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【短編小説】愛は犬#シロクマ文芸部

(読了目安9分/約7,850字+α)


「愛は犬を連れてくる」

 突然聞こえてきた呟きに、我に返った。振り向くと、カウンターに腰かけた美女と目が合う。切れ長の瞳。顎のラインで切りそろえられた黒髪。その合間からキラリと光るイヤリング。スレンダーな四肢。細い首、手首、指先を飾るゴールドの装飾は生まれつきだと言われても信じそうなくらいなじんでいる。思わず絶句した僕の顔を舐めるように眺め、薄く笑う。

「御門狂三郎シリーズの最初の事件だ。被害者の飼い犬の行動が事件解決の糸口になる」

「あ、えっと。すみません。残念ながら読んだことなくて」

 僕はシドロモドロになりながら答える。少し低音で艶のある彼女の声は、大声で騒ぐ店内の中でもはっきりと聞こえた。だが、僕のしりすぼみの声は果たして彼女に届くのか。急に汗が噴き出すように出て来る。アルコールでぼんやりしていた頭が冷や水をかけられたようにクリアになる。

「構わない。ミス研はオタクやマニアでなくても歓迎している。まあ、こちらはそのつもりでも、入る方は気を遣うみたいだがな」

 彼女はテーブル席を眺め、手元のグラスを傾ける。そしてコースターの上にグラスを戻すと、僕に左手を差し出す。

「水河晶だ」

 僕は慌ててTシャツで手を拭い、その手を握り返す。

「犬塚です」

「よろしく。犬塚優馬くん」

 彼女は手を放すことなく握ったまま僕の手に視線を落とす。

「あの、水河さん?」

 僕の顔に視線を戻すと、ようやく手を放す。

「晶で構わない」

 再度、大声で盛り上がっているテーブルへ視線を戻す。テーブル席では顔を真っ赤にして笑い転げる君嶋さんを中心に、周囲の先輩たちが囃し立てている。

「晶、さん。どうして僕のフルネームをご存知なんですか?」

 彼女は意外そうに少しだけ目を見開き、僕を見つめる。

「今年の新入部員は犬塚優馬くんと君嶋愛美さんだと聞いている。私はこの中では一番の古株だから、その他のメンバーの顔くらいわかるよ」

 そういえば、この店は貸切だと先輩たちが言っていた。今店内にいるのは全員ミス研のメンバーなのだ。

「歓迎するよ、犬塚優馬くん」

「あ、優馬でいいですよ」

「ワンコくんにとって、この部は成長する良い機会になる。少し外の風に当たらないか」

 平然と呼び名を変えられたが、美人にワンコ呼ばわりされるのは、満更でもない。煙草を手に席を立った彼女の後ろを追いかけるように店の外へ出た。


 入店する時には気がつかなかったが、店の入口近くには灰皿があった。彼女は細身の煙草に火をつけ、ゆっくりと吐き出す。細長い指に挟まれた煙草が恐ろしく絵になる。ネイルと同じ色の唇が歌うように言葉を紡ぐ。

「You see, but you do not observe. The distinction is clear.」

 無言のまま見惚れていた僕をチラリと見やり、口角を上げる。

「ワンコくんは、ホームズは読んだことがあるか? コナン・ドイルだ」

「あ、えっと、多少は」

 名探偵コナンしか見たことがないとは言えない。必死で内容を思い出す。確か探偵がホームズで、助手がワトソンだ。そうだ。敵役がいた。誰だっけ。銭形? いや、日本人じゃないな。

「見る、ということと観察するということは、明らかに違う。ミス研では、観察力と推理力が養われる。今のワンコくんに足りないものだ」

「はあ」

「すでに注意力が散漫だな」

「あ、すみません」

 敵役の名前は思い出せない。

「観察力と推理力は生きていく上で非常に大切な能力だ。身につけて損はない。プロアマ関わらず音楽の世界は、少なからず他人と関わる」

「……え? どうして」

「観察だ。その左手、弦ダコだろう。ギタリストによくある」

 風の無い闇夜に紫煙がまっすぐに上っていく。それを乱すように彼女が息を吹きかける。

「そして推理。何故ギタリストが軽音楽部ではなくミス研に入ったのか。それは軽音学部に入らなくてもすでにグループを結成して活動しているからだ。弦ダコの出来る位置は初心者かそうでないかによっても変わる。少なくとも三年は真面目に取り組んできたのだろう。高校あるいは中学も、青春を捧げてきたのだ。プロを目指していると言っても笑いはしない。では何故ミス研だったのか。それは同じ理学部の君嶋愛美さんに誘われたからだ。理学部の女子率は一割。あの容姿だ。何かのきっかけで誘われたのなら、それを断れば今後の大学生活に早速ケチをつけることになる。きつい部活でもないのだ。とりあえずは入ってみよう、というのが本音だろう」

