謎だが、かなり急激に起こった感じがする。当事者でなくとも自分のことのように過敏に反応したり、少しどうかしてるのではないかと思っていた。


Aには元々、辟易させられるような振る舞いや、ピンポイントに悪気なく嫌な発言をされたり、私もずっと不満があった。

これは、Aの境遇もあるのではないかと思うが、それでもAは人間付き合いの暗黙のルールに疎い。小学生でも悟って学んでいるような規則すら、Aは理解していないふしがある。

私はAがコンプレックスに感じる境遇と、同じものを抱えている同世代の人間を3人知っている。うち2人はAと同じインドア派で、家の中で自分の趣味にひたすら没頭する。とにかく共通して自分の世界が強い。

残り1人はアウトドア派で、他者と関わって遊びやスポーツをする方を好む。

この、アウトドア派とはとても仲が良く、趣味という接点はなくなっても人間として相性がいいのか、相当に長く付き合いをしている。親友と言っていいだろう。

つまり何が言いたいかと言うと、Aは人間関係の基礎を学ぶ機会は他者を通じてあったはずであるということだ。それをしなかったのは、趣味嗜好という要素もあるものの、同世代の人間に等しく興味を持てなかった点にも問題があるのではないだろうかと思う。もちろん、子供にそんなことを言うのは酷かもしれない。が、Aが自分の世界に閉じこもり、外とのバランスがとれない、とれなかったことについてはどうしようもない事実である。つまり、Aは自分で自分のコンプレックスを助長していたことは否めないのである。


私は特に他人が身だしなみさえきちんとしてれば、少々奇抜なファッションをしていても気にはならない。だが、人間関係の掟を破られるのは不快である。しかし、Aとは成人後に知り合い、所属団体の後輩であるため、今さら小学生レベルの人間付き合いのルールを教えられなかった。呆れた、という気持ちもあったが、私の後輩という立場の弱さもあった。


先日、AがSNSのとある私の発言に噛み付いてきた。

謝罪し、悪気のないことだったと理由を説明したが、Aは聞く耳持たずでひたすら私に対し、悪意があると妙にヒステリックだった。最初はなだめるつもりでいたものの、もっと違うものを感じ、私も後輩の立場でAに対して言えなかった不満が爆発し、最終的に口論になった。

特にこれはだめだという発言を、AはSNS上でしており、私としてはそちらの方が悪質ではないかと、自分が他人にそんなことを言うのであれば、という気持ちも含め遅まきながら指摘した。

その件についてAは非を認めたものの、今度は斜め上から急なことを言い出した。


Aは私がある話題をするのがずっと苦痛であったから、話すならその話題をすることを予め宣告してAがジャッジすること。加えていかに自分が配慮を必要とする弱者かについて語ってきたのである。

反省の念はなかった。この人は、私が後輩だからヒステリックに噛み付いてきて、こんなことを言っているんだろうと、Aに飽きれた。愛想が尽きた。


境遇などおいそれと変えられるものでなし、たとえば友人が結婚し、出産すれば当然ながらその話題も出てくるだろう。何だかんだ将来的に既婚者に囲まれ、自分だけが独身である確率は、今のご時世的にも低くなはない。

たとえば私が結婚、出産し、Aが独身なら似たようなことを言い出すだろうなと冷たく思った。

Aの語る自身がいかに弱者であるかについても、聞かされた身としては腫れ物そのもので、これでは私はAに対して不満を言うことができなくなったな、と思った。私は後輩として時に腹を立てながら、Aには先輩としてそれなりに配慮していたつもりであった。だが、そうしたことを言われてしまうと、もう元からAに抱いていたデリカシーのなさ、ガサツさ、用意の悪さといったを欠点を受け止め、一挙一動に更に気を配るしかなくなる。

Aは私がひたすら妥協するこの案について、関係性のグレードアップとすら形容した。しかし、それは私がよりAの格下になることで、「私もここを止めて欲しい」と言っても通用しない予感がした。

実際、Aは私にギブこそ求めたものの「非があれば私も改善したい」といったことを話さなかった。

ダブスタ。ギブアンドテイクの破綻。これが人間同士の関係とは私は思えない。


私はそんな高度なことはできないと、自分の抱える欠損を含め、かなり自虐的な調子で私なんかには無理だと何度も答えた。これは私の悪癖で、怒りの限度が我慢できる域を越え、他人に訴えかける時、私は言葉や暴力による自傷行為をしながら迫るところがある。私はこの時、自分を貶めることによって迂遠にAを攻撃していた。大人気ないがAにたまってた鬱憤や言うことの理不尽さに抱いた怒りは、コントロールできるものではなかったのだ。

