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【エッセイ】体感時間で遊ぶ

最近新居を建てた友人の家にお邪魔してきた。

リビングがとても広く,セグウェイっぽい電動キックボードも置いてあったので乗せてもらった。

リビングをずっとそれで移動していたので,本当に邪魔だったはずだ。

年甲斐もなく時間を忘れて楽しみ,だいぶ乗りこなせるようになった。

気付くとだいぶ時間が経っていた。

体感時間

友人の邪魔をしたことは脇に置いといて,この「気づくと時間が経っている」のは何なのか。

「時間とは何か」ということではない。

1秒1分1時間1日1週間1か月1年というのは,私の思いとは関係なく進むものだから,考えても仕方ない。酔いどれのおじさんに「飲みすぎるな」と言うのと同じである。

だからこちらをメインに考えることはせず,ここでは「私が体感する時間」について考えたい。

そうするとこれは一般論ではなく,基本的に個人的な話になる。一般化することもできるかもしれないが,個々人で遊ぶのがちょうど良いと思う。

「体感時間」はもちろん時間の話だが,私が「体で感じている」ものなので,空間の話とセットになる。

だから「時空間」の話になる。

また,私の体が起点になるので,「いや,私はこう感じている」と他の人に言われても,それは私とは関係がない。

関係性を持たせるならば,「『あなたがこう感じている』ということを今私がこう感じた」のような話になると思う。最終的に自分に返ってくるしかないような話なので,完全に個人的な話である。

どんどん速くなる/どんどん遅くなる

人生単位で考えると,時間は年々速く過ぎていくようになっている気がする。

周囲の人も同じようなことを言っているので,この感覚はある程度共通するようだ。

もちろん1分1秒といった時間の経過は一定なので,その側面からは流れる速さは変わっていない。体感時間の話である。

そういうことなら,逆に過去にさかのぼっていけば,時間は年々遅く感じられるようになるはずだ。これは検証のしようが今のところないのでわからないが,もしかしたら

「時間は段々と速く感じられるようになっている」

といえるかもしれないし,逆に,

「過去の時間は徐々に遅く感じられるようになっている」

といえるかもしれない。

どんどん小さくなる/どんどん大きくなる

この体感時間に空間を追加してみる。

空間側から見れば,さっきの話は,状況がめまぐるしく変化してついていけなくなっており,じたばたしている間に1年先に移動していたという感じだ。
時間側に目を向けると,いつの間にか1年が経過していたとなる。「もう1年終わるのか。早いなあ…」とつぶやくタイミングである。やり残した課題と催促のメールだけが残っている時期だ。

時間側で「年々速くなる」ということは,空間側では何が起こっているのか。

「速い」ものは一般に「小さい」イメージがあり,「遅い」ものは一般に「大きい」イメージがある。身体の小さな人はすばしっこく,大きな人はゆっくり動くイメージだ。だから,大きい人が俊敏な動きをすると人は驚く。

あるいは森の中にいるときは一本の木だが(これでも十分大きいが),引いて見ると,森となりスケールも大きく感じられる。

そう考えると,「今」の自分に近い時間にあるものほど,空間的にはふつう「小さく」感じられることになる。逆に「過去」のものほど「大きく」感じられることになる。(「過去」は「未来」としても良いだろう。距離的(空間的)に離れているという意味で。)

例えば,仕事は放っておくと,どんどんそれがめんどくさく感じられてくる。時間の経過とともに,自分にとっては大きく感じられるようになっているのではないか。その証拠に,手をつけると「何でもっと早くやらなかったんだろう」と思うことも多い。
「鉄は熱いうちに打て」と言った人はきっとめんどくさがりだったに違いない。

また,「過去の栄光にすがる」というのもある。過去にあげた優れた業績に執着している状態だが,本人にとっては,時間が経つにつれてそれが段々と大きく感じられているのではないか。

