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【名言と本の紹介と】『幸田文 台所帖』

辻さんはたちどころに、癖はうまみだと、そしてなお加えて、滋味といいましょうか、と教えて下さいました。《中略》いらない癖を除去し、そのものだけに与えられているうまみという力を残し、そのうまみを調じて、もう一段上の滋味にまで昇華させる、といったらいいでしょうか。料理の真髄をふり仰いだ清々しい思いがあり、感銘ふかくうたれたことでした。癖を憎み、嫌ったのでは滋味という結論はでてきません。癖を惜しみ、いたわり、介抱してやった上で、はじめてこの言葉があったと思います。

幸田文『幸田文 台所帖』(平凡社、2009年)50頁



 幸田文は誰もが知る幸田露伴の娘であり、随筆家だ。彼女の随筆には父の姿が度々登場し、なかなか厄介そうな性格とともに相互への愛を感じる名文が多く残っている。

 中でも今回取り上げるのは『台所帖』である。シリーズとしては同出版社から『しつけ帖』『きもの帖』というものが出版されているが、私は持っていない。「しつけ」も「きもの」も苦手だ。だが「台所」なら料理も好きなので話についていけるのではと思い読んだのだ。

 だが、私程度の料理好きではとうてい太刀打ちできないことは読みだしてすぐにわかる。著者の台所は品があり静かで丁寧な仕事が行われる聖域である。ザクザク切った野菜をもっぱらフライパンで炒めるだけの者が、料理好きを語ってはいけない、と打ちのめされる。冒頭に取り上げた文章からも伝わるはずだ。もう少し丁寧に、前後を含めて再度紹介しておこう。


 もうだいぶ以前になりますが、あるテレビの番組で、辻さんにおはなしをうかがう機会がありました。その当時私は「癖」ということが心に滞っている最中でした。もちろんお話はお料理のことです。が、こちらの心には癖のことがわだかまっていたので、お話が野菜の、ことに山のもの野のもののあくのことになったとき、つい破目を忘れて私はあく、つまり癖について「癖とは、なんでしょう」とせきついておききしました。かねて私は癖とは一種の力だときいていました。女性によくいわれる嫉妬も、あまり好ましいものとはいえないが、一面からいえばあれも一種の、なかなかの力だというのです。然し、力とだけでは、まだなにか物足りない気持がして、もっと胸の納まる解釈がほしいと探っていたのです。
 辻さんはたちどころに、癖はうまみだと、そしてなお加えて、滋味といいましょうか、と教えて下さいました。山のもの野のものの中には、したたかな癖をもつものがあって、あくを抜くのに手古摺った経験は、みなさんご存じのことと思います。その手ごわさをうまみといい、さらに滋味とまでいってやるやさしさに、「これこそこの方の心情だ」と思い、なんだかこう鬱屈していた気が晴々とし、私はやたらと嬉しくなりました。いらない癖を除去し、そのものだけに与えられているうまみという力を残し、そのうまみを調じて、もう一段上の滋味にまで昇華させる、といったらいいでしょうか。料理の真髄をふり仰いだ清々しい思いがあり、感銘ふかくうたれたことでした。癖を憎み、嫌ったのでは滋味という結論はでてきません。癖を惜しみ、いたわり、介抱してやった上で、はじめてこの言葉があったと思います。

同 49-50頁


 文章中に出て来る「辻さん」とは、辻嘉一という日本料理家だ。父は京都の懐石料理店「辻留」初代だそうで、「辻さん」は東京に出店されているとのこと。「辻留」を検索すると、当然のように今でもあった。現在京都の方は三代目が継がれているようだ。

 なお、会席料理ではなく懐石料理だ。つまりお茶会がフルコースで行われた際に出てくる料理である。なかなか食せる機会は無いので、ご興味のある方は足を運んでみるのも良いかもしれない。

