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少年期 ③

 面と向かって話すと、信じてもらえないどころか以降の信用を失いかねないな、と感じて公言してこなかった体験談を、この際残してしまおうと考え、書くことにしました。少年期のお話です。

崩壊の瞬間

 11歳になる前のこと。私の所属していたクラスが、その自治体で初めての学級崩壊を起こしました。全国でも数例目のことで、事態を重く見た教育委員会は人事異動を駆使して、私達の学年へ敏腕教師をあてがうようになるのですが、これはまた別のお話。
 学級崩壊の原因は、一言で済ましてしまうならば、担任の指導力不足でした。学級内で障碍を持つ児童に対する支援のあり方について折り合いがつかず、またそれが担任の宣言との矛盾を含んでいたために、対応した担任への不信感や不満を複数の児童が噴出させたのでした。今の自分があのクラスを担任したとしたら、『特別でない特別支援』の理念に基づいて学習機会を設けていったと思うので、宣言との矛盾は生じなかったとは思うのですが、この『特別でない特別支援』という概念も、こうした特別支援と学級崩壊の問題を解決するために生み出されたものであるので、あの事態のあの場所で、となると手は無かったのだろうと思います。

 私はその戦火に直接捲かれたわけではありませんでしたし、むしろ崩壊した学級は居心地良くさえありました。
 全開に述べた視線の話ですね。自分に向けられる負の感情は、その存在が鋭敏に知覚できるためによく刺さりましたし、正の感情は正体が分からな過ぎて勝手に不気味に思ってしまうという、この頃の私は他者と積極的に関わりたくない子どもだったのです。
 ですが学級が崩壊すると、特に問題行動を取らない私に視線を向ける人はほとんどいなくなりました。その、裏山の中でも得られない視線からの開放が心地良かったのです。自由の甘露を口にしたのです。

 そうして私は観察する側に立ちました。人はどうせすぐに死ぬのに、なぜ彼ら彼女らがああも必死に、様々な手法で主張を繰り広げるのか、知りたくなったのです。
 崩壊させた児童らに、何がそこまでの怒りを産んでいるのか尋ねました。答えてくれるよう距離を測り、非敵対姿勢を取り、自分の意見を開陳して。その結果、本章第2段落に記した崩壊の原因が分かったのです。
 子どもながらにと言いますか、子どもだからこそと言いますか、筋の通らないこととそれに対しての謝罪などの姿勢が見えないための怒りでした。その表出手段はともかくとして、抱かれた怒りには共感できました。
 一方で、担任の側にも話を聞きに行きました。
「事態を早く解決したい。巻き込まれた児童に申し訳ない。どうしたらいいのか分からない」
だいたいそんなことを言っていました。この時点で、この人に信念や職業哲学のような芯たる部分が欠けていることを感じました。人の行動決定は大きく3種類に分かれます。1つは信念による行動。2つめは良いものを得るため選択。3つめは悪いものの回避です。その他細々としたものもありますが、ベースはこれです。教育現場は2つめの選択の幅を広げられるような環境整備が行われることが前提なのですが、この教師の行動は3つめ、回避行動に終始していました。スポーツで言えば防御戦術に徹している状態です。現状がビハインドなので、これではそれ以上の悪化を防ぐことはできても改善は望めません。
 そんなことを直感的に理解した私は、何かが崩壊したクラスを修復してくれる可能性を切り捨てて動き出したのでした。好き勝手にできることをしただけですが。
 隣のクラスにまで足を伸ばしましたが、そちらでは
「君がそこを心配するのは感心するが、それは先生の仕事だ」
とのコメントをもらって終了。この方はマトモだったなと思います。