 図星だった。こんなことは匿名SNSにだって書いていない。本当に推理されたのだ。

 理系に女子が少ないことは覚悟していたし、期待してもムダと思っていた。だが学科の顔合わせの時に、一番可愛かった君嶋さんが何故か僕に興味を持ち積極的に話しかけてきたのだ。変な期待を抱いてはいけないと思いつつも舞い上がらずにはいられない。彼女からミス研の誘いを受けて入った経緯は晶さんの言うとおりだ。

「当たりです。晶さん、エスパーみたいですね」

「大したことではない。少し意識すれば誰にでもできる」

 彼女は二本目の煙草に火をつける。

「せっかくだ。少しテストしてみよう。ワンコくんはこの店のことをどの程度知っている? 店内の様子は? 間取り、席の配置、店内に何人いたのか」

 思わず店を振り返る。お店の壁には「Book Café & Bar Itoh」の文字が照らし出されていて、大きな木造の扉がある。扉には「Sorry, but we’re closed for a private event.」とある。窓もあるが、目線の高さは霞がかっていて中が見えない。さっきまでいた店内の様子を思い出しながら答える。

「ええと、確かここは元々ミス研にいた先輩がされている店で、歓送迎会はかならずここでしていると聞きました」

「そうだな。店の様子はどうだ」

「様子……かなり騒いでしまってますね。テーブルを真ん中に寄せて、椅子で囲んでます」

「店内には何人いる」

「えっと、院生の佐古さんと、四年生が部長の遠藤さん、三年生の、えっと確か守山さん。二年生が高橋さんと大田さん。あ、大田さんは三年生でしたっけ。あと、一年生が僕と君嶋さん」

「それから?」

「それから? ああ、ここに晶さんがいるのと、店長さん。他にお店の人はいなかったような」

「ワンコくんはその中で親しい人がいるのか?」

「いえ。一、二度部室に顔を出させてもらったことはありますが、正直会話が続かなくて。君嶋さんはもうなじんでいるみたいで、今日も輪の中心にいますね」

「そうか。まあ、また話しかけてやってくれ。悪戯好きでクセが強い連中だが、悪い奴らではない」

 はあ、と気の抜けた返事をする僕に軽く笑み、新しい煙草に火をつける。相当なチェーンスモーカーらしい。

「店の間取りは覚えているか? 内装は?」

 僕は目を閉じて、店に入った時のことを思い出す。

「えっと、玄関入って右に曲がると正面にバーカウンターがあって、向こう側に酒瓶が並んでいました。カウンター席は三、いや四席くらいあったかと。空間の手前側には二人掛けのテーブル席が……六卓、だったかな。それぞれ深く座れるソファがあって、今はそのテーブルを真ん中にくっつけて、ソファで囲んでいます。バーカウンターから振り返ると、テーブル席の後ろに大きな本棚がありました。そうだ。店内から見たら、その本棚で玄関が隠れていましたね」

「間違ってはいない。トイレは何処にある。スタッフは何処からカウンターの中に入る」

「そういえば……あ、そうだ。玄関からまっすぐ行ったところに扉がありました。従業員用の通路か何かと思っていましたが、そこがトイレかも。カウンターの中は、おそらくL字の端が切れていて、そこから入れるようになっているんじゃないでしょうか。そちら側はエスプレッソマシンとかがあって、あまり近づいて見てないので想像ですけど」

「悪くない推理だ」

「合ってますか?」

「合っているかどうかは、自分の目で確かめるといい。おそらくワンコくんは、一年在籍すれば、ソファの色、照明の種類、床の色、彼らの配置、様子、どの本が平置きされていたのかもきちんと言い当てられるようになるだろう。さらに観察力を養うといい」

