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少年期 ①

 面と向かって話すと、信じてもらえないどころか以降の信用を失いかねないな、と感じて公言してこなかった体験談を、この際残してしまおうと考え、書くことにしました。少年期の初め頃のお話です。

 前回で、自らの死を覚悟した行動を取るようになったことで幼年期から少年期へ移り変わったものとしました。思えばこの時点で、自分の命に価値を見出せなくなっていたのだろうと思います。これまでは後に起こる事件でその境地に至ったのだと思っていましたが、もっと根が深そうです。
 この新たな発見があったことだけでも、こんな思い出話を形にした甲斐があったというものです。
 では、本題に入りましょう。

 前回に触れたアレルギー体質ですが、好きな物ほど体に悪い仕様でした。好きな物を食べるたび体調を崩し時に死にかけるため、周囲にはなかなか迷惑をかけましたが、おかげで成長により体重が増すとともにキャパシティも増えていきました。18歳になる頃には、体調不良時でなければ何を食べてもそうそう反応しないレベルにまで落ち着きます。
 何が引っ掛かるかと言えば、蕎麦と落花生以外の主要アレルゲンのほぼ全てです。筋細胞以外の動物性たんぱく質を含む食品全般と、生殖細胞を有する食品全般、あと抗生物質がいくつかですね。
 ですので、前回紹介した野良犬と対峙した経験以降、食事のたびに
これが最後の食事になっても自分は後悔しない
というメンタリティで過ごしていました。小学生の遭遇する人間なんて少ないものな上、体質とか込み入った話をするほどの言語能力も無かったので、この朝に道を聞かば夕べに死すとも可なりみたいなメンタリティが異常だと気付いたのは、中学の古典でそんな説話を読んだときでした。
 死にたいワケじゃないけど、5秒後に死んでも「まあ仕方無いよね」って流せるという、鉄砲玉メンタルはそんな日々の積み重ねで醸成されたのでした。我ながら生まれる時代を間違えたと思います。

時の流れ

 8歳、9歳くらいからだったと記憶していますが、時の流れを感じるのが好きでした。何かに熱中するのではなく、集中した自分から1歩引いて、時間が流れる中に身を置く感覚を味わうのが好きなのです。
 面白くないTV番組や映画を見たり、図鑑を読んだり、文字を書いたり、薪を割ったり、木を切り倒したり、焚き火をしたり、将棋を指したり。思考する自分もいるのですが、その周りに漂う時間を感じるのが良いんですよね。12歳くらいからはジグソーパズルもこの中に加わりました。
 娯楽作品に触れるのも楽しいのですが、これはまた別でした。熱中するコンテンツもありましたが、そうした湧き上がる熱ではなく、淡々と流れていく中に身を置き、自らの意思で薪をくべることを楽しむ感覚。特に自然の中で得られたそれを、私は大事にしていました。
 大人になると、改めてその時間を作る難しさを感じるわけですが、いいものです。
 面白いコンテンツを求めるのではなく、在るものをコンテンツとして楽しむ姿勢で日々生きていたのですね。今思えば、自分はその日の食事を最後に死ぬ可能性が割とあったので、楽しみを他者に任せてしまうと楽しみ切れない内に死にかねなかったため、それを回避しようとしていたのかも知れません。何にせよ子どもらしさの無いヒネたヤツだったことは確かです。我ながら相手をしたくはないですね。