 騒ぎの中で大小40余りの事件が起きましたが、図書室立て篭もり事件が起きた際にバリケードを組まれたドアではなく窓から図書室へ進入して開城の交渉をしたり、特別教室の備品連続破壊事件の序盤に理科室への襲撃を食い止めたり、職員室へのイタズラに加担したり。5つくらいに関わりました。
 感じたのは対話――感情のぶつけ合い――の不足がひとつのきっかけだったということでした。主犯の子は自身の主張をする際、その根底にあった感情を吐露していました。しかし対応する教師の側で、自身の感情を(驚きや狼狽や焦り以外に)見せる人はごく少数でした。それが、暖簾に腕押し感とでも言いますか、「真剣に取り合ってもらえていない」と主犯の子らが感じてしまっていた原因でした。そらエスカレートしますね、と思います。そしてそれゆえか、「続きを読みたい本があったけど普通には入れないからムリヤリ入った。借りたら出るけど、同じ思いの子もいるんじゃない?」から入った図書室の件も、「理科の実験をしたいんだ!次はとうとう火を使うんだから壊させないぞ!」から入った理科室の件も、ちゃんと話し合いになったんですよね。「顧客が本当に求めていたもの」の風刺画ではないですけど、誰が何を求めているかは分からないものです。

 そんなこんなで崩壊する学級の中で過ごしていたのですが、感じたのは感情の不可逆性でした。1度形を変えた感情は元には戻りません。加えて、それが消耗品だということも強く感じました。
 ルールを著しく逸脱した存在が傍にいる中で、自分だけがルールを守っても(短期的には)不利益を被るだけなので、多くの子は次々とルールを破りました。担任への信頼とか期待とか恩義のような感情は、ルールを守るたびに消費されていき、それが手元に無くなった子どもから無軌道に漂い始めました。逆に友情は友人と接するたびに充填されていくため、教員の提示するルールよりも友人達とのやり取りが優先されるようになっていきます。クラスメイトの半数がそうして授業に参加しなくなったある日、学級は崩壊しました。それを修復、と言うよりは再建するためには、何らかの正の感情を集める何者かが必要でした。……結論として、そんな者は存在せず、学級は進級に際して再編されるまで崩壊したままでした。

 ちなみに、崩壊した学級に残る生徒だけでもどうにか通常の軌道を維持させようと、他クラスの担任が応援に来ることが増え、専科や管理職の教諭が問題行動を起こす生徒に対応するようになりました。どういうことかと言うと、他のクラスに在籍していた問題児が野放しになったということです。
 3名ほどのエネルギッシュないじめっ子が野に放たれ、2~3週間サイクルで標的を定めて暴力的な行為に勤しむようになりました。負けず嫌いな数名がやり返して紛争状態になり、2名ほどが骨折して休戦に向かうなど、混迷を極めた後に解決へ向かったのですが、そんないざこざが学年に広がったのでした。

 そんな1年があったのでした。

生き残り

 11歳の春ごろから、成長し行動範囲が広がった子どもたちは、自然の中に集合して遊ぶようになりました。
 私とその友人達は、我が家の裏山に集まり、秘密基地の建築やサバイバルゲームをするようになりました。秘密基地は私とその兄弟が継続的に作っては壊していたのですが、サバイバルゲームは武器を作る所から友人一同でやっていきました。
 間伐の手伝いをして手に入れた木材や竹材を加工し、剣、盾、弓、矢、籠手なとを作製し、メンテナンスとルール構築を重ねながらサバイバルゲーム(原始)をして遊んだのでした。

 お察しの方もいるかと思いますが非常に危険です。顔や頭部を守る防具無しに質量のある飛び道具が舞う中を駆けるのです。繰り返しますが非常に危険です。
 危険なのでどんな武器をどうやって作ったのかは割愛させていただきます。
 ここで記しておきたいのは、この経験を通して得た2つの感覚です。