 HPの情報では、ランチであれば松花堂弁当で15,000円、懐石料理コースは20,000~40,000円で食べられるらしい。私のお財布事情では、食べたら最後、向こう一か月は温めた石を腹にあて空腹を紛らわせて(これが懐石の語源だとも言われている)生きるしかなくなるのだが、おこづかいに余裕のある方は是非どうぞ。



 さて、話を抜粋部分に戻そう。

 私は料理は好きだが、アクのある食物は苦手だ。アクを取り除くのは意外と難しい。ほうれん草と小松菜が並んでいたら小松菜を手に取り、ほうれん草を避ける。以前、ほうれん草のアク抜きをせず使い、シュウ酸のせいで口が梅干しみたいになった。だが他のほうれん草を使った時はそこまでの事にはならなかったのだ。もちろんすべてのほうれん草を湯でこぼせばよいのかもしれないが、ほうれん草は水溶性ビタミンなこともあり、栄養を惜しんでシュウ酸まで食べてしまう。

 先日、安くなっていたイチゴを大量に買い、ジャムを作った。砂糖を入れ、味を調えようと味見をしたらアクが思いの外強かった。毎年煮るのだが、アクを強く感じたのは今年が初めてである。生で食したときには感じなかったものが、煮た途端に出てくるのだ。これだからアクというやつは苦手である。

 この個体差を私は感じ取ることができず、度々失敗している。だが、もっと注意深く観察していれば違いは表れているのだろう。イチゴの種類や様子、酸味の強さや、煮たたせた時に出てくるアクの量を見て判断できたのかもしれない。

 プロの料理人は誠意をもって食材に向かい、癖を除去し、うまみを引き出し、滋味へと昇華する。この言葉は以前に取り上げた、バイオリニスト篠崎史紀の名言に近いものを感じる。

個性というものについて、父にこう教わった。短所は直さなければならないが、それには時間がかかる。直すことよりも自分で注意することが大事だ。長所は伸ばしていくとどこまでも伸びてゆく。そしてその長所がオブラートのように短所を包み込んだ時、その短所は個性に変わっていくと。

篠崎史紀『ルフトパウゼ ウィーンの風に吹かれて』170頁(2014年、出版館ブック・クラブ)



 食材の個性にしても人間の個性にしても、よく向き合い短所を抑え、長所を伸ばすことで滋味(個性)へと昇華するのだ。これがプロフェッショナルである。

 というわけで、もはや同じ土俵に立ち張り合うことは早々に諦め、アマチュアはただ著者の料理に対する態度を眺めていく。以下は鱈子(たらこ)についての文である。


あれは鮭の子よりずっと小ぶりですし、塩ものですからいわば半生で、形がこじっかりして扱いよいのですが、みなさんよく焼いてあがります。私は赤くないのを生でいただくのが好きです。生のをほどいて、ものにまぶしたりもしますが、それよりもあのままを、すかっと切って小深い器でだすのがすきなのです。それを切るのがぞんざいだと、うすぎたなくなって台なしです。たった一と包丁二た包丁のことですが、その包丁目がすっきり立っていてくれないと駄目なのです。小さな粒の集合体を、きっちりと切るのは気骨がおれました。

同 192頁


 たらこを「すかっと切って小深い器」に入れて食べたことがあるだろうか。正直、私の人生では無い。「すかっと」切れないのだ。まず皮が切れずに形がつぶれる。包丁が通ったと思ったら、必ず最後の皮が残る。仮にまな板の上で「すかっと」切れたとしても、そこから小皿に移すときに指で少しでも押してしまうと魚卵が飛び出してしまう。せっかくの断面が台なしである。

 「すかっと」切られたたらこは想像するにいかにも美味しそうだ。だが私の包丁さばきでは生涯無理だろう。何なら、たらこを保管していたタッパーの中にマヨネーズを絞り、かき混ぜてごはんに乗せて食べる。この食べ方からは一生脱しえない。著者には決して見せられない食べ方だろう。

