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プレイ時間が長すぎるってどれくらいの長さなのさ?(How long is too long?)

本記事は、Joe Farrell氏が2022年11月16日に投稿した「How long is too long?」の翻訳である。

似たような話は既に翻訳したことがあり、末尾に参考として掲載している。もっとも、ボードゲームにおけるプレイ時間の長さに関する話は、もう少し掘り下げても良いだろうと思っているところもあって翻訳した。同じような話題を違う観点から改めて見てみる意義もあるだろう。

本記事と関連する話として、Takewatch氏の「レビュー:フレイムクラフト/Flamecraft」という卓越した記事が先行して存在する。日本におけるボードゲームの分析・見識は海外に全く引けをとるものではないように思われる。

BGG上の最近のスレッドでは、ユーザに対して、"内容の割に長すぎる"ので、もっと短ければ遊ぶかもしれないと考えるゲームのタイトルを挙げてくれるように求めていた。このフレーズについては、みんな聞き覚えがあると思う。私だって、Grimwoldの毎月のGeeklistにおいて、私にとって新しいゲームの第一印象を共有する時に何度も何度も(※このフレーズを)使ったことがあるさ。でも、それは何を意味してるんだろうか。たしかに、長い短いというのは絶対的なものじゃない。壮大なウォーゲームに嬉々として8時間も費やすことがある一方で、長すぎると考える1時間級のゲームがある。この記事では、ゲームがその長いプレイ時間に値するかどうかに関する私の認識に対するいくつかの要因をみんなに紹介しようと思う。各要因については、3つのゲームを例として挙げる。

⛔️ 通常は、短めプレイ時間と関連する特質を備えているゲームであって、その内容の割に長すぎると感じるもの

⏩ (※上記と)同じ特質を備えている似たようなゲームで、そのプレイ時間が比較的合理的であるもの

✅ (※上記と)同じ特質を備えている別のゲームで、そのプレイ時間がまさしくその内容と合致しているもの

運と技能

結果が定まるに当たり、技能よりも運の要素が大きいゲームであればあるほど、私はそのゲームに対する許容度が小さくなっていく。ここで、私がランダム性が存在すること自体を嫌っているわけではないと慎重に述べるべきだろう。私は、純粋な運と純粋な技能との間のどこかにゲームが存在していると考えているわけじゃないんだ。ゲームは、その両方を多く備えることだってあるし、それでいいと思っている。皮肉なことに、確率は、長い時間が経過すれば平均化される傾向にあるので、実際にプレイ時間が長いと、ゲームにとっては都合が良くなる。コイントスを3回して毎回同じ結果になる確率は4分の1だ。コイントスを300回すれば、その確率は無視できるほど小さくなるので、人はその確率を数字として認識することさえできなくなる。

当然、ゲームの技能要素は、プレイ時間の長さを十分に正当化するほど面白いものでなければならない。ただ座ってコイントスを何度も何度も繰り返したいと思う人なんていない(正確には、私が一緒にプレイした人の中にはいない。)。「トワイライトストラグル」を例にしてみよう。このゲームにはかなりの量の運要素が含まれている。クーデターの試み、不安定工作(realignment rolls, ※影響力排除)、宇宙開発の進歩、それに加えてプレイヤーのいくつかのイベントは、ダイスを振ることによって定まる。しかし、バランスがとれるようになるほど、十分に長い時間をかけて十分な回数ダイスをふることになる。それに、いつどこでこういった試み(attempts, ※アクション)を行うべきか決めるとか、対戦相手が報復しそうな可能性がある場所を予測して防衛するとか、嫌なイベントの影響を最小限にし、自分にとって好都合なイベントの影響を最大限にするためにカードを管理するとかといったことに関連した多くの技能を要する。悲惨なダイスの出目によってゲームに負けることも起こり得るが、50%をはるかに超える確率で、卓越したプレイによって勝利することになる。

