見出し画像

メリーバッドエンドは好き

 どんなエンディングが好きかと問われたら、普通ハッピーエンドが好きに決まってるでしょ、と言いそうなものだけど、そんなこと言ったら彼はきっとこう言うでしょ。

「人生にハッピーエンドなんて無いだろう。」

 って。人はいずれ死ぬ、その時家族に囲まれていようが、それまで幸せだったかに関わらす、結局は化学的絶命の時一人で死ぬと言いたいのだろう。でも私はこう言うの。

「メリーバッドエンドは好き。私は、幸せが何か分からないし、だからといって不幸だと思ったこともないし。このまま死ねたら良いのにな。そしたらそれはメリーバッドエンドでしょ?なんだか素敵じゃない?」

  って…。


第一章 公然の、ナイショ話し

 数ヵ月ほど前、夜明けは涼しくなってきたのだけど、夜はまだ少し蒸し暑い秋のはじめ。

 薄暗いオフィス、このフロアは今は私しかいない。すなわち絶賛残業中であり、もうじき上がらないと終電に間に合わないのだけど仕上げて提出してから帰ろうと思ってる。今担当している連作CM、けっこう人気の、あの犬が父の家族のやつ、その未確定の後期の内容の概要案、大体のプロットとキャスティング、ロケーション、それらの費用見積もり、それらから総合して意味する意図やコンセプト、なども含めて書き尽くした私ならではの渾身の企画提案書を。前期とガラリと雰囲気を変えて、毎回ほろりと泣かせる内容になってる。そんな企画書を仕上げたら、私は下っ端なので上司へ提出して上司が仕上げる手筈になっている。そして上司の手柄になるがそんなのは一向に構わない。過程が大事なのだ。

 カチャカチャとPCのキーボードを叩くメカニカルな音がする。その音が誰もいない虚なオフィスの壁に残響する音も微かに聞こえる。眼前の、広い二枚の眩いばかりの高光度・高精細な液晶モニタ上では颯爽とマウスのポインタが飛び交い四分の四拍子でリズミカルにダンスする。参考画像などを別のブラウザで検索し集めたものを企画書に次々と貼るのだ。色とりどりの世界の花や建物の写真で埋め尽くされた企画書が展開される。自画自賛だがその美しい出来映えに惚れ惚れしうっとり眺める。おっとここで手を緩めていては間に合わない。私は再びカチャカチャとPCのキーボードを叩く。コツがある。考えていることをともかくPCのメモ帳に書き続け、埋め尽くすまでともかく思考をアウトプットしていく。ある程度まとまった量が集まってから、その文字を俯瞰して眺め、果たして私は何が言いたいのか?を感覚で見出し、それによって再構築するのだ。それを企画書にうまい言葉でワーディングしながら落とし込んでいく。そして、半ページ分くらい出来たら、そのページを最初からよく読んでみる。それから、癖なのだが気になって結局企画書をトップのタイトルページからまた全部読み直してみる。コンテキスト、ストーリーの筋道が重要だから。それの繰り返し。 25ページほどの企画書にしたいと思っているが、1ページ5回それを繰り返すとすると

$$
5 \sum _ { \mathclap{ k=1 } } ^{25} k = \frac{5\times 25(25+1)} {2}=1625
$$

 多分完成までに1625ページ分くらいは私なら読んでいることになるだろう。考えてみるとすごい読書量だ。まあ、読書力は私の得技だし。

 このフロアは本来なら15名ほどの席があるが、リモート勤務社会になってしばらくのこんにち、今日の出勤は私だけだ。いや、確か先輩二名が出社しているはずだが見当たらない。一人は高校時代からの同級生で友人、この会社を誘ってくれたひかる、いやひかる先輩が出ているはずだ。席は私の後ろなのだが、見当たらない。上のフロアだろうか。二人とも、男女二人きりで?まあどんな状況か分からないけど、そんなのは一向に構わない。しかしさっきから、この瞬間の男性代表という立場であらせられる御影先輩からは普段もよく貰うのだが仕事とは関係ないダイレクトメッセージ(他の人には見えない)、メッセが散発的に届いていた。今日も、いろいろ斜め上のメッセージが届いていたのだが、しだいに、なにやら非常に珍しいのであるが、私の仕事を労うようなメッセージが五分ごとくらいに連続して届いた。私の仕事を褒めて、社でも噂になっていると。来てくれて有難うと。何か希望はあるかとーありません!、無理をするなとー大丈夫です!と。先輩からは、確かに今まで迂回した表現によって誉めてるんだろうな、というようなお言葉は今までも頂いたことはあったが、こうストレートに褒められたのは珍しい、ていうか初めてだ。小っ恥ずかしくて背中がむず痒いじゃ無いですか…。しかし悪い気はしない。私はこの一人のオフィスを占有していることを左右を見回して(一人のオフィスの暗がりをみるのは少し怖いのだが)誰もいないことを確認すると、安物のオフィスチェアに沈むように座っていたのを、改めてしゃんと座り直して背筋を伸ばし、一連のメッセージをもう一度じっくり目で追って読んで、そしてにやけた。そしてつい口から出た言葉はこれだった。

「フラグかよ。私、最終回じゃね?」

 それからしばらくは先輩のせいしんこうげきによる邪魔は入らなかったので、私は再びカチャカチャとPCのキーボードを叩いて集中していた。多分十五分ほどしてからだろう、次に届いた先輩のメッセージはこうだった。

