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【短編小説】平和とは#シロクマ文芸部

(読了目安6分/約5,000字+α)


 平和とは何なのだろう。二か月前まであったものが平和、だったのだろうか。でももしも平和が安らぎなら、今の状態が平和なのかもしれない。いや、とにかく今はそんなことよりも。

 朝起きたら、隣に知らない男性が寝ていた。理由は想像もつかない。けどまあ、私の飲み過ぎが原因なのだろう。

 二十歳くらいのジャニーズみたいな整った顔。ドレープカーテン越しの微かな陽ざしの中、頬は発光しているように白い。思わず見とれていると、長いまつ毛が揺れ、目が開いた。焦げ茶色の瞳が至近距離で私を見つめ、ふわりと微笑む。

「おはよ」

 彼はぐっと両手を上げて伸びをすると、私のベッドから降りた。服は着ていた。思わず私も確認する。昨日の服装のままだ。スーツはしわくちゃになっているだろう。起き上がろうとすると、ひどい頭痛がする。完全な二日酔いだ。

「具合、悪そうだね。お水持ってきてあげるよ」

 私の返事を待つ間もなく、彼は冷蔵庫で冷えていた水をコップに入れて持ってきた。

「起き上がれる?」

 彼は再びベッドの上に乗り、自分の体で支えながら私を起き上がらせる。壁に背中を預けさせ、倒れないようにそのままぴったりと横に座っている。その行動があまりにも自然で、私はされるがままになっていた。

「あの」

 私の声はかすれていた。完全に飲み過ぎだ。

「ああ、ごめんごめん」

 彼は笑って、体を動かさないようにコップを取り手渡した。

 いや水じゃなくて、と続けたかったがこの咽喉から声は出ない。私は軽く頭を下げて、水を飲む。冷たい水が咽喉から胃へ降りていくのが分かる。と同時に頭が少しクリアになった気がする。

 空になったコップを私の手から受け取るとベッドサイドへ置き、そのまま彼はじっとしていた。

 沈黙。エアコンの音とセミの声。車にエンジンがかかり発車する音。

 私はもたれかかったまま彼の顔を見あげた。つんと尖った鼻と、ふわふわとした焦げ茶色の猫っ毛が印象的だった。彼は私の方を振り向くと、少しだけ首を傾げる。

「あの。このようなことを訊くのも恐縮ですが、どちら様ですか?」

「あ、やっぱり記憶無いんだね。そんな気がしてた」

 あはは、と無邪気に笑う。彼の肩が揺れ、私に伝わる。二日酔いのくせになんだかそれが心地良かった。

「すみません」

「昨日は、シロって呼んでたよ」

「シロ?」

「うん。シロ」

 シロは昔飼っていた猫の名前だ。確かに彼はシロに似ていた。ふわりとした雰囲気に柔らかい髪、焦げ茶色の瞳。シロはよく私のベッドに入ってきて一緒に寝ていた。

「じゃなくてですね。本名というか」

 いや、本名よりも訊くべきことがある。何故私はシロと呼ばれる男性と、ベッドの上に並んで座っているのか。

「ねえ、ことはさん。少し動けそう? もし動けるなら着替えるか、シャワーした方が良いよ。その方が楽になるから」

 私のたどたどしい言葉は遮られる。確かにスーツはしわくちゃで、全身はひどくむくんでいて、だるい、を通り越して痛い。

 ここに至る経緯は、十中八九聞いていて恥ずかしくなるような私の失態だ。せめてもう少し身軽な状態で向き合いたいのも事実。

「うん。そうします」

「動けそう?」

「大丈夫、です」

 しばらく座っていたことと水のおかげで、多少ふらつくが動けるようになった。私はシロをひとりベッドに残して、お風呂場へ向かう。何とか服を脱ぎ捨てシャワーを浴びるとようやく頭がすっきりしてきた。

 知らない男性をひとり部屋に残して、何シャワーなんて浴びているんだろう。彼が私の財布からお金を取るとか、何かをするかもしれない。いや、するとしたら私が寝ている間にとっくにされているだろうか。とにかく、考えても何もわからないことだけはわかる。

 私はざっと髪を乾かし、鏡をのぞき込む。疲れてむくんだ顔をしていた。昨夜は職場の同僚と遅くまで飲んでいたのは覚えている。飲み過ぎの原因は、私の元カレの結婚。別れたのは二か月前なのに私の親友とデキ婚をするらしい。親友は私が二か月前まで元カレと付き合っていたことを知っているのか知らないのか、結婚式の招待状を送ってきた。それを同僚のレイナにずっとグチっていた。たしか、店の外でタクシーに乗って家まで帰ったはずだった。