⛔️ 「クアックサルバー」は、上記の理由から長すぎると考えるゲームの具体例となる。その上、このゲームは凝りすぎてるように思う。繰り返しダイスを振って誰が一番良い目を出したかをみることと同種の体験をもたらすためだけに、多くのコンポーネントと仕組みをゲームに備えなければならない理由を理解することはできない。私は、まだ、3手番しかプレイしていくて、あと6手番も残っていることに気づくまでの間、初回プレイでみんながこのゲームに何を見出しているのか理解したと考えたことを鮮明に思い出す。その時点で、私は、既にこのゲームをどうにかして我慢していたんだけどね。

⏩ 「ガンツ・シェーン・クレバー」は、プレイ時間を減らすという点で正しい方向に道のりを歩んでいるが、それでもあまり十分ではない。このゲームにおいてプレイヤーが抱く選択の自由度は、主に錯覚であるように感じられる。プレイヤーは、理論上の最高点を獲得することになるダイスの正確な組合せを簡単に把握することができるので、その方向に物事が進むように導いて最善の結果が出るように期待するだけとなっている。 

✅ 「Las Vegas」は、個人的にバランスがきちんと取れていると思う運要素の強いゲームだ。非常に早くゲームが進み、約15分でプレイが終わり、上記の2つのゲームのいずれかよりもインタラクションが多くて、場が活気づく。

戦略と戦術

私は、この項で、上手くプレイするために長期的な計画立てを必要とするゲーム(戦略)と、各手番でまさにその瞬間のゲームの状態を最大限に活用するゲーム(戦術)を区別している。私は、両方のタイプのゲームを楽しむが、一般的には、戦略ゲームのほうが長いプレイ時間に適していると感じる。より戦術的なゲームが、長すぎてしまうことで反復的であると感じ始める可能性がある一方で、(※戦略ゲームは)確定した目標に向かって徐々に構築していくことで、プレイヤーは熱中を維持し続けることができる。

テラミスティカ:ガイアプロジェクト」は、私のお気に入りのゲームの1つで、間違いなく、戦略要素の極地に属するゲームだと思う。このゲームは、各ラウンド限定の得点目標、ランダム化されたゲーム終了時の得点目標、相当な準備なしには手に入れることができない上級技術が含まれた完全情報ゲームだ。したがって、セットアップを見れば、ゲームの後半に何を求めていくかに関して多くの情報が得られる。プレイヤーは、自分の種族を選択する前ですら、自分のゲーム終了時を想定している。そういうことから、自分の種族を選ぶことが、おそらく、このゲームで最も難しい意思決定になるだろうと考えている。ゲームの最初の3分の2を費やして念入りに基礎作りをしておいて、後々に戦略が一つにつながるのを見ると、とてつもない満足感を覚えることに対して低く評価することなんてできない。もし、序盤においてほとんど得点が得られなかったゲームでは特にそうだ。

時として、プレイヤーが戦術ゲームにおいて現れる運要素の強さを誇張して話すことがあるという点において、このカテゴリと前のカテゴリとの間に少しつながりがある。裏向きになった山札から手札を引くとか(blind card draws)、大量のカードで構成されるデックのわずかな部分からカードを購入するとかといった要素(もしくはその両方の要素)のあるどんなゲームも、カードの引き運が悪かったことについて不満を漏らす人たちがいる。けれども、そういった文句の多くは、そのゲームを正しく遊んでいない人たち、要は、戦術的にゲームをこなして得たものを最大限活用としないで、初期の戦略を選択してそれを追求することができると期待している人たちから生じているように感じる。「ワイナリーの四季」に関する議論でひっきりなしにこの話を見るし、個人的にはかなり誇張されているように思う。自分のカードの引きが、そうであって欲しかったものから最もかけ離れた場合でも、私は「ワイナリーの四季」の多くのゲームで勝ったことがある。

