できれば世界を僕は塗り変えたい(1/24)

昨日とは打って変わってお腹いっぱいな21時45分をお知らせします。なにせおやつを食べたから。

昼はあったかくてうれしかった。
けど夜は風が強くてもう。冷たくてもう。明日は今度こそ最高気温が4℃って予報で、今からもう震えが止まんねえ。おれが社長だったら休みにするけどな明日は。って軽率なのかな。

今は『ハケンアニメ』っていう映画を観ている。
けどうーーーん微妙。俺がえらそうに言えることなど何もないってのは巨大前提(巨大な大前提のこと)として、でもセリフとか展開とか、すべて無難の域を出ない。見たことがある、って言うと雑だけど、まあそうやってやると一般に人は感動するよねっていう、セオリーをずっとなぞっている感じ。

あとはセリフのセリフっぽさ。前時代のアニメや舞台みたいな、すべての時空間がキャラクターが喋るためにあつらえられているような不自然さ。そいつが気になって集中できなかった。

何を隠そう、僕も自分が脚本を書いていた頃はそういう、変にフィクションの型にハマったセリフを書いていた。

でもそれはリアルじゃない。リアルじゃないってのは、現実的じゃないって意味じゃなくて。純粋じゃない。そいつが喋るために、本来口を挟むはずの人間を黙らせたり、澱むはずの思考を外から筋立てたり、そうやって時空間を歪めてしまっている。

純文学を多く読むようになって、そういう意味での台詞の不自然さに気づけるようになった。でもそんなの、以前の僕を含む大半の人たちは気づかないわけだし、そこにカリカリ敏感になるのってあるいはズレてるのかもしれない。

あと『ハケンアニメ』にハマれてない理由として、同じ「アニメ制作を題材にしたアニメ」として『SHIROBAKO』が優れすぎているというのもある。

展開けっこう似てるのに、SHIROBAKOの方が何倍も感動できるのはなぜなんだろう。
って考えると、やっぱり歪みがないからだと思うんだよな。感動させてやろうとか、笑わせてやろうという作為のために、登場人物が変に操られていない。あくまで彼らの自由な行動や言動が、いちばん魅力的に見えるように演出が自然に添えられている。SHIROBAKOはまじでいい。みんな観てくれ。

でも『ハケンアニメ』も柄本佑の芝居はまじでいいし、さすがに最後の劇中アニメは胸にドシンとくる。単純に、1クールアニメを作るっていうある程度長期にわたる活動を描くのに、2時間の映画では尺が足りないのかもしれない。

面白かったアニメでいうと、最近観た『ぼっち・ざ・ろっく!』も超よかった。それこそ今期のハケンアニメだよねって彼女は言ってたけど。

ぼざろ、なんであんなに面白いんだろう。
俺が軽音楽部にいたからってのはもちろんある。高校で軽音楽部に所属していた人間にとって、ぼざろはそうでない人間の100倍刺さるし100倍泣けるし100倍しんどいに違いない。
高校生バンドマンなんて(とどのつまりただの軽音部員である)、ほぼみんな「腕前の伴わない後藤ひとり」だからね。自意識がもう。弾けも歌えもしないのに。自意識だけはもう。なんだから。

あとはうーん、やっぱりバンドって楽しいってことを、バンドじゃなくてもそうだな、何かを通じて、人と人が繋がって、頑張って、それがちょっと他のだれかを感動させる、そのことの尊さと病みつきの面白さを、教えてくれるからなんじゃないかな。

演劇も一緒。同じものを面白がって、ぶつかりながらなんとか進んでいって、それがちょっと誰かを元気づけたり、泣かせたりする。生来さみしがり屋の僕にとって、そんなに夢中になれることは他にあるはずがなかった。

今はもう寂しくないから、バンドも演劇もやらずにいるけど。って最近それずっと言ってるけど。またやれたらいいなとはいつも思っている。

明日まじで心配だな。ほな。

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