 しかし、たらこの切り方ひとつとっても、著者の料理に対する姿勢がうかがわれる。すかっと切られたたらこが小深い器に乗っているのを想像すると、料理の一品として実に美味しそうだ。だが準備する側からすれば、たまになら良いが毎食全品この気遣いをするとなると、勘弁してほしいと音を上げてしまう。


 それもおひるの一と品ならいいが、晩も少しご馳走にしようというときなどは、敵討的に緊張する。吸物も焼いたものも和えたものも、順を考えて一と色ずつ出して行かなくては、もっともいい程加減のところはたべさせられない。そのためには、私は家族の一員であるにもかかわらず家族の食卓からはずれて、一人で台所を受持って、つぎからつぎの皿をこしらえて行かなくてはならない。
(中略)
 結婚した。夫も夫のうちも食料品の一種を扱う商売だから、舌は確かで、これは「名産・名料理店のうまいもの」好きの型だった。だから私のような総菜サーヴィスの訓練だけをされたものが出て来て、あっちも「へーえ!」だが、こっちも驚いた。この亭主殿の舌は味はわきまえているようなのだけれど、サーヴィスを受けることは知らないのだな、と思われたからである。おつゆもさめ、焼きものも揚げものもさめさせて、みんな一緒くたに食卓に並べて、さあみんなでたべましょうという式なのであった。折角の程加減なんかめちゃにされた。が、家族全員は食卓に集まって平等である。一人だけが台所でことことやっていなくともいいというのは嬉しい。でもその式に終って、なるべくたべごろを測ってうまくしようとすれば、何もかも揃っておつゆが最後に出て来るという、法外なサーヴィスにならざるを得ない。夫の食卓はからりとした気もちであるが、うまさを愛すということからいったら父の食卓に及ばず、父の食卓はわがままで困りものだけれど、うまさの水準はぐんと上で、きびしかった。父に就けばうまさを保てるかわりに、家族をはずれた台所ものにされてしまうし、夫に就けば台所ものではないがうまさは下落してしまう。えい、この男ども! と思ったところで私はストップした。それで今、私は私の食卓を持っているわけだが、われながらそぼんとしたものである。

同 15-16頁


 主婦なら一度は悩んだことがあるテーマのように思う。料理は出来立てが美味しい。特に揚げ物・焼き物は、皿に移したそばから食べるのが一番だ。

 だが、そんなことを言っていては自分が食べられないし、出来上がった後の鍋やフライパンを置いておくと、後の洗い物が大変だ。「できたよー」の一言で食卓に座る夫はまだしも、子どもはスマホ・ゲームから動かず、しっかり冷めてからようやく食べ始める。今では、著者のいう夫の食卓の形式の家庭が多いと思うが、以上の例のように、さらにうまさが下落している家庭も多いのではないかと想像する。

 だが、逆に本書を読んでいると、娘としていかに尽くしているかが伝わってくる。読んではいないが、『しつけ帖』には掃除について等も書かれていることを考えると、家同士の結婚制度では、「娘が嫁に行く」という感覚がわかるような気がする。

 幼い頃から掃除や台所、あらゆる家の事をしつけられ、育てられた娘だ。メイドと言っては聞こえが悪いが、それだけ家事をこなす娘を他の家に取られるのだ。そりゃ豪華な結納品だって送るよな、と思う。今では、こんなハイレベルな主婦は少なければ、ハイレベルな主夫だって出現している時代だ。昔に比べれば外食も一般的になり、サーヴィスを受けることも容易になった。主婦レベルは下がったもののそれが許される便利な時代になったものだ。


