普通は普通、普通ではない。

昔から「普通」という言葉に違和感がありまして。

これを使うとき、多くの方は「誰にとっても通じる共通認識」という意味合いでそうしているとは思うのですが、

「普通こう(そう、ああ)するでしょう、常識ですよ」

みたいな言われ方をされると内容の是非や今の自分の立場を忘れて、「普通」(ついでに「常識」も含めて)そのものに反応し「いや、それはどうだろう」と反発してしまう自分がいます。

今でも油断すると「普通」がムクムクと首をもたげて己が存在を主張しそうになり、それを懸命におさえながら日々を生きているような感覚すらあって。

昔から普通普通と繰り返してくるつまらない人間にだけはなりたくないと、普通を避けて生きてきたようなところが自分にはありました。

でもそうやって敬遠してきて「普通ではない人間」になれたのかというとそうでもなく、単にその生き方自体が「わたしにとっての普通」となっただけで……。

ややもすると、それを他人に押しつけがちな自分がいて。「普通」を使わなくても暗に普通を押しつけてしまっていたことがあったなあと反省することも何度もあり。

会話の中で「普通」が登場するとき、おそらく誰もが人それぞれであろうことを自分基準にしたくて「普通」を矢面に立たせ、他人に(無意識でしろそうでないにしろ)自分が言いたいことを解ってもらいたいだけなのかなあと思っているのです。

「普通」は誰もが思っているような—―あるいは辞書にある「普(あまね)く通る」といったような――意味を本当に持つのかもしれませんが、わたしにとっては体よく自己主張に使われるだけの道具。

この世は普通の押しつけあいだという認識ですが、だからこそすり合わせが必要なのだとも感じながら生きております。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?