⛔️ 「テラフォーミング・マーズ」は、「テラフォーミング・マーズ拡張 プレリュード」を取り入れたとしても、劇的に長いプレイ時間となるゲームの典型的な例となる。今では、もう何年も積極的にこのゲームを避けてきたが、それぞれのゲームにおける自分のプレイの中で、中盤にも差し掛かっていないにもかかわらず、いつでも終了トリガーを引く(over well)ことができる状態であったことを思い出す。これは、私が同卓してきた対戦相手のタイプと関係があるのかもしれないということは認めざるを得ない。それは、ただ自分のエンジンを構築して、うんざりするほど何度も何度もエンジンを起動させて、ゲームを終了させることについて二の次や三の次(tertiary)くらいにしか関心がないプレイヤーのことだ。たまに、BGG上で、自分のエンジンを起動させる時間がもっと長くあるエンジンビルドゲームを探し求めている人を見かける。そして、「テラフォーミング・マーズ」が、そういった人たちの新しいお気に入りゲームになったり、(※エンジンをたくさん起動させたいと)望むこと自体を用心しないといけないと考えさせる良い教訓になったりすることは分かっている。

⏩ 「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」は、1つの大きな理由のおかげで改善がみられる。「テラフォーミング・マーズ」におけるゲーム終了トリガーはプレイヤーが共同で到達するものだが、「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」のそれは、個々の誰が終了トリガーを引くことができるかを判断する純粋な競争である。もし、「アーク・ノヴァ 新たなる方舟」において、あるプレイヤーがゲームを終了させようと急いでいて、他のプレイヤーがそうではなかった場合、その最初のプレイヤー(※ゲーム終了させようとするプレイヤー)が他のプレイヤーを圧倒することになるだろう。正直に言えば、それでも個人的には長いと感じてしまう。もし、私の妻と一緒に遊んでいて1時間以内になれば、今よりももっと楽しむことができると思う。

✅ 「Pax Renaissance」も、戦術的なゲームだ。特定の戦略に邁進することもできるが、どのカードが出現するかという不確定性や、自分の状況を打ち崩したり、手番中にマップを大きく形成し直したりするといった対戦相手の力量というのが、短時間での戦略の変更を行う用意をしなければならないことを意味する。そして、このゲームに関して多くの素晴らしいところの1つとして、時間が早く過ぎ去るという点がある。もし、プレイヤーが自分の行なっていることがわかるのであれば、2人ゲームで30分しかかからない。もっと長くなるプレイ時間を正当化する性質は他にたくさんあるけれど、そんなことに悩むことはない。私の知っているどのゲームよりも、多くのアクションを詰め込んで、それにかかる時間を少なくしている。

プレイヤー間のインタラクション

ゲームにインタラクションがあればあるほど、私の興味を長い間ずっと維持し続けてくれる。プレイヤー間のインタラクションについては、あるプレイヤーが別のプレイヤーのゲームの状態に影響を与えることができるという意味で使う。要は、社交的なやりとり(social interaction)という意味では用いないこととするよ。社交的なやりとりというのは、いかなるゲームにおいても起こりうることだし、実際に起こっているわけだからね。このことは、時々、見過ごされてしまう区別となってる。BGG上の誰かさんが、インタラクションのあるゲームのおすすめを尋ねたら、別の誰かは、みんなが鳥について話し始めるからという理由で「ウイングスパン」を薦め始めた時には死ぬほど笑ってしまったよ。その人が求めていたものとはほぼ間違いなく違うよな。

強いインタラクションによって、私は、自分の手番でない時にゲームから目を逸らせなくなる。だって、対戦相手がやってることが直接自分に降りかかってくるからね。もし、私が自分のパズルを解いていて、みんなも自分のパズルを解いているだけだとしたら、ダウンタイムは問題となる。特に、プレイヤーがゆっくり行動してる時にはそうだ。私がそういったゲームを楽しむにはプレイヤー人数も制限することになる。もし、みんなが頭を下に向けて自分たちの小さい世界に集中してしまうのであれば、プレイヤー人数を増やしてもゲーム体験に付加価値が伴わない。

