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職業野球、語られない戦前の名勝負。満員御礼の甲子園

気温25度。南西から運ばれる暖かい風は、まるで観客の熱狂振りを予感していた様だ。
1940年6月4日、甲子園球場。猛牛こと千葉茂(松山商→巨人)はベンチからスタンドを眺め、緊張で足を震わせていた。普段2千人も観客が集まらない職業野球の試合。しかしこの日の球場は満員御礼。異常事態が起きていた。
当時社会的地位が低かった職業野球。何故この日、これ程までの観客が集まったのか。理由は2つある。
理由1つ目。この日は沢村栄治(京都商→巨人)の3年振りの復帰登板であった。
巨人軍のエースとして活躍し、1938年1月に帝国陸軍歩兵第33連隊に入営。日中戦争にも出征し、満身創痍で1940年4月に帰還。コンディション調整を優先していた為、春の登板は控えていた。しかし、読売新聞が大々的に「沢村、帰還す」と記事を出したものだから、さあ大変。復帰登板は6月4日と打ち出し、沢村の帰還を祝うべく多くの観客が集まった。

沢村栄治

そしてもう一つの理由。それは対抗する南海の先発投手が清水秀雄(米子中→明治大学→南海)であった事だ。清水は米子中から明治大学に進学し、エースとして活躍。リーグ四連覇の偉業を引っ提げて、鳴り物入りで南海に入団。「美丈夫(千葉茂談)」だったというのも相まって女性ファンも多く、人気絶頂であった。

新人時代の清水秀雄

沢村と清水。当時の野球界の頂点である二人の投げ合いが見られるとなって、多くの観客が甲子園に駆け付けたのだ。熱気に包まれる甲子園球場。誰もが投手戦になる事を予想したが、結果は意外なものとなった。
復帰登板での沢村。そのピッチングに観客はどよめいた。沢村のかつての豪速球が影を潜めていたからである。戦地での手榴弾の投げ過ぎによって肩を痛めた沢村は、球速こそないものの、コーナーをつく巧みな投球で南海打線を抑えていった。
一方の清水。立ち上がりに1点を失うも、持ち前の荒れ球を武器に打者を制圧し続ける。観客が多ければ多い程躍起になり、調子が上がる清水。これは、明治大学時代から何も変わらない。
4回が終わり、1対0の好ゲーム。技巧派の沢村、本格派の清水。対比する二人の投球が、観客を熱狂の渦へ巻き込んでいった。
5回。思わぬ所から、その好ゲームに水を差される事になる。 
清水の投球。味方の幾つものエラーが重なり、一気に3点を失った。この前年に鶴岡一人(広島商→法政大→南海)が出征のためチームを離脱し、野手陣のレベルは急降下していた。清水が9回自責点0ながら6失点で敗戦投手になった試合もある。こうして清水は思わぬ形で沢村と明暗が分かれる事となった。
清水は5回4失点(自責点は1)。
南海は6回からアンダースローの劉瀬章(本牧中→法政大。現在でも唯一、一軍出場経験のある中国大陸出身選手)がリリーフ。打撃も良かった清水は一塁のポジションに回った。
南海は何度もチャンスを作ったが、ことごとく凡退。9回に代打深尾文彦(京阪商→南海)のタイムリーで1点を返すのがやっとで、最後まで沢村の巧みな投球を打ち崩す事が出来ず、結果5対1で巨人の快勝。沢村は9回1失点、3奪三振4四死球で見事復帰登板を完投勝利で飾った。
巨人のエラーは遊撃手、白石敏男(広陵中→日本大→巨人)の僅か1つ、一方南海は5つのエラー。野手のレベルがそのままスコアに現れる形となった。
千葉茂は後に回想する。
「とにかくむちゃくちゃに緊張したのを覚えている。それだけ『大試合』だったのである」
千葉茂は終始、足が震えていたという。それだけこの試合は特別なものだった。 
語られない名勝負。試合が終わった後、沢村の復帰を祝って巨人は宴を上げた。一方清水は、一人で夜の街に繰り出して行ったという。どこまでも対称的な二人であった。

藤井勇

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