ex.Gold Fish 02
父親から話を持ちかけられて数日後、俺の学校は夏休みに入った。もちろん休み中の課題は山のように出されたし、各学年強制的な補習もあるから、休めるという自覚はあまりない。それよりもじきに盆が来れば親族郎党顔を合わせないといけないという憂鬱さが勝っていた。
日差しが強かった。肩かけにした鞄の紐が食い込んで汗が滲んでいた。太陽光を直視しないように視線を下げて、いつものように校門まで惰性で歩いていたから、声を掛けられるまで異変に気づかなかった。
「セージさま!」
突然はじけるような声、に襲われた。言葉がそのまま塊だった。意志をもってつらぬいてきた。
反射的にそちらを見た。校門の傍にひっそりと、しかし巨大な存在感でもって駐車された、黒塗りの大型車。そこから駆けだしてきたのは。……確認するまでもなかった。
「お待ちしておりましたわ!」
小柄な身体と、やわらかくウェーブを描く髪。赤と緑の上品なチェックの制服は、多分この近辺であれば知らないものがないだろう。
俺は目に見えてドン引きしていたと思う。なにがお待ちしておりましたわ、だ。
「……なにしてんの」
まずなにから突っ込んだらいいのかわからなかったので、眩暈を堪えてそれだけ問うた。
「お迎えにあがりました」
にっこり笑って笙野七奈美は言った。全速力で逃げたい、と俺は思った。
「俺を?」
まさかここに来て人違いとかある方がおかしいんだけど、俺も大概動転していたんだと思う。笙野七奈美は輝かんばかりの笑顔で頷く。
「先日は失礼をいたしましたから、そのお詫びをしなくちゃと思って」
「いや、あの……」
「どうぞ、乗って下さい! ドライブに参りましょう?」
強引に腕を組まれる。これまで冷房の効いた車内にいたせいだろう、七奈美の身体はひやりと冷たい。
その冷たさが、俺を一瞬冷静にさせて、素早く組まれた腕をふりほどいた。
「あんたが何を考えてるのか俺にはよくわからないんだけど」
大きな瞳に負けないように、睨みつけて言った。
「こういうの、迷惑」
俺の言葉に、笙野七奈美は衝撃を受けたそぶりさえ見せず、まるで聖母のように柔らかく笑んで、言った。
「知っておりますわ」
その言葉に絶句するのは俺の方で、もう一度やわらかな仕草で腕をとられ、その腕を引かれた。魔法にかかったように、俺は車の後部座席に押し込まれた。
「松宮、出して」
隣に自分が座ると、笙野七奈美は運転席にそう指示した。乗って初めて気づいたけれど、運転席に座っていたのは前に会った老紳士だった。ミラー越しに俺と目が合うと、会釈だけで意志の疎通を図ってきた。伝わるそれは明らかに謝罪だったけれど、俺は困惑しか返せない。
車が静かに発進する。窓から覗く風景が流れ出すのと同じように、笙野七奈美の口からは言葉が紡がれた。
「今日はご迷惑をかけに来たの。失礼は百も承知だわ。でも、わたしいてもたってもいられなくて。だってあなた、わたしの恋人になったのよ、わたしの婚約者になったの。わたし今の貴方のことを何も知らない。あなたはといえば、わたし以上にわたしのことは知らないでしょう? 恋人になって結婚するんだもの。わたしのこと、知って頂かなくちゃ」
饒舌に語る言葉はけれど、決して弾んだ調子ではなかった。俺の方ではなく真っ直ぐにフロントガラスの向こうを眺めていて、それこそ思考の垂れ流しのようだった。
「ちょっと、確認させて」
俺は相変わらず事態に追いつけず、固い座り心地の椅子に軽く頭をあずけてため息をついた。
「あんた、本気?」
「冗談に、見えまして?」
即座に切り替えされたのはそんな問い返しだった。薄笑いが不愉快だった。落ち着け、と自分に言い聞かせる。
「一目惚れ? 俺に?」
「そう思って頂いてかまわないわ」
「真面目に答えろよ」
まるで玩ばれているような返答に、苛立ちも顕わに低い声で威嚇のような言葉を吐くが、お嬢様は怯まない。
「わたしは真面目で、本気。でも、信じて頂かなくてかまわないわ」
白い肌をした愛くるしい顔立ちの、ともすれば人形のような少女だった。そんな風に思ったのは、横顔がひどく冷え冷えとして見えたからかもしれない。何故だろう。鬼気迫る感じが、した。
正気だろうかと、今度は口に出さずに思った。
これが恋をしている女の子、の顔か?