「前もって女性は子供が何人欲しいかとか、話したいんだろうか?」

 ⁉️、彼にしては珍しいジャンルの話題だ。唐突に、一体どうした?しかし答えねばなるまい。だが、私自身縁のないジャンルであり考えたことも無いからさながら禅問答である。主語は女性か子供かはたまた第三者かはたまたご本人か。だいたい文法的にめちゃくちゃじゃ無いか。「子供が何人か」は「とか」が「伝聞」か「列挙」かのどちらの意図で用いたかによって意味が異なってくるでしょ。列挙なら、単に「女性は一般的になんでも話をしたいのか?」となる。そんなの人によりけりだ。などといちいち邪推をしてしまうのは思考の外に避けて、私はさっと返事する。

「将来の家庭収入を考慮しつつ、可能性としては私立の良い学校に入れる前提で、一人か、二人かを、決めときたいでしょうね、とか!」

 …などと。こういう話題は異性の先輩からもらうDMとはいえ別に変な話題、セクハラとかではなくて、御影先輩は本当になんでも思考実験してみるに興味があり、合理的仮説をいくつか考えてみたい人なのだ。今日は結婚や恋愛特集なのか。こういったジャンルは珍しい。こういうものは私は詳しくなく縁のないジャンルであり考えたことも無かったのだけれど、普通の人はどう考えるかぐらいは仕事柄分かるつもりだ。先輩とのメッセはよくこういう斜め上のメッセージが届いて、私は全く動じずに文句も言わず、あるいは「どうしたんですか?」のような感嘆詞的メタ質問で返すこともなく、淡々と回答して先輩の疑問に付き合う。様々なことを想像して仮に普通の人ならばと考えるだけならば面白いので、よくこういう会話になる。会話と言っても、直接喋るのではなくて、お互いリモート勤務で自宅にいる時は仕事の邪魔にならないタイミングを見計らってオンラインのメッセージで、またオフィスにいてもこのようにオンラインで、そういう森羅万象のことについて意見を交わすような関係になってきた。勤務時間中に限り。おデートの誘いやモーションそぶりは一才無く。私は新卒二年で前職を辞め転職してきてから入社ちょうど半年ほどであるが、この二、三ヶ月ぐらいからそういう壁打ち相手という関係である。…。

 はっと我にかえって気がついた。「付き合って」とか「そういう関係」と咄嗟に思ってしまったが少しビビッドだなぁ、と思った。別に特別なそういう関係、などでは決して無い!と心で否定した。ただ、良い人ではある。この関係はあくまで勤務時間中に限っている。たまに今の状態に似てオフィスに二人きりで夜中まで勤務していることもあるが、あくまでこのような(親しい、と述べておこう、悪い気はしないのだから)会話はあくまでオンラインでである。オンラインで無いとすれば、セクションは違うが事業部は同じ、なのでまれに会議で同席するときがあり、直接相対するし口から音波もろい音声を発して挨拶や会話をすることもある。しかし、ほぼ仕事と軽い挨拶、以外の私語は交わさない。話題が無いじゃ無いですか…。私から先輩について、特に聞きたいこと、知りたいこととかが無い。お互いにそうだろう。もちろん、自己紹介程度のことは知ってる。良いところの大学を出て、独身だそうだが、実家通いか一人暮らしかはたまた二人か、東京か近郊かすら知らない程度の知識だが。しかし、オンラインでの、二人の関係とは無縁だが世界に関する先輩の面白い疑問にはいちいち答えてしんぜている。私は彼の軍師か何かか。そんな感じなので、わざわざ念を押しておきたいのだが、私達の間には何も無いしそういう確認はもちろん、ありません。

 それから数分、PCをカチャカチャしてる間に、次の質問が届いた。

「もしも結婚したら、一緒に家計をしたいのだろうか?」

 知るかよ。人によるでしょ。それに相変わらず文法が変。と思いつつもまともな返事をタイプしようとしているうちに、追記が届いた。

「日本では女性が男性の籍に入って銀行口座も男の名前で使うことが多いと思うけど、家計が一緒だとするとお互い何に使っているかあからさますぎるのは、何だかやりにくいなぁ。」

 あー分かる。まず入籍して口座一緒にするのと、それ以前に男の姓に全部変更手続きするの、あり得ないくらい面倒くさい。それに見合った利点があるのか入籍て。よし、そのまま返事しよう。

「入籍して口座一緒にするのも面倒だし、お互いをお小遣い制にするのか?それとも近年の日本ではご主人様だけがお小遣い制なのか?知らないですが、私は何に使っているか知られたくも無いし、知りたくも無いです。浮気もできやしない。」

 さらに私も真似をして追記した。

「入籍しての面倒な姓の変更手続きに結婚って見合っているんですかね?まあこればっかりは普通はどうなのかは私は分かりかねます。」

 と答えた。まあ私が変な危ないやつであることは十分先輩にバレているから構わないけど、まああり得ないと思うけどこれで先輩と将来、正式に付き合うとか結婚とかは無くなったな!いやぜんぜん期待も何も、というか眼中に無いので構わないのだが、と頭で何度も強調した。しかし、私の思考は並列処理ができるので同時にパラレルで、真逆であるが次のことも考えていた。

(でももしかしたら、これは先輩が私との結婚生活の条件を確認しているのだろうか。)