私がはじめて台所をしたころ、腐ったものを棄てようとしたら「なぜ、そう無考えに棄てるのか。粗末なことをする」と咎められた。腐らせたものは不行届でくだらないが、よく見もしないで棄てるのはなおくだらない。腐るということをろくに知りもしないくせにときめつけられた。折角といってはおかしいが、折角腐りかかったのだから、眼と鼻と舌と手でよく覚えておけというのである。原始的であるが、経験を重ねてだんだんにその感度を高くして行くやりかたなのである。科学試験には遠かった時代であるが、しかし現在でも私の台所では科学的に化学的に腐敗を立証するのは程遠いのであって、依然として原始的な眼と鼻と舌と手による大ざっぱな鑑別法でやっている状態であるから、三四十年むかしのことを嗤うわけにも行かないのである。

同 26-27頁


 食べ物が溢れ、お金さえ払えば24時間コンビニで手に入る昨今、便利な分、腐ったものに触れる機会は減ったように思う。身近にも、賞味期限を過ぎたものは一切口にせず捨てる、という方がいる。訊いたことはないが、もしかしたらその人は腐ったもの見たことが無いかもしれない。

 私は比較的、ものが腐っていく様を見ている方だと思う。小さい頃から、二日目、三日目の総菜の臭いをかぎ、表面のてかりと観察し、味を見ている。そのうえで、少し変だけどまだギリいける(お腹を下すことはないレベル)、これはもうNG、一度火を通して臭わなければOK、と言った判断を下してきた。直箸や直接手で触れたものからいたんでいくが、表面を削ればまだ中は無事だ、という食べ方もする。

 企業の提示する賞味期限、消費期限を信じることも大切だとは思うが、それもまた人の決めていることだ。こういうレッドラインの位置をそれぞれの感覚で掴むことも重要なのではないかと思う。多少腐っていてお腹を下したとしても、そう簡単に死にはしないだろう。


 さて、折角の『台所帖』なのだから、食べ物の表現をもう少し見ていこう。これからの季節、暑くなってくると食べたくなるのがそうめんである。だが最近は飽きられがちで、それを防ぐようにバリエーション豊かなつけダレや、アレンジレシピが乱立している。

 だが、この文章を見れば、かつおだしの香るシンプルなつゆで、つるりと食べたくなる。


 眼にも舌にもさわやか、というのが通り相場になっています。どうさわやかなのかといえば、御存じのように先ず真っ白で、ほそくて、滑らかで、冷めたい。この四つが集まって作る、いわば涼しい爽やかさ、とでもいえばいいのでしょうか。白という色はどこで見ても、上品な力を備えています。上品は、清々しさ―あっさりしている―さびしい―冷たい等といったつながりが辿れます。白い花や白いきものを考えて頂けばすぐわかるとおもいますが、食品の上でも白はくっきりしています。
 細さは冴えの感じられるもので、涼しさへも通じます。それにおいしさへも関係します。もしひやうどんというものがあったとして、考えてみて下さい。箸にすくった感じ、口にいれた感じ、おつゆのふくみ加減、細いからこそ味が立つのです。そうめんには殊にほそいものがあって、白髪という名で呼ばれていたと記憶します。
 滑らかさは舌を軽くするとおもいます。滑らかさもいろいろあって、葛湯の滑らかさは舌に重く感じられますし、たまご豆腐は、舌を窪ませて受けいれたくなる滑めこさですが、細くて冷たくてすべすべした、ひやむぎひやぞうめんは、いつまでも口のなかにもたついていません。さっと軽くすべっていくのです。もぐもぐと噛んでいたくないような感じで、舌が早くなるのです。咀嚼の熱をもたらさないのです。冷たさは滑らかさを、一層効果的にします。咽喉を越すときの気持よさ、からだじゅうの暑気が払われるおもいがあります。まあこうしたところが、冷たい麺類の身上といわれましょう。

同 119-120頁


 読むだけで爽やかさが伝わる文章だ。もちろん、冷やしたざるうどんは、それはそれで旨い。だがそうめんのあの細くのどごしの良く柔らかい麺が、つゆをまとって吸い込まれるあの感じは、うどんでは難しい。暑い昼にセミの音を聴きながら、キリリと冷えたそうめんを縁側で啜れば、それは最高の夏である。

 また、著者もようかんについて記述していたので、是非取り上げておきたい。

 