俺にはそうは思えなかった。もちろん、俺にそういう審美眼があるとは思えないけれど。
「……確かに、その話は、承諾した。けど」
自然顔色を伺うようになりながら、けれど相手に迎合するわけにはいかなかった。
「だからってこういうことされても困るよ。非常識だ」
相手は黙したまま答えなかった。
窓の外を見ればまだ、見慣れた景色だった。さほど遠くまで連れ出されてはいないようだ。どこに行くつもりかと俺は問うた。
「ああ……考えていなかったわ」
返答は感嘆のようだった。これまでの覇気が薄らいでいた。
「ただ……会いたくて……」
消え入るようなその声に驚いた。また泣くかと、一瞬身構えた。けれど笙野七奈美は後部座席のシートに身体を預けて、静かに目を閉じただけだった。まるで眠るような仕草だった。
「ご自宅にお送りいたします」
変わって答えたのはこれまで沈黙を守っていた運転席。確か、松宮さんと呼ばれていた。
どうも、と答えて俺は脱力した。隣の七奈美との距離は三十センチほど。その距離が近いのか遠いのかわからないが、俺にはただひたすら息苦しく感じられた。
互いを知り合わなければいけないと七奈美は言ったけれど、それからこちら、二人の間に会話はなかった。
二十分ほど市内を回り、元より調べてあったのだろう。俺の家の門の前に車は横付けされた。
「どうぞ」
運転席から松宮さんは降りて、丁重に後部座席にドアをあけた。どうも、と答えて降りながら、隣を見れば七奈美は静かに笑って言った。
「セージさま、今日はありがとうございます。とっても楽しかった」
真意の読めない微笑みだと思った。
「また来ますわ」
その言葉にどう返していいのかわからず、俺は多分渋い顔で、「……さまづけ、やめて」とだけ答えた。ぱっと、七奈美の顔はほころんだ。
「では、わたしのこともどうかナナミとお呼び下さいな」
深くなった笑みは、本当に無邪気に喜んでいるかのように、見えた。
「もっと教えて欲しいです。あなたのこと」
何がそんなに楽しいのか俺にはわからなくて、俺はやっぱり、吐き捨てるように答えていた。
「……俺が今日あんたのことでわかったのは、あんたの頭がおかしいって、それだけだよ」
ずいぶんな言いざまだったけれど、やはりナナミは、俺のどんな言葉にも、笑みをたたえて静かに言うのだった。
「充分だわ」
後部座席の扉は閉められ、松宮さんが俺に言葉もなく深々と礼をする。彼の真意もわからなかった。
そうして一学期最後の日、俺に残ったのは莫大な疲労感だけだった。
それから夏休みを迎えた俺を、七奈美は三日と開けず訪ねた。訪ねようとした、という方が正しいかもしれない。一度目、海に参りませんかと言う七奈美に、そういう気分じゃないからと断って、二度目、今度は山に。そんな暇はないから。三度目、つまり十日目(カウントを続けたわけじゃない。学校の補習の最終日だったから、自然思いついただけ)で俺は根をあげた。
「今度はなにをしに来たの」
「会いに来ました」
ナナミは、純白のワンピースだった。まぶしいほどに綺麗だった。吐き気がした。
「勘弁してくれ」
俺はナナミの名前を、呼ぶ気にはなれなかった。
「あんたは俺に嫌われたいのか」
吐き捨てるような俺の問いかけに、ふわりと笑った。その笑いはなんだと、俺は聞きたかった。そうじゃないなら否定をしてみろ。嫌がらせなら、肯定をしてみろ!
男なら殴っているのに、なまじ綺麗な女の顔をしているからたちが悪かった。
「なんにせよ今日なら駄目だ。法要と親族会議がある」
本当は、息苦しい拷問でしかないあの時間を過ごすくらいなら、頭のおかしい令嬢の相手の方がマシではあるが、そうも言っていられないと思っていた矢先だった。
「そんなもの、行かなくてもよろしいわ」
小さな鞄を後ろ手に持って、ぴょんと飛びはねるようにして、
「わたしが、セージくんのお父様にわがままを言いました。今日どうしてもデートをしたいから、ご親族の集まりは出られませんって。セージくんのお父様は、仕方なく、わたしのわがままを聞いて下さいましたわ」
俺は唖然とする。あの父親に? わがままを通り越して、呆れるような行動だ。これはありがた迷惑っていうんだろうか、それとも、渡りに船? なんにせよ薄気味悪いのはかわらない。
「……そうまでして、今日したかったデートってのはなんなの」
警戒しながらそう尋ねたら、七奈美はその、こぼれ落ちそうに大きな目をきょろりとさせて、笑うと言った。
「じゃあ、クルージングにでも行きましょう!」
じゃあってなんだよ。じゃあって。
呆れながらも、今日ばかりは、このお嬢様に付き合うかと、ため息をついた。
夏の終わりのことだった。避暑地を回らされて、疲れ果てた夜の車の中。喧噪と灯りを見つけてぽつりと七奈美が言う。
「夏祭り」