 御影先輩とは、あまりこういったプライベートは話しをしたことが殆どなかったが、なんというか、採点するならば評価は何も悪くは無いと思う。年齢も6歳しか違わないなどバランスも良い。変わった質問攻めにいつもあってはいるが、彼の考え方としても何も嫌な気にさせられることなどなく、むしろ私と意見が一致することが多々ある。意見というか、考え方の趣味、センスが似ている。見た目も、背がスラリと高く何も悪くない、どころか、むしろ少し長髪・イケメンで、しかも眼鏡である。服はいつもスーツだが大きめでファッションには無頓着のようであるが最悪ではない。次々と普段考えてこなかった思想が思考に、連鎖的になだれ込んできた。いや、考えたことが無いわけではない、直接、必要上の業務の会話と挨拶程度でしか話したことは無いが、まだおデートなどもしたことも無いが、実は、たまに考えたことが無いではない。「先輩、いろいろ私と禅問答バトルしたい設問が溜まっているなら、外で食事でもしながら話して一気に片付けましょうよ。」とでも言って、外で会うようになり、そして‥、とか、考えたことが無いではない。そして、その先の恥ずかしいことまで考えたこととか、無いではない。…触れあった事も無いのに。私語を交わしたことも無いのに。…。

 私の思考の連鎖反応による 妄想が止まらなくなってきた。恥ずかしくなってきたから思考の強制停止ボタンを押した。では何をカンガエマショウカ?と脳が私に次のコマンド要求を突きつけてくる。では…、次、先輩はどんな質問をしてくるか予想してやるはどうかな。例えば…、

「それで、いちかは、子供は何人ほしいと思う?いや、僕は0でも1でも2でも4でも8でも2のべき乗なら何でもかまわないんだが。」

 とか⁉きゃー!い、いちか、にです。とかとかぁ?いや、この際だから、私から質問して攻勢に出れば?いやいや、もし、全然そういうことじゃない、その気がないか、タイミングが今で無かったりしたら、恥をかくだけだ。私は将来の旦那に対しても、恥などかきたくなかった。慎重に聞ける文面はなんだろうな?というか、何を聞こうか?例えば…。

「先輩、さっきから結婚か婚約のプロポーズのシミュレーションでもしているみたいですよね?誰か、身近にそういう人が出来たんですか?」

 と聞いて、きっと躊躇するだろうから、すかさず追記して、

「え?教えてくださいよ!私、そういうのはっきり言ってもらうほうが好きです!」

 これちょっとやばいな!めっちゃ告白されやすい良いワーディングだし、自分から好きだと言ってるようなものだし。なんだか楽しくなってきた。背中がむず痒い。しかし悪い気はしない。私はこの一人のオフィスを占有していることを左右を見回して、改めて誰もいないことを確認し、オフィスチェアに沈むように座っていたのを、改めてしゃんと座り直して背筋を伸ばし、一連のメッセージを入力しようと、両手をキーボードに準備し、そして覚悟を決めた!そしてしっかとタイプし、エンターを押す前に、もう一度じっくり目で追って読んで、そしてにやけた。そんな自分の表情筋の変化が、感情の変化がビビッドすぎることに気がついて、ちょっと真面目に考えるのはよそうと思った。いざ尋常に。やるべきことはやるが、柄じゃない。何がって、姿勢が正しすぎるのがよくない。ラフに行こう。私はオフィスチェアに、改めて深々と沈むように座り直し、そしてドキドキしながら手を伸ばしエンターキーに指を伸ばした。

「先輩、さっきから結婚か婚約のプロポーズのシミュレーションでもしているみたいですよね?誰か、身近にそういう人が出来たんですか?」

 すると、思ったより早く返事が届く。待ってましたとばかりに。

「それはね、いちか。目の前にいる人だよ…。」

 とか返事が来たらどうしよう!…などと考えているうちに、次のメッセージが届いてしまった。

 それは、PCのオンラインメッセージなのかどうかということすら認識が分からなくなるくらい、驚きのものだった。

「ちょっといちか、変なこと吹き込まないでよねww」

 ⁉️

 この文面、先輩じゃあ無い。何事だ!

 私は思わずオフィスチェアから飛び上がろうとしたのか体を起立しようとして失敗して体制のバランスを崩し、デスクとチェアの真下にずっこけ、倒れてドスン!と私の尻もちする大きな音がオフィスに響いた。そして勢い頭も打ち仰向けになった。体がショックでか、動けなくなり、せいしんもそのまま茫然自失して天井を眺め、痛い…、と思いつつ考えた。いや、この文面は明らかに、ひかるのものだ。何で、先輩のアカウントで、同じPCで、二人きりで上のフロアに、そしてさっきからの私と御影先輩の会話内容を共有しているのかっ!?