 彼女はそれだけ言うと煙草を灰皿に落とし、店内へ一人戻って行った。

 置いていかれた僕は、もう一度目を閉じて思い出す。ソファの色は、確か黒っぽかった。いや入口側は白っぽかった気もする。多分統一されてなかった。照明って、蛍光灯みたいな普通のやつじゃないのか? 別にシャンデリアみたいなのではなかった気がする。床の色は……。

 そこまで考えて、諦めた。店内に一時間以上いたが、きちんと覚えていない。何かの事件に遭遇し、警察官に事情聴取を受けた場合、上手く答えられる気がしない。見ているつもりで見てないものだなと思いながら、僕は玄関の扉を開く。

 通路の正面にはやはり戸があった。良く見ると「Restroom」と書いてある。僕は一応、と思い戸を開く。中には落ち着いた雰囲気の洗面台、さらに一枚扉を挟んで、向こうには洋式の便器が覗いている。

 そして、洗面台の床には、鮮血の中で倒れている君嶋さんがいた。

 裏返ったような情けない悲鳴が聞こえた。それが自分の咽喉から出てきたものだと気づいた瞬間、力が抜け、扉にすがるように座り込んだ。

 姿勢が低くなり、君嶋さんの白いTシャツが赤く染まっているのが良く見えた。足下には真っ赤に染まったカッターナイフ落ちていて、僕は思わずそれを拾って見つめる。僕のだ。百均で買うような安物ではなく、段ボール等厚手の物もストレスなく切れる、お気に入りのカッターナイフ。バイトの面接用に証明写真を撮り、それを貼りつけるために今日は家から持ってきて、今はカバンの中に入っているはずのものだ。持ち手には「Y.I」と書かれたシールが貼ってある。なんでも勝手に使う弟がいるせいで、お気に入りの物にはイニシャルを入れることにしていた。

 後ろから悲鳴が聞こえた。思わず振り返ると、青ざめた顔で君嶋さんと僕を見つめる大田さんが立っていた。遅れて他の人たちも駆けつける。

 ふと気づく。血まみれで倒れている君嶋さんと血まみれのカッターナイフを握り座り込む僕。後ずさる人々を見て、カッターナイフを投げ捨てる。

「違う。僕じゃない」

 その言葉をきっかけに、再度上がる悲鳴。

 背の高いひげを蓄えた店長さんが口元を押さえて、警察、と呟く。

 おもむろに近づいてきた遠藤さんが、僕の腕を取り、難なく後ろ手に回す。僕の手首をひもで縛り始める。細い荒縄のひもが食い込み、冗談じゃなく本気で拘束されていると感じた。

「違うんです。僕じゃないんです。来た時には倒れていて」

「うん。とりあえず話は広いところでしよう。悪いけど一応縛らせてくれ」

 遠藤さんは冷静な声で答え、縛り終えると僕を立たせる。足に力が入らずよろめくと、また小さく悲鳴が上がる。みんなが避けるようにすっと道を開ける。遠藤さんは僕を支えるようにして歩く。

「随分と派手にやってくれたな」

 腕を組んで玄関の近くに立っていた晶さんが、洗面台の方を眺めながらつぶやく。目を合わせてくれない彼女の眼を見つめ僕は無言で首を振った。




 店内の中央に僕、それを囲むよう半円状に椅子が並べられた。カウンターの向こうで店長さんが心配そうな顔をして立っている。

「部長、君嶋さんは……?」

 遠藤さんが洗面室から戻ってきたのを見計らい、大田さんが話しかける。遠藤さんは静かに首を振った。

「いくつか傷があったが、深いのは首だ。完全に……」

 遠藤さんは言葉を濁す。誰もが口や顔を覆い、何も言わなかった。ただ僕を盗み見るような視線が痛い。

「信じてください。僕じゃありません」

 言っても無駄なことはわかっている。が、言わずにはいられなかった。僕の正面のソファに座った遠藤さんが、無表情で僕を見つめる。

「なら何であの場にいたんだ? なんでカッターナイフを握ってた?」

「たまたまトイレを覗いたら、君嶋さんが倒れていて、そばに落ちていたカッターナイフが僕のに似ていて、良く見たくて拾ってしまって」

「覗くってどういうこと? 君嶋さんが入っているからトイレを覗こうとしたってこと?」

 明らかに嫌悪の眼差しで髙橋さんが質問する。口元をハンカチで覆っているものの、棘のある言葉がストレートに突き刺さる。

「ちがっ! そうじゃなくて、その部屋がトイレかどうか確認したくて、そうだ! トイレに行く前に、僕は外で晶さんと話をしていたんです。間取りの話をしていて、トイレの位置があやふやだったから、席に戻る前に確かめておこうと思ってそれで」