水ようかんは使いよい夏のお菓子である。味はそれぞれの店によるが、甘味のうすいほうを私は好く。滑らかな舌ざわりで、噛むほどにもしないうちに、やわらかな甘味とつめたい触感を残して、するりと咽喉を通ってしまうそのおいしさは、文句なしにすぐれているとおもう。匙をそえて銀のお皿ごと、ぐあいよく冷やしたのなどは、季感がすばらしく鮮明で、味覚の満足ばかりではなく、そこはかとないうた心をさそわれたりもする。いつも思うのだが、このお菓子の姿に私は心惹かれる。舌でつぶれるほど柔らかいからだをしているのに、包丁目を崩すことなく、ぴっと張った、細い稜をみせている姿は、実にすっきりとしている。夏への意気、といったものを見る思いがある。

同 129頁


 著者の場合は、水ようかんだ。あの四角い煉ようかんではない。水ようかんの冷たさと甘味、のどごしの良さと程よい柔らかさを感じる。柔らかいとは言え、ゼリーとは異なるピッとした包丁の断面の美しさが目に見えるようだ。

 ところで、ようかんがどうした、という方は、是非こちらの記事も読んで欲しい。私にとってようかんと言えば『陰翳礼讃』なのである。



 このタイミングでリンク先を読んでこられた奇特な方には申し訳ないが、ようかんの記述をこちらにも挙げておこう。


かつて漱石先生は「草枕」の中で羊羹の色を讃美しておられたことがあったが、そう云えばあの色などはやはり瞑想的ではないか。玉のように半透明に曇った肌が、奥の方まで日の光を吸い取って夢みる如きほの明るさを啣んでいる感じ、あの色あいの深さ、複雑さは、西洋の菓子には絶対に見られない。クリームなどはあれに比べると何と云う浅はかさ、単純さであろう。だがその羊羹の色あいも、あれを塗り物の菓子器に入れて、肌の色が辛うじて見分けられる暗がりへ沈めると、ひとしお瞑想的になる。人はあの冷たく滑らかなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。

谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(1975年、中公文庫)28-29頁 kindle unlimited



菓子皿のなかを見ると、立派な羊羹が並んでいる。余はすべての菓子のうちでもっとも羊羹が好きだ。別段食いたくはないが、あの肌合いが滑らかに、緻密に、しかも半透明に光線を受ける具合は、どう見ても一個の美術品だ。ことに青味を帯びた練り上げ方は、玉と蝋石の雑種のようで、はなはだ見て心持ちがいい。のみならず青磁の皿に盛られた青い練り羊羹は、青磁のなかから今生まれたようにつやつやして、思わず手を出して撫でて見たくなる。西洋の菓子で、これほど快感を与えるものは一つもない。クリームの色はちょっと柔らかだが、少し重苦しい。ゼリーは、一目宝石のように見えるが、ぶるぶる顫えて、羊羹ほどの重味がない。白砂糖と牛乳で五重の塔を作るに至っては、言語道断の沙汰である。

夏目漱石『草枕』(2015年、オリオンブックス)43頁 kindle unlimited



 谷崎先生、夏目先生の方は煉ようかんだ。黒く重みのあるどっしりしたようかんが塗の器に乗せられて出て来る。対して幸田先生の方は、よく冷えた水ようかんだ。爽やかな白かガラスの皿でも良いが、先生は銀の皿に乗せ、皿ごと冷蔵庫で冷やしている。成程、キンキンに冷えた器に、決して凍ることはない水ようかん。贅沢な夏のおやつである。

 それにしても、どうしてこんなにもようかんを魅惑的に表現できるのだろう。
 ちょうど夏を迎えるこの季節、スーパーの入口に水ようかんが並べてあった。良く冷やした水ようかんを食後のデザートに食べてみても、彼らのような素敵な表現は生まれてこない。ただ悔しまぎれに「滋味」と呟くのみである。



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