 私はデスクとチェアの間の床に仰向けで真っ直ぐ倒れたまま、状況が理解できず、いや理解しているから猛烈に恥じていて、先刻の自分の勝手な妄想、送信しようとしていたメッセージが猛烈に恥ずかしくなり、頭から血の気がひいていくのを感じた――。

 二人が急いで上階から降りてきて私の元へやってきた。

第二章 オフィスどすん尻もち事件

 ひかるは高校時代からの同級生で友人、この会社を誘ってくれた張本人である。そのひかるが、なぜか他に誰もいないオフィスの上階で男性、御影先輩と二人きりで、同じPCを覗いて私とその先輩との会話を覗いていて、一緒にメッセージを送ってきたとは。いったいどういう状況なのか。私は思った。

 (修羅場かこれは。)

 ひかるとのことを思い返してみる。

 私は高校時代はとある理由で入学直後から、人間付き合いが面倒くさくなって友達をほとんど作らず、孤立していた。いつも、一人読書に耽って過ごしていた。実際は、つまり海外SFやクトゥルフなどのマニアックな小説を、方や世阿弥やドストエフスキーやプルーストやらの文学でも何でも本を持参しておいて、読んでるふりをして授業の合間に頻繁にある(無いくて良い)休憩時間をやり過ごしていただけなのであるが。まあ実際に全部読んだが(ちなみにプルーストの「失われた時を求めて」は一年かかり苦痛でしか無かった…)。そんな中で、たびたび無遠慮に話しかけてくる同級生女子がいた。それがひかるだ。

 ひかるはクラスの女子カーストの中では上位に位置しながらもサッカーでいうリベロのような、オフェンスもするしディフェンスもする自由な、いや、キーパーもするしフォワードもするくらいの、本当にせいしんが自由なのだろう、いろんなグループに無遠慮に顔を出して、もし諍いがあれば彼女なりに積極的に仲介もすれば、私のような孤立している者にもどういう主義思想か不明だが声をかけるし、見た目は長髪ゆるふわパーマにスタイルも大人びて美人だし、女子だけでなく男子にも人気の一人だった。ちなみに私はその頃長髪ストレートで背は女子平均より少し上で華奢であったから中学では一番だと言われていたらしいのは自慢だったのだが、そんなことはどうでもいい!、であるが、彼女にとって私はクラスメートの一人でしか無かったと思う、逆に私にとってはと問われれば、百歩譲って高校時代の唯一の友達、と認めざるを得ないだろう、次の授業の準備、何だっけ、とか困った時には私から声をかけることができるのは彼女だけだったから。ひかるは気軽に答えてくれたり、またその質問がひかるにも分からない時(往々にしてそういうことはよくある)、気軽に仲間から聞いてきてくれたのは感謝している。そういう間柄だったのだが、その後高校を卒業し挨拶も私からはろくにせず別々の道を歩むのであるが、私、宇佐美いちかが、大卒後に就職した大手企業にいた二年間で社会人としてのデビューに失敗してズタボロになりせいしんを病んで退職し、数ヶ月したころに彼女はSNSで私を発見し、今どうしてる?ねえ会って話さない?と変わらず気軽な自由なせいしんでメッセージを送って来たので、会い、そしてそれがネットワークビジネスなどの勧誘だったとしても私は多分ひかるの言いなりになって引っかかってやろうという投げやりな気持ちになっていたのもあるが、素直に言われるがままに紹介されたこの会社を面接し再就職、社会復帰したのだから、結構、いやとても感謝している。

 ここでの仕事は今までの私の知識と経歴を活かせてドンピシャであったし、数十名しか居ない小さいベンチャー企業で厳しい上下関係に野心裏心が渦巻く魑魅魍魎の集まるあくのそしきではあるが、キレイゴトやセイギカン、シャカイノジョウシキやなにやらを押しつけて小言罵詈雑言噂話で私を、人間慣れしていないうぶな私のせいしんをノックアウトした前職とはまるで違っていて居心地が良い、というか私を孤独な熱帯魚、ベタなどに例えるとここは私があまり噛み付かないで済む相性の良い魚しか混泳させない、棲息しやすいアクアテラリウムのようだったから、ひかるには結構、いやとても感謝している。

 話を戻そう。

 私が自分の席で一人のオフィスフロアで尻もちついてどすんと音を立てたので、上の二人が心配してか二人で降りてきて、見に来てくれたようだ。エレベーターホールからこちらはガラス張りなのだが、そのエレベーターが到着する音がし、それで私が倒れて硬直しているのを見たひかるはオフィスのガラス扉を指紋認証もさっと済ましてバンと開け、駆け寄ってきて、普段の大きな声を叫ぶようなトーンで、言った。

「いちか、大丈夫?ちょっと、死んじゃダメよ!」

 そしてあろうことかひかるは私にまたがり、胸ぐらを掴んで上体を起こすと、ほおをペチペチしてきた。これはマジでやっているのではなく、彼女らしい演技なんだろう、「それっぽいこと」をする癖だ。ヤメテクレ、と思ったが声が出そうにない。そこに御影先輩も、のんびりと、珍しいものを見たという体でやってきてひかるの横で一緒に私を眺めた。

(あぁ…、このまま絶命したい。)

 私はあまりに恥ずかしい状況であったので意識を奮い立たせ、頼りなくなっていた表情を真顔に戻し、正常なせいしんに戻すよう極力努めてから、寝起きのように目をゴシゴシしながら、言った。床に尻餅ついたままの格好で。

 「…大丈夫です。あの、あれですか?もしかしてお二人は、結婚、いや婚約でもされたとか、ですか?」

 先輩二人は顔を見合わせてから、言った。ひかるは満面の笑みで。御影先輩は真顔で。

 「そうなの!」

 「ああ、そうなんだ。」

 と。

 そのあとの私は記憶がない。どうやら、いきなり上体を起こされたのが原因か、貧血で倒れたらしい。

第三章 イクスピアリ止まりの世界

 ディズニーランドはイクスピアリまでしか行ったことがない。イクスピアリとは、ランドの園外近くにある、ディズニーのお土産専用の大きなショッピングモールだ。内外観はそれなりにディズニーぽい雰囲気、ということらしいのだけれど、そこまでしか行ったことがない私はその真実の整合性は知る由もない。オトナ女子界隈では年パスを持っているとか、記念日ごとに彼氏と泊まりで行くとか、大人になってもそのようにはまっている女子がいるのが、近代日本の大和撫子のたしなみの一例となっている様であるが、私には先述程度でとんと縁がない。

