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昔あった変な出来事

じゃんけんで負けたら次の電信柱まで全員分のランドセルを持つゲームにもすでに退屈を感じ始めていた小学二年の僕は、ある日、僕たち三人のうちの誰かがただ何となく手にした細長い木の枝で落ちていた犬の糞を貫き、別の誰かが都合よく持っていたお肉屋さんの発泡スチロールのトレーにそっと置くのを見た。
それから、じゃんけんの敗者はランドセルの代わりに糞を載せたトレーを持つことになり、勝者はやはり木の枝で糞を貫通させることになった。
数週間が経って、犬糞回収ゲームの目新しさにも慣れてしまった僕たちは、全体に地域清掃のボランティア集団の雰囲気すらまとわせていた。
複数のランドセルの過剰な重みによってもたらされた分かりやすい敗者の屈辱と身軽になった勝者の優越という構図を解体され、敗者になっても勝者もなっても、ともに排泄物を回収する活動に従事していることは変わらないために、両者は単なる清掃の共同作業者、余った一人も監督者に見え始めたから、そのうち地域の人々から表彰されるのかもしれなかった。

その日、敗者になった僕は、さまざまに種類の異なる排泄物が置かれたトレーに両手を占領されたまま、帰路の中間地点を注意深く歩いていた。
すると、前方から真っ黒の大きなワゴン車が来るのが見えた。
次第にスピードを落としたのを見て、僕ははじめ他の二人のうちの誰かのお母さんが買物のついでに迎えに来たのだろうと思ったが、その車の通路ギリギリを占める大きさと、親の影響による芽生えたての偏見で「ヤクザの車の色」として認識していた光沢のある黒のカラーリングが醸し出す暴力性を動物的に感じ取り、その迫力に突然身を固くした。
(世の中のお母さんが乗っているのは、たいてい子豚のような淡いピンク色の軽ワゴンであることもまた、強い偏見として刻まれていた。)
凶暴さを人前で発揮する前の闘牛を思わせもするその車は、僕たちのすぐ横に静かに停車した。
命令される前から分かっていたかのように、それに合わせて僕たちも立ち止まることになった。
助手席の窓がゆっくりと開いて現れた男の髪は金色で、頭部からはみ出さんばかりの毛量を、ワックスか何かを使ってガチガチに逆立てていた。
マヨネーズのようにとぐろを巻いていたようにも記憶しているが、滑稽な印象はなく、見たことのないその奇抜さが恐ろしかったのを覚えている。
(しかし、のちにクラスメイトに笑い話として語るとき、この男の髪型を「マヨネーズ」と表現することで滑稽さを強調することを忘れなかった。)
男は僕たちにピストルを向けた。同時に「手を上げろ」と聞こえた気がした。実際、そのアクションに付随する発言としてそれが最もしっくりくるものだったから。
僕をのぞく二人は躊躇いなく従ったし、できることなら僕もそうしたかったが、その状態で手を上げるとバランスを崩すという懸念があり、トレーから糞が転がって落下することを思うと、当時から強くあった「失敗」に対する強いコンプレックスを刺激されるようで辛かったが、命を落とす危険と天秤にかけるまでもなく、すぐさまおそるおそる両手を上げると、犬の糞が高々と掲げられる格好になり、意外にも元気玉を生成している最中の悟空の様相を呈することになった。
傍から見てそれは、今にも投げつける勢いであり、攻撃的に見えたかもしれないが、そのときの僕は頭上のトレーの水平を保つための地味な奮闘のほうに必死で、ピストルの恐怖は感じていなかった。
(あとから考えると、トレーを一旦地面に置いてから安全な状態で両手をあげることもできたかもしれないのに、そのときは全く思いつかなかった。)
状況のあまりの現実感のなさに、これもまた遊びの一環であるように思えたことも事実。
男は満足したようにニヤリと笑い、車は去っていった。一瞬の出来事だった。やはり遊びに付き合わされたのだ。

残りの帰り道の時間、僕たちが何を話したのか覚えていないが、遊びではあっても重大な危機を乗り越えたのだという達成感は三人とも共有していて、
翌日になっても冷めやらぬ興奮を他のクラスメイトにも分け与えるべく笑い話として披露し、中学高校に至ってもそれは僕の鉄板ネタだった。
「うんことピストル」というタイトルで作文も書いた。ミッシェル・ガン・エレファントが好きな担任教師は「デヴィッド・リンチの映画みたいだ」と小学二年の僕たちにはピンと来ないことを言った。
(リンチの映画を見るようになった今でもピンと来ていないので、あの発言はいまだに謎としてある。)
ただ、この話には省略された細部がある。
事件から数日後の帰り道、僕たちのうちの一人の発言でそれを思い出すことになった。
「……後ろにおった女の人、覚えとる?」
口にガムテープをされた女性とそれを取り囲む複数の男たちが車内にいたことは、言われて見ればたしかに僕もそれを見ていた。
異様な光景と感じていた。しかし遊びの一環である以上、それはあくまでも「細部に凝った演出」なのだと思っていた。
今でもそう思っている。

(終)

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