根っこ

 私の両親は教師でした。それが表立って私の生活に影響を及ぼすのは高校に上がってからでしたが、9歳のある日、確実に私を刺した瞬間がありました。
 その年の担任が母の友人(中学、高校、大学まで同じで未だに親交がある)だということで、先生視点でもやりづらい児童だっただろうなぁと、今なら苦笑しながら思うのですが、あの頃の私はそうした達観はできていませんでした。
 何があったかと言えば、クラス内で問題が起きて、それが人間関係の形成にも影響を及ぼしそうな事態だったために教師による介入が起きたのでした。問題というのは友人グループ同士での意見の衝突で、複数 vs 複数の喧嘩でした。バランスが崩れたらイジメにも発展しかねない状態でしたが、担任が上手く対処しました。ここまではよくある話ですし、問題は激化せず、クラスメイトも朗らかに過ごすようになったので適切な指導だったと思います。
 ただ、その指導の中で放たれた言葉が私にとっての毒でした。より正確に言えば、私が内にため込んでいた毒を顕在化させる引き金になりました。
「私はアンタ達全員を、自分の子どもだと思って先生をやってる!本当の子どもじゃないけど、将来のことまで心配して、毎日話してる。だから、お互いに通じる言葉で言うのは難しいけど、正直に知ってることは話すし、うざったいと思われるくらい真剣なの。だから、皆の前で話す必要はないから、何があったのか教えてちょうだい?この状態を解決したいの」
一言一句このままではありませんが、喧嘩の仲裁を物理的にした後、その人はこう言いました。それを受け止めてか、2~3週間ほどで事態は沈静化しました。そうした生徒指導の手腕も、保護者との衝突を恐れないながらも衝突を緩和させる心意気と技術も、教員として高いものだったと思います。
 ただ、私には刺さってしまった。正直な人が本心から絞り出した言葉だったからこそ、深々と。
 優秀な教師が児童を我が子のように扱っている。ならば、教師の子は必要ないのではないか。年間30~40人の児童・生徒と触れる生活を35年送ると考えれば、1人の教員が生涯で接する者は1000人を超えます。その全てを我が子として扱うのであれば、私はその中の1人に過ぎないし、共有する時間は一生分を合わせてやや上回る程度でしょう。さして特別な存在でもないのです。
(自分がいる意味ってあるんだろうか)
当時の私自身も、1年間で比較すれば親と共有する時間より、学校で教師やクラスメイトと共にする時間の方が圧倒的に長いことに気付きました。今では、人と共有する時間には密度があり、単純な量で比較することはできないと知っていますが、それでも、並列可能な存在が1000人もいれば、1人くらい忘れてしまっても不思議ではありませんし、その1人に自分が成る可能性は十二分に感じるのです。
 以降、無償の愛と呼べるものを、私は信じられなくなりました。自分が獲得した何かしら――努力により構築した信頼関係や、好奇心を満たし合うことで拡大した友情――からの情念ならば素直に受け取れるのですが、それ以外となると、自分に向けられる親愛に対し、その人に見返りが無くば信用できなくなったのです。自分にメリットが無いのに他者に優しくするはずが無い。そのメリットが見えないなら信用できない。そんな仕組みです。
 今でも、両親や祖父母など、親族からの親愛を受けると体調が崩れます。アレルギーと一緒で体質なんだと、もう諦観していますが、真人間になるためにいずれどうにかしたいものです。

告別

 10歳の頃。祖父が亡くなりました。亡くなる前、入院していた病院で小さな出会いがあったりしましたが、まあ、それは置いておいて。
 祖父は入院していた病院で容体が急変し、未明に急死しました。
 深夜3時頃、寝付いたらなかなか起きない私なのですが、その日は突然パチリと目が覚めました。隣の部屋で誰かが動いた気配を感じながら、再び目を閉じ、眠りに就こうとしたのですが、そこで電話が鳴りました。どうやら隣室で動いていたのは母のようで、彼女はすぐさま電話に応答。父を叩き起こし、病院へ向かいました。後から聞いた話、母は夢で祖父(彼女から見たら義父)と、もう1人個人が列車に乗ってどこかへ行くのを見送り、それからすぐに目が覚めたとのこと。
 何故か起きていた私は留守番を任され、見送りました。この日が初めて日の出を見た日だったと思います。その後は親戚一同がやって来ててんやわんやでした。
 葬式への参列も初めてで、変な高揚があったのを覚えています。誰の希望か自宅葬だったのですが、故人が地元で有名な部類だったこともあり、色んな方が見えました。通夜の際に雨が降り出し、庭先に張った業務テント(小中学校の運動会で本部が置かれる箇所に張るアレ)の下、寒さに震えながら延々と、家族とともに参列者へ頭を下げていました。着込んだ上半身は温かいのに、足から冷気が這い上がってくるあの感覚、底冷えを初めて体感したのもこの日でした。
 物語で読んだ葬式と違う点、同じ点、漠然と重ねながら過ごしました。
 故人の棺と同じ部屋での就寝も、恐怖感は無く、ただいつもと違う時間が流れていくことに目が冴えていました。

 葬儀の日、儀式然とした諸々に意義があるのかと不思議がっていた私でしたが、参列者の面持ちにそれを感じ始めていました。
 故人へのメッセージを読む段階になって、唐突に涙が溢れました。認知症が進んでいた祖父と、まともな会話をすることはその時点でもう2年ほどありませんでした。自我とか人格と言ったアイデンティティを個人の証明とするならば、その日のずっと前に祖父は故人になっていました。生命活動に焦点を当てたとしても、ここ4ヶ月は寝たきりで、横たわる様子はベッドの上も棺の中も大きな変わりはありませんでした。それまでの数ヶ月、命の弱まっていく寂しさを感じていましたが、涙に成るような鋭さはありませんでした。これが何だったのかと考えると、もう会うことは無いのだという、ポイントオブノーリターンを、何の覚悟も無く超えていた自分への怒りとやるせなさでした。
 火葬している間に参列者で会食をし、2時間弱で真っ白になった骨を壺へ納める。赤熱のような変色箇所はありませんでしたが、空気が歪んでいたのは覚えています。
 若干の熱を持つ骨壺を祖母が抱え、墓前で読経の後帰宅。真っ青な空と筋を引く雲が印象的でした。

 葬儀は、今を生きる人のための儀式なんだなと、言葉にできぬものの漠然と感じたのがこの日でした。かつての猫の墓にも手を合わせ、波立った心を落ち着けました。動的な生き死にを見せない樹木に、穏やかな憧れを抱いたのもこのときでした。
 そしてこの頃から、自分の死のみでなく、自分が死した後のことも考えるようになっていきました。

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