 で、職場のディズニアンである、先輩だけど年下の女子から週末行ってきた、などの報告が始まれば聞いてもいないのに詳しく教えられるハメになるが、その度に私は

「その並んでる時間は楽しいんですか?本でも持って読んで過ごすとか?でも立ったままで?」

 とか

「前にも観た子供向けの観劇を、また見て新しい発見はあるの?」

 などの質問をいつも同じ調子でさせて頂く。先日などはそれに続けて私、

「…クリストファーノーランのメメントぐらいに複雑な構成なら何度か見たいと思うでしょうけど。でも幼児にも分かりやすい内容、なんでしょう?あ、失礼、子供向けのと強調したいんじゃなくてよ、全年齢楽しめるようにしてるのが凄いなって。その秘訣を知りたくてですね…」

 …とまで質問しようとすると、彼女は手のひらを私の眼前に出して

「もういいです。いちかさんには分からない。全年齢でも良いものはあるってこと、多分一生理解しない方だと思います。年相応が相応しいって言いたいんでしょ。いちかさんはおばあちゃんになったら写経とカントリードール作りが趣味になるんだわ。別にいけないとは言わないけど、人の趣味を批判しないで下さいね!」

「批判なんてしてないですよ。それに私頑固な分からずやじゃないつもりなんですけど。全年齢対象のディズニーだって、たとえばトイ・ストーリーは3より4のほうが好き、ということは今風を分かってるということじゃない?ですよね?」

「トイストーリーの3と4の違いは主義主張の違いだからその人の持っている政治姿勢次第だとかなんとか、いちかさん先週言ってたじゃ無いですか。私は3のほうが好き。変化ばかりが善ではないと思うんです。私は安心と変わらぬ愛がいい。」

(変わらぬ愛…、そんなものあるのかしら。むしろ、無い方がいい。)
 …と一瞬思ったが、その思考は脇において続けた。

「別にそれも否定しないわ。ともかく聞きたいんですけど、もう私が知っいる限りここ半年で十回は田中先輩はディズニーランドかシーに行ってるはずですけど、何か新しい発見や自分の変化はあったのかなって。」

 田中先輩は小柄な体のわりに豊満なバストに組んだ腕を載せて残念そうに息を吐きながら言った。

「はぁ、だから、そういうのは要らないんですよ。変わらないから安心したいから行ってるんですよ。」

「でも、田中先輩、今度はベイマックスがオープンしたから楽しみで行くって言ってましたよね、あと、美女と野獣でしだっけ…?」

「うっ…、それも、そういう新しいのがあっても安心できる、というところがポイントなの!」

 私は、ちょっとわざとらしく大きく目と口を開いて、人差し指を立てて言った。一つ分かったわ、を強調するジェスチャーとして。

「あぁー、なるほどです。ちょっと、なんとなく、少し、微かに分かった気がします。」

「…分かってくれたらそれで良いですよ。」

 人の、理路整然としない行動を分析してやって、本人も気づいていない意味づけをしてやり、さらにそれを私の前で繰り返さなければならないように調教してやるのはほんと楽しい。

 あのオフィスどすん尻もち事件から半年以上が過ぎ、すでに夏が始まろうとしていた。湿度が高く雨の日も多く、そんな日はアスファルトの間の土埃の匂いがして下を見るのが嫌だし、今日のような快晴の日は足元に反射する光が眩しいから下を見て歩くのはやはり嫌だ。私は気丈で背筋まっすぐでいたい。あのあと、プロジェクトはその後も続くのだが私は1ヶ月半で退職させて頂いた。オフィスどすん尻もち事件はひかる先輩によってまたたく間にオフィス全体に知れ渡ったから、あの尻もち事件(ちなみにひかるが妙名した。良いセンスなのだが)で恥ずかしい思いをしたから辞めるみたいな、邪推はされたくなかったので、即退職にはせず、少しずらして退職願を出した。もちろん、それは以前から、気分を変えてまた出直したいと思って次の行き先も探していたのだ。それで、青山からベイエリアのこちらの新しい巨大なビル、なんたらヒルズに入居している企画会社に転職していた。上司には必死に遺留も切願されたが、転職するまでにあと3ヶ月かかる予定だった全シナリオの企画を1ヶ月で完成させるを約束することでなんとか了承して頂いた。その為退職するまでの間は、かつてないほど仕事に集中し、ほとんど誰とも、ひかるとも御影先輩とも仕事以外のことは話さず、宇宙人が襲来するとしたらどういうケースが考えられるかとか、結婚後の家事分担の割合はとか、新婚夫婦の夜の嗜みのあるべき頻度は、などの禅に関する質問も来ず、ただただ無心で仕事に打ち込みつつ、後任者に引き継ぎした。それで新しいこの会社は、規模も大きく社歴も長いが、システムは古く面倒くささもあったし、今どき非リモート勤務で出勤だし、みな、それでも良い給料はもらえるのでやる気がほどほどにない給料泥棒ばかりだな、と即見抜いたのであるが、私は変わらずマイペースで仕事したところ、どうやら相当できる人と認定されたようで、すでにチームのリーダーとなっていた。前の会社はベンチャーのわりに先輩から順でしかなれなかったのに。まあ、リーダーにさせられた、が正しいか。そこで、1フロア100人ほどが余裕で入れる、天井も高く照明の明るいオフィスにデスクをならべ、はたから見たら工場のロボットたちの一つとなってベルトコンベアでなにかを生産するように、無心で仕事を遂行していた。