確かに外からまつりの囃子が聞こえている。
行きたいの、と疲れた顔で俺は尋ねる。車の中では、七奈美は静かだった。
行きたいのと言ったのは社交辞令のようなものだった。七奈美が夏祭りだなんて下々のものに、興味を覚えるとは思わなかった。
けれど七奈美は指先を後部座席のウィンドウに触れさせて、囁き声で言った。
「金魚はいるかしら」
「金魚?」
「そう」
ゴールドフィッシュ、と七奈美が少し震える声で言う。「いるんじゃないの」とどうでも良さそうに言ったら。「止めて!」と七奈美が松宮さんに指示する。
「行きましょう? セージくん」
当然のように、指を伸ばす。エスコートされることに慣れすぎたその様子に、うんざりしながら俺は、彼女の手を取り夏祭りに出る。
暗い夜、赤い光。
翻るクリーム色のワンピース。
祭りの喧噪は、七奈美の奇怪な人間性も隠すようだった。
なにもかもが珍しくて楽しいと七奈美が笑った。それは、クルージングでも避暑地でも貸し切りの映画でも見せなかった笑顔だった。
「……はじめて?」
ほんの少し喉の渇きを覚えながら、持てあました感情をごまかすように問いかければ、七奈美が首を傾げて、
「どうだったかしら」
とまた、曖昧な返事。
「わたしはお祭りは、初めてだったのかしら……」
その言葉がどういう意味なのかと問いかける間もなく、七奈美が金魚すくいを見つけて、駆け出す。
「セージくん、とって」
七奈美は強情で頭がおかしくて、わがままなお嬢様だったが。時間とつきあい以外に俺に物を求めたのは初めてのことだった。
願うように、祈るように、切実な調子で、
「お願いよ、とって。大切にするから、わたしに金魚をちょうだい」
結局、まあ、情けないことに俺は屋台で金魚をすくうことは出来なかったのだけれど。店のおやじは調子よく「それ、そこのカップルに!」と透明なビニール袋にいれた金魚をくれた。
七奈美の白い指先がその袋を手にとって。
「ありがとう」
祭りの灯りの下で、金魚の袋に額を寄せるようにして言うのだった。
「どうもありがとう。ゴールドフィッシュ」
赤い光が、色素の薄い髪に反射して。
まるで七奈美の髪が赤いようで、不可思議な気持ちになり、胸が騒いだ。
夏休みを終えると、七奈美からのお出かけ攻撃は少しは落ち着いたかにみえた。それでも二週間に一度は休日が潰されるのでたまったものではないが、
「勉強がしたいんだけど」
そう言ったら、「素敵ですね」と七奈美は笑った。七奈美は放っておけば我が儘を言うが、こちらから提案をすれば従順でもあった。
図書館の自習室で俺が課題をこなしていると、向かいに座った七奈美が一冊の写真集を持ってきた。別に興味があったわけではないけれど、写真集を見て動きを止めた。
それは、暗い色の表紙の、人形の写真集だった。最近出たばかりの写真集で、全国の美術館で大々的に個展も開かれている。無名ではないが、芸能人のように女子高生の誰もが知っているようなものでも、ない。
なんで、と思った。呟いたつもりもなかったけれど、口に出していたのだろうか。七奈美が目を伏せながら言う。
「セージさんが先日ポスターをご覧になっていたでしょう」
俺は舌打ちを飲み込む。この女は俺の事を見過ぎている、と思う。
好きなものも嫌いなものも、いつしか俺より詳しくなってしまうんじゃないかと怖いことを思った。
それが嫌なのかどうかも自分ではわからなくて、誤魔化すように俺は参考書に目を落とした。
次に顔をあげた時、七奈美は頬杖をついてこちらを見ていた。
「なに」
「なんでもありません」
幸せそうだなと思う。本当におめでたい女だなとも。
お前も勉強でもすればいいのにと思ったけれど、言わなかった。七奈美の通っている倫女は偏差値も大概高かったはずだが、大学進学はほぼエスカレーター式だろう。
こいつらに、努力などは無意味なのかもしれない。
俺のように、なりたいものも。越えたい人も、いないのだろう。
そんな風に考えると、理不尽な怒りがわき出すのがわかった。俺の気持ちを知ってか知らずか、七奈美は白いデスクに頬杖をつき、囁くようにおさえた声で言う。
「セージくんは、将来をどうなさるの?」
その問いかけは少なからず俺を驚かせた。嫌みではなく、呆れて思わず聞き返す。
「将来なんて、決められる立場だと思うか?」
ことん、と七奈美が首を傾げる。なにも知らない、なにもわからないという無垢な顔。嫌になる。
「あんたは、どうするつもり」
将来になにか夢見てるのと聞いたなら。花のように美しく笑って。
「ナナミは、セージくんのいる所にいます」
聞くんじゃなかったと、心底思った。
病のような、季節が過ぎる。
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