世の中には、素晴らしい強いインタラクションのあるユーロゲームがある。「バラージ」は、私が心の底から楽しんだ最も新しいゲームである。けれど、ウォーゲーム、トレーディングカードゲーム、トリックテイキング、古典的なアブストラクトのような他のタイプのゲームには、本当に輝くようなものがある。今月の上旬に、3人で「Here I Stand」のルールを覚えるためにプレイしたんだ。2時間経過して中途半端な状態のままで終わったが、私は、みんなで2倍の時間をかけてプレイできたらいいなと願っていたことに気づいた。このゲームは、最大プレイ人数でフルで遊んだとしても素晴らしい体験になるということを確信しているよ。

⛔️ 「ニュートン」は、しばらくの間、本当に楽しんだゲームだが、最終的には手放してしまった。ゲームの中にインタラクションがほとんどなくて、ベストなプレイ人数が1人だと思うほどだった。おそらく、あるプレイヤーが欲しいカードを獲得したり、あるプレイヤーが欲しい小さいボーナストークンを拾ったりする以外に、他のプレイヤーができることはない。ソロゲームでは、獲得できる各アイテムが少なくなるので、いずれにせよ、ゲーム体験は同じものとなる。このゲームは、プレイヤー全員に分析麻痺をもたらす可能性もある。理想的には、プレイヤーは、一手を打つ前にラウンド全体を分析し尽くたいと考える。プレイヤーをもっと増やすと、単に長引かせるだけとなってしまう。

⏩ 「Grand Austria Hotel」も、弱いインタラクションのゲームだ。しかし、セットアップは早く、アクション数も少なく、個人的な体験に基づけば、おおむね分析麻痺も少ない。それに、ご想像のとおり、「ニュートン」では、プレイヤー全員に平等に開かれていたのに対して、「Grand Austria Hotel」では、プレイヤーが得点となる目標に向かって競争するという点において、わずかにプレイヤー間のインタラクションが強まっている。それでも、このゲームは、3人以上の人数では決してプレイすることがないゲームである。それに、もし、対戦相手が、私の好きないろんな2人用ゲームを楽しめていなかった場合にしか、このゲームの2人プレイを提案することはない。

✅ 「世界の七不思議」は、同時プレイを許容することで、プレイヤー人数問題をきっちり解決している。私は、「世界の七不思議」を弱いインタラクションのゲームのリストに含めているので、BGGのみなさんの怒りを買ってしまうかもしれないね。けど、ドラフトというのは非常に弱いインタラクション形式だと考えている。ドラフトが重要ではないと言っているわけではない。もっと強いインタラクションのあるゲームから得られるものと同等の体験をもたらさないというだけだ。実のところ、全体的には「Grand Austria Hotel」のほうが好みだが、それは2人プレイに限った話だ。3人以上であれば、その代わりに「世界の七不思議」をプレイするね。

アーク、発展性、物語性

戦術よりも戦略に軸にすることだけが、時間をかけて何かを構築するような感覚を与えて、長時間、没頭させ続けることに資するものというわけではない。(「The Lord of the Rings: Journeys in Middle-Earth」のキャンペーンのような)明確に作成された物語や、(「アンブッシュ!」におけるパラグラフブックのような)プレイヤーに詳細を補充してもらう示唆に富んだせりふ付け(prompts)や、(「High Frontier 4 All」における太陽系の果てのような)多くの準備なしには到達できないゲームの非常に重要な部分をなしている構造体といったものを用いて、物語のあるゲームも同じことをしている。