 私は化粧をするか迷い、結局止める。もっと醜態をさらしているのだ。ここで取り繕っても今更だろう。でもユウヤの前では絶対化粧をしていたな、と思い出し両頬を軽く叩いた。

 ダイニングにいたシロは私の姿を見ると、ニコリとほほ笑む。

「コーヒー、飲む?」

 ドリップされたばかりの香ばしい匂いが漂う。

「あ、はい」

「良かった。座ってて」

 すぐに机の上にマグカップが二つ並べられ、私のそばに牛乳パックが置かれた。

「あ、ありがと」

 私はコーヒーに牛乳を入れると、すぐに彼が冷蔵庫へ戻してくれる。向かい側に座ると、じっと見つめていた私の視線に少しだけ首を傾げてみせる。

「あの、シロ、さんはどうしてここにいらっしゃるのでしょうか」

「拾われたんだ」

「拾われた?」

「ことはさんに」

「私に? どこで? なんで?」

「このアパートの向かいの公園で、僕が捨てられていたから」

「どういうことですか?」

「昨日の夜、ことはさんがタクシーで帰ってきて、そのまま公園に入ってきたんだ。それでベンチにいた僕に話しかけてくれた。そのままベンチで夜を明かすはずだった僕を、何もしないことを条件に部屋に入れてくれた。まあそれから明け方まではずっと飲んでいたんだけど」

 全く覚えていなかった。お店の前でタクシーに乗った記憶はある。だが、降りた記憶が無い。

「それは、なんかご迷惑をおかけしたみたいですみません」

「そんなことない。むしろ拾ってくれてありがとうございます」

 彼はマグカップを置き、丁寧に頭を下げた。その所作はとても綺麗で、お行儀が良い子なんだな、と思った。

「それで、あの。私は何か言ってましたか?」

 彼はコーヒーを一口飲み、首を傾げた。彼が首を傾げる度に、ふわふわの髪がさらりと流れる。

「何かって?」

「えっと、飲み過ぎの理由とか」

「五年間付き合っていたユウヤさんと二か月前に別れたこと。実は前からお友達のフミカさんとユウヤさんが付き合っていたこと。フミカさんが妊娠して二人が結婚することになったこと。昨日、ではなく一昨日ですね、結婚式の招待状が届いて返事ができずにいること。この二か月ユウヤさんのことが忘れられずに、部屋の中にあるユウヤさんのものを棄てられずにいたけれど、招待状が届いた日に全部ゴミ袋にまとめて捨てたこと。昨夜は会社の後輩のレイナさんに付き合ってもらってそのグチを聞いてもらったこと」

「もう、充分です」

 視線を上に向け思い出しながら続けるシロに向けて、私は両手のひらを向け制止する。やはり化粧するしないレベルの話ではない。顔から火が出そうだ。

「酔っていたとはいえ、本当にすみませんでした」

 私は顔を合わせることが出来ず、そのまま机に突っ伏すように頭を下げた。

「ことはさんが謝るようなことは何も無いです。何も悪くないもの」

 彼の言葉は真剣味を帯びていた。顔を上げると、まっすぐに私を見つめている。

「だからもう、謝らないで」

 少し悲しそうにも見える彼の表情に、思わずうなずいていた。彼は険しい表情を解き、ふわっと微笑む。

「ことはさん、少し元気になった? 一緒にテレビを観ようよ」

 彼はマグカップを持って立ち上がると、リビングソファへ移動する。ブルーレイレコーダーを立ち上げ、数日前に放送されていた特番のコメディ番組を選択する。そして彼はポンポンと隣の席を叩いた。私はカフェオレを持って隣に座ると、すぐに再生される。ぴったりとつけた彼の肩から体温が伝わる。エアコンで冷えてきた体に心地良かった。番組が終わる頃にはかなり体調は良くなっていたらしく、お腹が鳴る。

 彼は息を漏らすように笑うと、少し待ってて、と私のお腹に話しかける。キッチンへ向かうと包丁とまな板を取り出し、冷蔵庫からいくつかの食材を取り出した。だが、ここ最近私は自炊をしていない。確か残っているのは卵がいくつかと牛乳くらいだ。

「冷蔵庫、何もないでしょ?」

「大丈夫、さっき買ってきた」

 彼はこともなげに答えながらガスをつける。

「さっきって?」

「ことはさんがお風呂入ってるとき」

「え、そんな時間あった?」

「うん。そこのコンビニ、お野菜とかも売ってたよ」

 言われてみればそうだったかもしれない。コンビニで買うのは弁当ばかりであまり見たことがなかった。

 彼はあっという間に夕食を作った。冷凍してあった紅鮭を焼き、わかめと玉ねぎの味噌汁、お醤油を垂らした焼きナス、だし巻き卵、冷凍ごはんは解凍し、きんぴらごぼうだけがコンビニの総菜だ。一つずつ丁寧にお皿に盛りつけられた料理は旅館の食事みたいだった。