 1つは、攻撃をする覚悟です。弓を掲げ矢をつがえ、狙いを定めて引き絞ると、急速に心臓が冷えていきます。それは恐怖の感情でした。この一撃で友人に怪我を負わせるかも知れない。運が悪ければ後遺症が残ったり、最悪の場合死んだりするかも知れない。そんな、他者を傷付けることに対する恐怖が胸へと流れてくるのです。それを飲み込み、その責任を負うという覚悟を以って、矢を放つのです。これまでに自分が傷付く・死ぬ覚悟は重ねてきましたが、他者を傷付ける覚悟はこれが初めてでした。
 友人を傷付けたいワケではないので、威嚇射撃程度にして近接で打って出るのが私のスタイルになりました。
 また、参加した友人の全員が、この覚悟をしていました。快楽殺人者みたいな人が混ざっていなくて一安心ですね。

 もう1つは、殺意でも害意でもない、前述の覚悟がにじみ出たような、闘気とでも呼ぶような感情が、皆の矢に乗っていたことです。「自分が狙われている」という感覚を、ここで得たのです。
 それを隠す技術があることも知りましたが、自分で咄嗟に隠し切ることは難しかったので、入念な計画を立てないと私は暗殺者に成れなさそうです。

 サバイバルゲームは、12歳を迎えた秋頃まで続きました。最終的には秘密基地を2ヶ所に建設し――その際に建築の理論と測量方法と三平方の定理を学び台風にギリギリ耐えられるくらいの小屋に仕上げ――て、その拠点中に置いた牛乳パック製オブジェを先に破壊した方の勝ち、というフラッグルールで遊ぶようになりました。ジャンケンでチームを分け、3vs3でやることが多かったと思います。

 夏のある日、そのようにして遊んでいたときのことです。その日は電撃作戦で敵拠点へ3人で向かっていました。向こうの指揮官がそれを読んだのか拠点周囲に落とし穴を用意していたんですね。仲間の一人が膝上まで入り、行動不能になりました。それを助けるか、電撃作戦のコンセプト通り捨て置いて攻めるかの選択を、私は迷ってしまいました。失格です。仲間を見捨てる覚悟も救う覚悟も足りませんでした。その点、残る仲間は間違いなく戦士でした。脱落者に伏せるよう一声かけ、跳び箱の要領でその上を跳ぼうとしました。
 そこへ、先述の敵意が遠方から飛んできました。視認せずとも、狙撃手が矢を放つのが分かりました。急いで視線を向けると、木の枝に登った敵の1人が、それこそ矢を放った瞬間でした。その視線と残心から我々への威嚇として進行方向へ矢が飛ぶのは分かりましたが、それは同時に、跳びだした仲間に命中する起動でした。
 私は咄嗟にそれを打ち落とそうとしました。落とし穴にはまった仲間の脇を横っ飛びし、視線を矢から離さぬまま、その軌道上に躍り出ました。携えていた剣を寝かせ、側面を当てて逸らそうとしたのですが、いかんせんそこまで運動神経が良くない。軽く弾かれた矢はそのまま、剣を握る私の左腕に刺さったのでした。
 安全上の問題で矢じりは付けず、繊維が刺さらぬように表面を磨いた物だったのですが、それでも数mm刺さりました。引き抜いて捨て、被弾箇所は使用できないというルールに則り右手一本で武器を構え、近くの茂みで待ち伏せしていた敵2人を迎え撃とうとしました。
 双方のチームがばらばらと動き出す間に、迷いを持たず駆けた仲間の1人が、敵オブジェクトの破壊に成功。勝鬨を上げてゲームセットしました。
 勝利への備えもやってることの危険さの認識も足りないことを痛感した日でした。傷は持ち込んでいたペットボトルの中から、怪我の消毒用に持ってきた水で洗い、消毒液をぶっかけて布でグルグルにして圧迫しました。小学生にしてはよくやったと思いますが、雑だったので未だに該当箇所には痕が残っています。
 その傷を見るたびに自分の覚悟を問いただせるので、良いイベントだったと思っています。

 つくづくいつの時代の人間だよって話ですが、そんな小学生の思い出をこれまででひとまとめとさせていただきます。

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