優勝直後にあれだけ謙遜していた人が,10年もたてば「俺は昔チャンピオンだったんだぞ!」と酒屋で叫んでいるのも同じ理由からか。

どんどん秩序だってくる/どんどん崩壊していく

また,空間的に自分から遠いものは大きく感じられるとすると,それだけ概念の把握が困難になり,曖昧である(秩序が崩壊している)ように感じられる。

記憶はこれに該当する。時間が経って過去の記憶が大きく曖昧になってくるので,事実誤認が生じてくる。

日本の大会で優勝した人が,10年後には世界チャンピオンになっていたということもあるかもしれない。記憶の上では。

あるいはすし屋の醤油を舐めた少年も,20年後には「俺は昔すし屋の醤油を寿司につけて舐めたんだ。寿司の方を」と社会的に問題のないことを自慢げに語っているかもしれない。そうならないように今のうちに反省してほしい。

未来予測が難しいのも同じ原理のような気がする。(未来の方がずっと困難で,違うもののように感じられるが,未来の捉え方を間違えているような気もする。ここでは考えないが)

また,過去に怒った経験があり,思い返すと「あの時なんであんなに怒っていたんだろう…」と思うのは,怒りの感情を物質的に捉えた場合に,秩序崩壊し,雲散霧消しているのかもしれない。
一方で,大きく広がって残って(一般に「忘れた」状態)はいるため,結晶化させれば(=具体的に思い出して来れば),「なんかまた腹立ってきた!」と前より怒ることもできるかもしれない。

空間的にも,自分に近いものほど秩序だって整理されているように感じられ,遠いとしっちゃかめっちゃかなことが多い。身近な家族や友人の事件には関わろうと思えるが,遠い国で起こっていることは関われる気がしないことも多い。どこにいるかによって情報の質や量が全然変わってくる。

この辺りのことは,組織の中でも起こっている。仮に私が組織の中で,あるポジションを与えられたとする。その瞬間に,別のポジションの人との位置関係が決まる。位置関係は距離を規定する。

すると例えば自分が新入社員として入社したとして,社長との距離は遠い。当然私にとっては社長は何をしているのかよくわからない。一方で,同僚や先輩はより身近であり,何をしているか把握しやすい。秩序だって見えている(秩序だって見えてしまうからこそ近くの人に腹立つということもある。まったく知らない人(=距離の遠い人)に腹は立たない)。

時間の側面から見れば,自分の周りで起きていることは速く感じられる。これをやり,あれをやり…と目の前の業務で忙しくなる。一方で,何をしているのかよくわからない社長周りのことは,(社長室にこもっていれば)仕事をしているのかもわからない。実は抜け出してゴルフに行っているかもしれない。動きは遅く感じられ,曖昧な状態だ。

もちろんこれは自分を起点にした話であり,社長の立場になってみれば,上とちょうど逆の感じ方になるだろう。このギャップを埋めようと思えば,社内コミュニケーションの大事さがよくわかってくる。

組織内のポジションが決まるだけでこうなるのだとすれば,ここに様々なバックグラウンドが変数として追加されたら,とても複雑になってくる。人が増えるほど,組織の全員が同じ方向を向けるような目標やスローガンなどが必要になってくるのもわかる。

体感時間で遊ぼう

時間と空間をセットにして,両面から見てみるとおもしろい。空間側から見ると,時間は固体っぽくも感じられてくる。自分に近いほど小さく,遠くなるほど大きくなるのならば,自分を頂点とした円錐のイメージだろうか。それを上下にそれぞれセットすると,トーラスっぽくなってくる。

何度も言うが,これは私の感覚の話なので,科学的な検証は特にいらない(もうあるのかもしれない)。わざわざ科学的手法を使って検証されなくても,自分のことなので自分である程度わかる(他人からするとほとんど生き方を間違えているようだが)。


このままいくと,「過去はどんどん遅く感じられる」の裏返しで,どんどん速く感じられるようになるはずなので,冒頭の電動キックボードで速さを体感する方法を思いついた。

①まず,練習も何もせずにただ老いを待つ。
②身体が良い具合に衰えたら,友人の家にお邪魔し,電動キックボードに乗せてもらう。
③今よりずっと速さを体感できるようになる。

これで何の努力もなく颯爽と駆け抜けることができるだろう。速く感じられるように,ちゃんと老いてくれる身体を利用した遊びだ。その頃には,昔は完全に乗りこなしていた記憶になっているはずだ。それも相まって一瞬の出来事に感じられるだろう。

もしかしたらそれで頭を打ち,光の速さで来世に移動できるようになるかもしれない。

(写真はいつかの箱根。いやスイスだったかもしれない。記憶がやや大きくなっている。)


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