そこで私は「自分の血統は劣っている」と語り、「私を出産する前の母を惨たらしく殺したい」とも語った。

私は実際、遺伝子的な傾向のある疾患の血統である。特にその障害が顕著に出ていて、障害者である母を心底憎んでいる。障害によるものだろうと、実の子供を虐待しながら自分を善人と自惚れる母は、心底おぞましく、ゆるせるものではない。

そんなことを書き連ねていると、Aは議論のすり替えか、私に優位性でもとりたいのか。「あなたは、反出生主義的ですね」と言ってきた。

そうだとして、ならば何が悪いのだろう?それしか思うことはなかった。


私は私についてならば確かにそうだ。そもそもできない。何故なら、薬が必須の体では出産は無理だからである。また幼少期に受けた肉体的暴力により、かなりの男性不信である。

何より遺伝性のある障害の血統である以上、人生という戦場において、最初から分かっていて本人の了承なく、不利な状況で戦いを強いるのは酷ではないだろうか。

人間はうまれたいと思ってうまれるものでなく、男と女の性行為の産物であり、順当にいけばその生命を育てることになる男と思ったーーつまり、両親について選択肢はない。偶発的にできた命に何の自由もなく、エゴによりこの世に生を受ける。どんな綺麗事を言おうと、人間の人生で最も精神的負荷のかかる瞬間は、産道の経由を経てうまれる時だとすら言われている。

それが身も蓋もない命の誕生である。

私自身は何かの主義に傾倒して、お仲間と承認欲求を満たしたい訳ではない。自分のことは自分で考えて決めるのが主義なので、「出産に適していない」とすっぱり判断し、割り切っているだけの人間と言う方が適切だろう。だから、厳密には反出生主義者でもない。他人にそれを強いる気も、声高に語る気もない。

ただ、人がうまれることについてごく現実的なことを考えているだけだ。

また、私は障害を持つ母に育てられたことについて、不幸であったと感じている。母が選べるなら、私に遺伝性の障害の不安もなく、その存在に引け目も感じず、もっと楽に生きられただろう。母には全く情がない。私をうむ前に死ねばよかったと願わずにいられない。


ごく、個人的に感じる命の重みとして、自分の人生のこれまでの不幸の総量を具体的な重みに換算し、どれだけのものか考えた時、別の人間ーーたとえば私の胎からうまれた存在が、最終的にその重量を上回る不幸を味わう可能性を想像すると、残酷で無慈悲で理不尽だと、ぞっとして命の重みに耐えきれない。あまりに理不尽、無慈悲、残酷。

親子だろうと別な人である以上、他人は他人。人生には不幸がつきもので、よりそうなるかもしれない可能性を理解しながら、他人にそれを強いることなど私にはできない。これは私なりの良心で臆病だ。

遺伝性の障害について、私は何とかグレーゾーンではある。しかし、虐待は連鎖する。母よりおぞましい母親になる可能性も大いにある。世間の人が笑いながら言う「良い母親になればいいじゃないの」のハードルは極めて高い。何せ、悪い母親の例しか目にしてないうえに、その素質があるのだから。


そんな私が、出産など肯定できるはずもなく、母という長年呪った存在と同じ立場になることなど、もっとできる筈もない。

私はおかしなことを言っているのだろうか。


Aとの口論は有耶無耶なまま終わったが、これから絶縁しようと思う。愛想が尽きたからだ。これから、Aには最後にメッセージを送る予定である。

最後に、直近でAと会った時に呆れたポイントとして、先に予定を組んでいたにも関わらず、数日前に分かっていた筈の予定を忘れ、スケジュールの不管理による遅刻。事前に避けられたトラブルの種の回避を怠り、対抗手段も皆無であったこと。先に連絡しておかなければならない事項の報告を怠る(これについては私の運でどうにかなったが、どうするつもりだったのかと呆れた)。衛生概念に欠ける振る舞い。ふさふさとカフェのテーブルの反対側からでも見える腕のムダ毛。


女性のムダ毛について、あることを拒否することは不自然だとか、女性に強いているなど、反フェミ的だという指摘があるが、個人としてない方が衛生的で綺麗だと思う。別に異性に好かれたい訳でなく、綺麗で清潔である方がお互い気持ちいいのではと思うだけである。私は等しく男性に対しても、体毛を好ましく思わない。

ただ、空調の風にそよぐムダ毛を生やすAと同席し、恥ずかしいなと思った。

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