「イノさん、事実ですか?」

 少し離れたソファに腰かけていた院生の佐古さんが静かに晶さんを振り返る。晶さんは、カウンターの定位置に座って傍観している。

「彼と外で話をしていたのは事実だな」

 晶さんはグラスから手を離すと、左手をカウンターに置き、右手を軽く上げ「事実のみを語る」と呟く。

「君たちが盛り上がっている中、彼だけが輪に入れずにいたようなので、私が誘い外へ連れ出した。煙草を吸う間の雑談として、店内の間取りを覚えているかと訊いた。私は先に店内に戻った。その後の彼の行動は把握していない」

「じゃあ、その後にトイレに行って君嶋さんを襲ったということね」

 晶さんの落ち着いた声に食らいつくように、高橋さんが言葉を続ける。

「違います! 僕じゃありません!」

 首をブンブンと横に振る。体はソファに固定されていて首しか動かせない。

「君はひとりトイレへ行くと、そこには君嶋さんがいた。かねてから彼女に恋心を抱いていた君は彼女に迫り、拒まれ、逆上する」

 守山さんが静かに立ち上がり、僕の周囲をゆっくりと歩く。革靴がコツンコツンと響く。普段は無口でほとんど声も聞いたことが無かった。メガネの奥の知性的な目が今は赤く充血していた。

「そんな恋心なんて、無いですよ。君嶋さんはただの同級生です」

「じゃあなんでミス研に入った? 彼女に誘われたからだろう? 彼女が誘ったから、お前は好かれていると勘違いしたんだ」

「違います!」

「お前を誘ったばっかりに、最近ずっと見られている気がすると彼女は言っていた。自分から入部を誘った手前、あまり露骨に避けるわけにはいかないと悩んでいた。そんな愛美の優しさに気づかず、お前はいい気になって迫った。愛美にはそんなつもりは無かったのに! 彼女に拒まれ、逆上して傷つけたんだろう!」

 僕の後頭部に冷たいものが押し当てられた。丸い筒状のもの。それが静かにカチッと音を立てる。

 ソファに座っていたみんなの顔色が青ざめる。思わず立ち上がった遠藤さんに、「動くな」という守山さんの冷たい声が響く。

「守山くん、落ち着いて。そんなことしても意味無いよ」

 大田さんは乾いた喉を湿らせるように、唾を飲みこんだ。守山さんは後ろで声を上げて笑う。

「意味が無いって? あるじゃないか。愛美の仇なんだ」

 僕は声にならない声を上げていた。悲鳴なのかうめき声なのか、とにかく口から声を吐き出し続ける。その声を止めるように、後頭部の筒が強く押し付けられる。

「死ね」

 声と同時に、破裂音が聞こえた。漂う硝煙の匂い。……匂い?