 新オフィスでの仕事に慣れた数カ月目あたり、だいぶ春になって暖かくなってきた頃から、再び、ひかるとも、また御影先輩ともLINEが(別々のDMで)届いたりしていた。そして、以前は全くそんな誘いは無かったのに、御影先輩、もとい御影さんから外で会うお誘いの口説き文句が届いた。

 「以前の、君の言う禅問答、の質問したいネタがシステム手帳のメモページに溜まってきて溢れそうだ。もうメモページの最後まで来たので、次のを買わなきゃいけないが、新しいのを買ったらきっと古い手帳はなくしてしまい、せっかくのネタが失われてしまいそうだ。なのでいちかが良かったらカフェで話ししながら消化しないか。」

 相変わらず意味不明なこじつけ、そしていきなりの初めてのいちか・名前呼び捨て。セクシー美女の妻を名前で呼ぶことに慣れてついうっかりか?しかし私は断らない性格、あまり考えずに、いやこれ以上考えたくなかったのでOkのうさぎのモフィのスタンプを速攻で送り(既読無視をするのが嫌な性格でもある)、そしてアポをさっと決めて会い、彼のその目的を果たした。会ってこういうことを話すのは初めてではあるが、半年そこそこ程度だから当然かも知れないが彼の見た目は私服は初めて見るがちょっとおしゃれになっている気がするが(奥さんに選んでもらったのか)、全体では相変わらずで、また話しもこのLINEや以前たくさんやりとりしたオンラインメッセージの時の調子そのままの、いきなり唐突な禅問答ばかりで、それだけで要件は終わり別れたので、まあなんというか、安心したという気持ちばかりが本当に残って、何も後を引くものがなかった。その後1ヶ月後にも、今度は夜の食事で、禅問答タスクを消化しようというお誘いがあったけどこれも素直に応諾し、そして夜でイタリアンワインバーだったのでお互い少しおしゃれして会ったという点以外は、禅問答タスクを消化するだけの同じようなおデートだった。そうだ、これはデートだ。浮気になるのかは分からない。しかし会話がドライすぎるので、これもまあなんというか、安心したという気持ちばかりが本当に残って、何も後を引くものがなかった。なおこれらは公認である。私からは、それぞれの機会に、アポが決まったら早速ひかるにLINEを送り、

「ご主人とカフェで合うんだけど、あの例の質問がたくさんあるってやつで」

「あ、そうなの?行ってらっしゃい」

 とのリプが速攻で返ってきて、ワンピースだったかのアニメキャラで、指でグーした格好で「がんばって」と文字の入ったスタンプがその後続き、いったい何をあなたの旦那とがんばれというのか意味が分からないが、ということは先輩は妻に言ってなかった件についてはなんと判断すればよいか分からないがとりあえずバラしていや許可をもらっているから公認である(少し楽しい)。二度目も同じような調子でバラしてある。今度は夜なのだが、なんのご心配もなされずかよ。大丈夫なのかお二人の関係は。無論、念のため言っておくがその夜の会合についても後を引いてないということは、終わってから速攻別々の電車で帰っているという意味で、何の事もないということを証言しておきたい。

 であるが、私はこのように、「何も後を引くものがなかった」などと帰り道を帰る自分を振り返り自己暗示をかけようと努力していたわけだ。つまり真相は、前の職場は、あの事件から逃げるように退職し、すぐ次のこの新オフィスに就職、そしてあの事件のことなどを深く考えまいとして、いや、というか御影先輩とひかる、二人から逃げるべく馬車馬のように働いたのだ。それが、本物の御影先輩とこっそり(公認だが。御影先輩がこれが公認だということを知っているかは確認が取れていない)会うようになり、その時間が楽しく、それを認めまいと自分を騙すべく、まるで大したことでもないように、自己暗示を強くかけようと何度も試みたわけだが、結果は実は惨敗だった。

 何も真に迫らない、二人の関係については言及しない、本当に禅問答だけの会話ばかりであるが、二人きりのその時間が楽しく、愛おしかった。という風に、それを否定したり、内心(思っている中での内心というのもなんだか変だが)、肯定せざるをえない、などと考えたりして、つまり思い出して楽しむのを、何度も、このクリーンな、人の多いオフィスでの仕事中に考えていた。これが自分の癖になってきていたのだが、思考を占有するので仕事に影響するレベルで、非常に、本当に困っていた。

 この間も、御影先輩との三回目のおデートが決行され(もちろん公認)、その内容は特筆すべきものはなく何の変化もなかったが、ただネタが切れ始めたのか禅問答がやたら複雑怪奇になってきてはいた。で、それの帰り際のことであるが、駅で分かれる際先輩が「じゃあ。」と言ってから私がまだ何か消化不良を感じていた感じで、それで「じゃあ。」とぼそっと真似したところ、先輩が「…何?いちか、どうした?」と優しく言うので、私が「なんでも無いです。」と言いながら、なぜだか自分でも分からないけど泣き出してしまったので先輩を焦らせ困らせてしまったのだが、すぐ泣き止んで事なきを得たのだが、そのことについて、翌日オフィスでも仕事しながら思い出してしまって、こっそり周りもいるのにデスクでこれもなぜだか自分でも分からないけど泣いてしまって、その日はなんとかごまかしたのだけれど、その後も、次々と普段考えてこなかった思想が思考に、連鎖的になだれ込んできて困ったことがある。