発展性(Progression)は、物語的な質を必要としない。ただ、ゲームの長さに応じて成長していくと感じられればいい。「ブラス:ランカシャー」では、序盤の開発の狂乱を端緒にして、ネットワークの概要を描き、線路の急増が起こり、最終的に高い価値の産業を築いて入れ替えようとするという移行がみられる。収入が増加するにつれて、お金がないことの苦悩は弱まる傾向にあるが、空間的な悩ましさというのは、ボード上が満たされるにつれて強まることとなる。もっと単純な例として、「蒸気の時代」は、ゲーム開始時に赤字で、破産に陥ることなく必要なインフラを構築するためにどれほど深く掘り下げることができるかということにストレスを感じさせるという理由だけで、ゲーム中盤に劇的な変化を生じさせる。危機を脱して収益が上がるようになれば、特に過酷なマップとなると、何度プレイするとしても常に高い満足感を覚えるね。こういったことがないゲームは、しばらくすると時間を浪費しているように感じてしまう。

⛔️ 「Mosaic: A Story of Civilization」は、何かを構築しているって気分を味わうことは決してない。このゲームを文明発展ゲームとして市場に出していることが、とりわけ間違いだと思われる。技術的な進歩は、抽象的なシンボルの収集に還元される。業績は、いかなる点においてもプレイヤーの文明を発展させない、ただ得点になるだけなので、意味がないように感じてしまう。いかなる種類のアーク(※盛り上がりと解して差し支えない。)がないことによって、単に同じアクションを繰り返し行うだけになって、ゲームが終わる前に、本当にだれてしまう。

⏩ 「The Castles of Burgundy」も、たまに、プレイヤーがエリアを完成させて得点を得たり、プレイヤーが色を揃えて得点を得たり、プレイヤーが特定のタイルを配置して得点を得たりするのを除くと、プレイヤーが終始同じことを行うアブストラクト寄りのゲームだ。しかし、大量の選択肢を提供するにもかかわらず、このゲームの方がかなり早くて単純であるから、プレイするのがはるかに楽しくなる。見方によれば、このゲームは早すぎるといっていいくらいだ。もし、死ぬほどプレイしていれば(私は死ぬほどプレイしてきた。)、かなり早く1ラウンドを行えるので、最終的に、袋からタイルを引いて次のラウンドのためにボードにセットする時間が過度にかかってしまうように感じられてしまうという点があるからね。

✅ 「Bus」は、奇妙だが素晴らしいゲームだ。バス会社が時間を止める力がある理由に関して物語を考案したいと思わない限り、物語なんてものはない。このゲームからも発展する感覚はあまりない。その理由は、もっと多くのバスを購入し、路線を広げ、街を発展させるけれども、「バス」は、ゲームの開始時だろうと終了時だろうと、あらゆる勝利点が非常に苦労して獲得するように感じられるほど、単純なパッケージの中に、対戦相手を妨害する賢い方法をたくさん詰め込んでいるからね。早いし、私の限られた経験の中では120分という定められたプレイ時間にうまく収まっている。それに、常に戦い続けるということが、退屈な瞬間を決してもたらすことはない。

まとめ

この記事で要点だけを述べた要素は、常に、相互にうまく区別されるとは限らない。私が選択した具体例の中には、これらの要素の1つに関して、別の要素について非常に強力となっているから、うまく機能しているゲームがあることに気づく。それにプレイヤーごとに大きく異なるのは明らかなので、他の人たちが何を論じてくるのかを見るのが非常に楽しみである。「テラフォーミング・マーズ」を嬉しそうに一日中プレイする人たちがいるのは知ってるし、さらに長くプレイできるメガゲームにするために、複数の「テラフォーミング・マーズ」を組み合わせるといった頭おかしいことをしているのも知ってるさ。私は、約1時間で我慢できなくなるんだけれどもさ。

BGGのオタクどもはどう考えたかな。どれくらいの時間であれば、プレイ時間が長すぎると感じることなくゲームできるという認識に影響を与えるのはどんな要素なのかな。私が見過ごしてしまった大きな要素があるかな。挙げたゲームに関して完全に誤った論述をしてるのはあるかな。

以上

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