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表現とは?自分の血肉にするプロセス。

先日投稿した失敗の記事や
妊娠から流産にかけての言語化が
私の想像を超えて沢山の方の心に届いたようで

インスタグラムのストーリーズでご紹介いただいたり、

そこからのご縁でDMをいただいたり

「言葉にしてくれてありがとう」とお礼を伝えていただいたり

なんだか本当にありがたいなぁと思う。


日々過ごしていると自分の中で沢山つながる事があり、「これnoteに書きたい」と思う事が積み重なっているのだが、
いざPCに向かってみると、以前のように源から淡々と綴れなくて。


さっきノートに書いてみたら、
意識が外側に向いていただけだった。


「誰かの気づきになるような記事を書きたい」
「ちゃんとしっかりまとめなきゃ」


と意識が本質からずれちゃっていた。


そんなこともある


先日、コレド室町で開催されている「イマ―シブミュージアムーポスト印象派ー」を鑑賞した。

私は美術館に行くときや何かを鑑賞する時もノートを書くのが好きで、
その時感じた事や思った事をメモしている。


美しい山♡

 
鑑賞しながら気づいた事があって。

昨年、上野の西洋美術館へ【ゴッホ展】を観に行ったのだけど、
そこで何を感じたのか全然記憶に残ってなかったんだよね。
沢山心を震わせたのになーって、ちょっと残念だった。


美しい映像を見ながら、

「私はゴッホのオレンジや黄色の使い方が好き」
「去年のゴッホ展で、ゴッホの絵から感じる自然の力強さが好きだと感じたんだった」

とホロリホロリと思い出していった。


それと同時に、藤本さきこさんが頭に浮かんだ。

私は藤本さきこさんが好きで、
ノートの書き方や在り方もとても影響を受けている。

さきこさんのブログでは、記事内容に合わせて過去のブログも紹介されている事が多いのだけど、

一瞬

「さきこさんって何を書いたか全部覚えていてすごいな」

って浮かんだの。



だけど違うんだろうなって思った。


さきこさんは「何を書いたか」とかじゃなくて、

きっとブログを書く事を通じてご自身の血肉にしているんじゃないか。


感じた事を一旦自分の内側に持ちかえり、
源から再度表現していくプロセスを通じて、血肉となり、

それがさきこさんの世界を創っていっているんだろうなと。


だから結果的に覚えているんじゃないかな。


私が妊娠から流産の記録を綴りたいのも
血肉にしたいから。



冒頭の話に戻るんだけど、 

私はこのnoteを「誰かのために」ではなくて自分のために表現していこう。

と静かに決意。


【表現とは】

私の内側のことを外側に放っていくプロセス。
血肉にするプロセス。
1人で完結できること。

に設定変更!


その表現が「結果的に」、
源を通じて誰かの気づきになったり、
お役に立てたのならばとても嬉しい。

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