(もし、私が誰かと結婚するとしたら、親は喜ぶのだろうか。)

 そんなことが唐突に想起された。誰かというのが、あの人でないのは、まず確かなのだろう。とはいえ他に、結婚したいと思える人が、今後現れるのだろうか。考えられなかった。じゃあ、あの人と結婚したいと、私は考えているのだろうか。それについては思考に処女膜がかかったように、侵入を拒んで何の回答も見いだせなかった。なので自然に次は親の、家族のことに考えが及んだ。

 親の喜びとは。

 幼い頃は、私の家はひもじかった。祖父母もいたし、兄弟が多く五人いて、上は兄ばかり、私は末っ子だったのだが、よく、兄弟同士でもつまらない馬鹿なことで喧嘩したし、とくに熾烈なのが父と長兄が喧嘩し続けたことで、そのことで兄をかばって体の弱い母も父とよく喧嘩した。そんな喧嘩を見て、私はただ泣いてばかりで、それでついでに殴られて、さらに泣いた。
 私はよく、お腹を空かしていた。お腹を空かしても泣いた。二十数年前の日本の田舎と、今、都会にいる現代の私の日本とでそんなに差があったのだろうか、思い出がセピア色に染まっていてよく思い出せないのだが、いや、単純に家庭収入の問題か。多分今の私のほうが当時の父よりも収入がある。それだけで私は何も悪くないとは分かっているが申し訳ない気持ちになる。で、当時、一日三食はあるにはあったがおかずが少ない日も多く、また、おやつというものがほぼ無かった。今思えば子供におやつがないまま一日を過ごすことが連続するというのは相当辛かったのではと思う。いや、辛いのはそれを与えられない両親も同じ気持ちだったのだろう。非常に辛かったのだろう…。ともかく、よく失職する父の給料日まで、ご馳走もお菓子も無かった。そんな状況で少し成長した頃、私はいじめにあったせいもあり、親のお金を盗んだことがある。母がへそくりしていた場所を知っていたから、そこから少しづつ取り出していたらいつしか無くなってしまっていた。あれは自分が全部盗んだのか、母が気づいて場所を変えたかは定かではないけれど、ともかく母は気づいてたと思う。でも何も言われなかった。その母は私が高校に行く前に亡くなった。

 本当に恥ずかしい。恥じている。思い出すごとに、ほおが紅潮し泣いてしまう。母に何の親孝行も出来なかったのに。母さんにその時々いた、好きな人の話とかしたことがない。私は一人娘だったし一番可愛がられていた。好きな人ができたと言ったら喜んでくれるだろうか。家柄は?とかは気にされないだろうが家が貧し過ぎないかは気にされそうだ。優しそうか、親はしっかりと稼ぎはあるのかは遠巻きに探ってくるのだろう。良い人を見つけなくてはならない。もしその機会があるなら、気を遣わせないで、心配させないように自分から説明してあげよう。

 もし結婚すると言ったらどんな顔をするのだろう。母親は、何を聞きたいだろうか。子供の数を何人にすると約束しているかとか聞きたいのだろうか。ともかく自分から言ってあげよう。子供はこれからで、何人か欲しいと話している話し。本当に良い人で愛しているから結婚すると言う話を…。素敵だな、と思った。お母さんが、きっと顔を真っ赤にして涙を流して喜んでくれる姿が目に浮かんだ。たくさん苦労をかけた。心配をさせた。お母さんが喜んでくれる、そのためだけでも結婚する価値は十分ありそうだ。なら誰でも良いかも知れない。いや!よくない。ここでの「良いかも」は、母のためには良い、ということであり、私の人生としては欺瞞である。しかし、私の人生のそれはすでに敗者決定なのだ。しかし、彼と秘密裏に(公認だが)会っているときはドキドキするし、楽しい。幸せだ。私が、娘が幸せを感じている、ということを知るだけできっと母はどれだけ報われた、幸せな気持ちになってくれることだろうか。詳しくは話せないが。そうしたら私の罪は神様は赦してくださるだろうか。この気持を母に伝えられたら良いのに。しかし、そういえばさっき自認したばかりだが母はもうとっくにいないのだった。

 そんな妄想をしている今の私も、仕事のマウスも動かさずに顔を真っ赤にして目に涙が浮かんでるのをじっと堪えるのに必死だったから、そのことに気づいた隣の席の田中先輩が、「大丈夫?」と聞いてハンカチをくれた。そんなことが入社後すでに何回かある…、私は相当変なやつだと思われているに違いない。泣き虫いちか、というあだ名が影で広まっていることは知っている。

 ホモサピエンスが現れてから、いやその前からメンメンと紡がれてきた、生の営み
 生まれて、生きて、異性と交わり、女は子を産み、そして死ぬ
 またその子が成長して、異性と交わり、女は子を産み、そして死ぬ
 昔も今も、結局人間がやることが何も変わっていないのだろう。