「すごい!」

 思わず称賛の声を上げる私に、少し照れくさそうに頭を掻いた。

「結構好きなんだ。料理」

 食卓にこんなにお皿が並んだのはいつぶりだろう。ユウヤがはじめて家に来た時、つい作りすぎたことを思い出した。しかも、男性が好きそうな肉料理ではなく、母親がつくるような煮物などばかり。良いお母さんになりそうだな、とユウヤは笑っていたけれど、褒めていたようには思えなかった。

 着席し手を合わせると、私はそっと味噌汁を口に含む。温かくて優しい塩味が身体に沁みる。ユウヤなら、ちょっと味薄くね? と言うだろうなと思ったら、何故か涙があふれた。

「お口に合わなかった?」

 シロが心配そうに私を見つめている。

「ううん。すごく美味しい」

 私は心配させないように口角を上げた。でも口元の震えは止められない。それをごまかすように、だし巻き卵を食べる。私の好きな甘めの卵。ユウヤは甘くない方が好きだった。

「すごく美味しい」

「うん」

 涙が止まらなかった。お世辞でしか美味しいとは言ってくれなかったユウヤのことが頭から離れなかった。すべてユウヤの荷物を棄てたはずなのに、頭にこびりついた思い出の棄て方がわからない。

「ユウヤは味の濃いものが好きだった。きっとそれが家庭の味だったんだと思う。お互い三十歳もとうに過ぎてるし、結婚するならユウヤの味覚に合わせなきゃって、濃いめの味付けを心がけてた。でも私はシロが作ってくれたこの味が好きなの」

「うん」

 シロは箸を置き、聞いていた。

「ユウヤは小さい頃から弟と争うように唐揚げを取って食べたんだって。男兄弟で肉料理が多くて。私のところはそんなことなくて、お肉とお魚が交互に食卓に並んだ。お魚の身を骨から綺麗に外して食べるようにって習った。でもユウヤはお魚が好きじゃなかった。食べるとしたら骨のついていない切り身だけ。紅鮭のこの真ん中の骨だって嫌がるんだよ」

「うん」

「食べ物の好みって難しいよね。一緒に暮らすうちに次第に合うのかなって思ってた」

「うん」

「シロ、ありがとう。すごく、美味しい」

「うん」

 私はシロに笑いかける。涙は止まらないけど口元の震えは止まった。

「食べよ」

 シロは優しく微笑み、箸を取る。

 私たちはゆっくりと食事をした。ひとくちひとくちを噛みしめる。私の話す言葉に、シロは静かにあいづちを打つ。何も言わずただ聞いてくれた。ひさしぶりのまともな食事と、シロの静かなあいづちが私の体を癒してくれた。

 夜が更けると、私はベッドに横になる。シロがさりげなく隣で横になり、私の顔を見上げる。

「ことはさんに必要なのは休むことだよ。美味しいものを食べて、楽しいことにいっぱい笑って、しっかり眠ること。そうしたら絶対元気になる」

「眠れるかな」

「眠れるよ」

 シロは手を伸ばすと、そっと私の耳を手のひらで包み込んだ。思いの外冷えていた耳がじんわりと温まる。

「ことはさんが眠るまで、ずっとこうしているから。だから安心しておやすみ」

 目を閉じるといつも浮かぶ、ユウヤとフミカの顔が今日は無かった。シロの温かな手に私の手を重ねる。暗闇の中で優しく微笑むシロの顔が浮かぶ。

「ねえ。シロは、明日目が覚めてもいるのかな」

 目を閉じたまま呟く私に、シロは息を漏らし笑う。その吐息が私のまつ毛にかかると、シロの額が私の額に押し当てられる。

「安心して。僕はいつでもそばにいる。でも、僕のことに気づかないくらい、ことはさんが元気になってくれるといいな。だから、今はゆっくりおやすみ」

「おやすみなさい」

 私は安らぎに満ちた夜に体をゆだねる。波の無い意識の海を深く深く沈んでいく。




シロクマ文芸部の企画応募です。

今回のテーマは「平和とは」。

平和ってつかみどころが無くて難しいテーマだなぁと思いながら書き出したら勝手に物語が走り出したので適当に走らせて止めました。放っておくとあと1週間くらいシロくんが居座りそうでした。危ない危ない。書く側の身にもなってくれ。


なおイメージ元は多分「君はペット」とビューネくんあたりでしょうか。


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