 突然、僕の体を縛っていた縄が緩む。そっと目を開けると、周囲をみんなが囲んでいた。

「「「ようこそ、ミス研へ!」」」

 みんなが手に持っていたクラッカーが一斉に鳴る。僕はみんなが手を叩いて盛り上がる様を呆然と見つめていた。みんなの手に晶さんがグラスを渡していく。

 はい、と差し出されたグラスを受け取り、見あげるとそこにはニコニコと笑う君嶋さんがいた。

「ぇえええぅぁあぇえ!」

 思わず仰け反り、シャンパンが思い切り零れる。君嶋さんは黒いTシャツ姿で、僕の肩を叩いて笑う。

「はい、グラスは行きわたりましたでしょうか。では改めまして、君嶋さん、犬塚くん、ミス研へようこそ。そして今年も歓迎会の成功を祝しまして、乾杯!」

 高々とグラスを掲げる遠藤さんに、みんなが唱和する。そして各々に僕の肩を叩き、最高だったと褒めてくれる。いや、褒められているわけではないのか。

「君嶋さん、洗面室を随分と派手に飾ってくれたな」

 晶さんはシャンパンを飲みながら君嶋さんに話しかける。君嶋さんは満面の笑みでグッと親指を立てる。

「去年は匂いまでつけられてな。汚れはともかく匂いが残り、かなり往生した」

「だってやるなら徹底的にやりたいじゃないですか。血のりに鉄の匂いをつけるの、結構大変だったんですよ?」

 大田さんがわざと口を尖らせてみせる。

「イノさん。店から出る前、犬塚くんに『愛は犬を連れてくる』って言ったでしょ。あれ、横で聞いててドキッとしましたよ」

 佐古さんはソファの背もたれに腰かけていた。晶さんは薄く笑う。

「二年前は失敗しただろう? 感づいていないか一応確かめておこうと思ってな」

「そもそも僕をひっかけようというのが間違いだったんですよ」

 守山さんはメガネを押さえ、得意そうに笑う。話についていけない僕がキョロキョロと目を泳がせていると、高橋さんが目を合わせ微笑む。

「本来ならターゲットになるはずの君嶋さんに、歓迎会のことがバレちゃってね。しかも仕掛け人に立候補して、代わりになる人を必ず連れてくる、っていう約束してくれたの。それがそのまま今回の歓迎会の符丁になったのよ」

 愛は犬を連れてくる。君嶋愛美が犬塚優馬を連れてくる、ということか。

「じゃあ、御門狂三郎シリーズとかいうのは?」

「出まかせだ。まあ正確に言えば、彼の書くミステリー小説だ」

 晶さんは遠藤さんを顎で指し示す。遠藤さんは慌てたように手を振る。

「僕の黒歴史を次世代に継ぐの止めてもらえませんか」

「そうか? 私は気に入っているのだが。何なら製本してこの店においても良い」

「絶対止めてください」

「残念だ」

 晶さんはグラスを空にすると、カウンターへ戻る。店長さんが空のグラスにシャンパンを注ぎながら口を開く。

「それにしても白熱の演技だったね。今年も良いもの見せてもらったよ」

「ひとえに健司さんの演技指導のおかげですよ。色々小物まで貸していただいてありがとうございました」

 遠藤さんは丁寧に頭を下げる。それに続くようにみんながお辞儀をしていた。未だ話についていけない僕の肩に、晶さんがそっと手を置く。

「ワンコくんも疲れているようだし、そろそろ解散としよう。フロアと洗面室は全員掃除を手伝うこと。グラスや皿はこちらで片付ける」

「あ、あの。晶さん」

 各々が箒やモップを持ってクラッカーの破片を片寄せるのを見ながら、僕は口を開く。机の上の皿を重ね、運ぼうとしていた彼女は手を止め振り返る。

「晶さんって、このお店の従業員だったんですか。僕、ずっと院生だと勘違いしていました」

「厳密に言えば、違うな。従業員ではない。オーナーだ」

 元ミス研の先輩というのは晶さんのことだったのか。

「え、でもお店の名前はイトウって」

「イトウは私の旧姓だ。猪の頭と書いて猪頭」

「き、きゅ旧姓?」

「ああ。水河はそこの、役者くずれの姓だ」

 彼女は顎で店長さんを指し示す。下を向いて皿を洗う店長さん、というか水河さんにはこちらの会話は聞こえていないようだ。

「え、夫婦ってことですか」

 動転しすぎて当たり前のことを口走る。思わず彼女の左手を見た。中指と薬指に指輪があるが、薬指の方はシンプルなデザインだ。その視線に気づき、手の甲を見せつけるように差し出す。

「You see, but you do not observe. The distinction is clear.」

 彼女は歌うように呟くと僕に微笑む。

「ワンコくんには、ホームズを貸そう。読んでみるといい」

 その微笑は女神のように美しく、もう目を逸らすことが出来ない。僕はただ茫然としたまま頷くのだった。



シロクマ文芸部の企画に応募するつもりだったのに、〆切を過ぎたどころか、もうすぐ二周遅れです。

今回、というかこの回のテーマは「愛は犬」。


百の鳴き声を持つカピバラこといまえだななこ様より、ひよこ作「#シロクマ文芸部」のお話を朗読する宣言を受けておりまして、劇団カピバラ座と言えばやっぱり「犯人はこの中にいる!」とか叫んでほしいなぁという思いつきからミステリー仕立てにしたらミステリーという性質上全然端折れなくて想像の三倍の長さになってしまい、結果読まれることを意識して書いていますとかいうと私の頭にカピバラの歯形が彫られそうな気がしてくちばしが折れても言えません。


先日アップされた、ほのぼの老夫婦のお散歩風景はこちらからどうぞ↓↓


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