 好きな人と結婚できなければ、それは女子にとって人生バッドエンド確定という安直な結論が突如頭の中で現れ囚われて、離れなかった。暗い気持ちになった。寒気がして身震いした。そんなバッドな状態だというのに、また御影先輩からLINEメッセージの着信があり、少し先だが禅問答おデートのご案内が届いた。私はOkのうさぎのモフィのスタンプを速攻で送った。Okのうさぎのモフィを飛ばして、「既読」のタイムスタンプを見て、少し胸のあたりが暖かくなった気がした。

第四章 メリーバッドエンドは好き

 今回のおデートは、夜といってもそれほど遅くない、仕事帰りの時間だけど、お店が指定されていなかった。こちらに近い駅を指定されていて、歩きながら話そう、とのことだった。LINEメッセージの段階でそれが分かっていたから、これはついにあれだな、と思ったけど、私は断らない主義、覚悟を決めて現場に臨んだ。

 しかし実際は、歩きながらなんてこと無い世間話のようなものが始まった。珍しい。妻、ひかるとの生活の話もあった。あまり聞きたく無い。大抵返事は「ふーん」「へー」で返したが、ひかるの性格については、私のほうが断然詳しい気がしたから、アドバイスできることはしておいた。ベイエリアの埋立地の島と島をつなぐ、東京湾を望む大きな橋(たくさんある)に差し掛かったが、まだ歩き続けるのでこの先にホテルでも有るのか?分からなかったが目的が何か、何でもござれだけれども私は常に目的を確認して生きたい、歩きたい性格だったので私は立ち止まり、言った。

「先輩、いちかの禅問答コーナー!」

「お、君から設問があるとは、珍しい。何だろう。」

 二人は橋の歩道の上で立ち止まり、向かい合った。私は問う。

「人生で自分にとってたぶん最大の幸せが何であるかが分かり、それがすぐ傍に有ったというのに、身近な人にそれを奪われてしまったら、もうその人生は最大の不幸だと思うのは間違いですか?解決策はありますか?」

「…いきなり重いね。うーん…、」

「…この前制作していたCM、犬のやつです。前期のシリーズは、ただ登場人物の紹介、主人公は犬の父さんですが、その家族を次々と紹介して、それがいちいちいろんな人種や年齢の家族なので、それを当たり前に普通に対応させるところに、究極の多様性の面白さを表現していたんですよね。」

「ふむ、きみのヒット作だね。それが?」

 私が橋の向こうに登り始めた丸いお月様を見ようと、橋の欄干に手をかけると、先輩もすぐ隣に来て同じように欄干に両肘を載せた。私は橋の欄干をグラウンドの鉄棒に見立てて少し伸びをし、また顔だけ半分先輩の方を向けて、続けた。

「はい。それで後期の企画書で私が残していった内容は、その後採用されたか知りませんが、最終的に両親が月に帰る、という結末で、後期シリーズ通して描いたテーマは、多様性によるそれぞれの文化の違い、を明確に表しつつ、他の人たちがそれに直面して困惑する、でも受け入れるしかない。それは妥協でして、視聴者に、おい、それはお前の主義と違うだろ!と毎回つっこませるのが面白い、としているんです。」

「ふむ、ああ、一通り見させてもらったよ。面白かった。結果は…」

「で、最終話は、母が月の出身で帰らなければならないので父もついていくのですが、その前に一番若い息子とキャッチボールをするという約束をしていたのを、出発するので時間がなくてできない、というシーンがあるんです。それで、残念ながらできないことをみな我慢するのですが、ロケットが出る直前にやっぱり息子はキャッチボールしたいと泣きわめいて、父も、したいと泣きわめきながら、でもロケットが飛んでいってしまいEND、なのです。その後のことは何も語られず。シリーズもこれで終わりですし。」

「それは視聴者、絶対泣くね。この大手ナショクラでそれをやるの、伝説になるねきっと。でも続きのシリーズが…」

「で、先輩、この息子と父は、その後、どんなに面白い楽しいことがあったとしても、果たして本当に幸せと思えるのかな、と。人生で一番大切なものを失ってしまったら、そのひとは一生不幸なのかな、と。だから――」

 私は、海の方、海と言っても海か川か分からない領域だけど、その海面に揺らいで映る丸いお月様を見ながら、続けた。

「先輩は、どんな人生のエンディングが好きですか?」

 先輩は、なんて答えるだろう。何について話しているのか。一般的な話しなのか、私達の人生にからめて質問しているのか。また、私はここで先輩は、と言いながら、これは私、いちかのとらえるべき人生観について答えなければならないのか、など判然としないであろう、わざと複雑な設問にしてみた。禅問答の達人、先輩なら、きっとそういう設問であることは理解するであろう、さて、どんな答えが得られるか…。

 先輩の反応が無い。考え込んでいるようだ。私は少し、勝ち誇った気になった。何か、私は仕返しをしてやりたかったんだ、と今、気がついた。なぜどういう理屈で私が先輩に仕返ししたいのか、は分からなかったけど、少し気持ちが良くなった。

 まあ、逆に私がそれを聞かれたならば?最近、そういうことを独りでよく考えていたけれど、そういえば、先輩にそれを聞かれたならば、だとしたら少し考えが違ってくる?

 それ自体に人生の意味が、加わってくる気がした。つまり――

 どんなエンディングが好きかと問われたら、普通ハッピーエンドが好きに決まってるでしょ、と言いそうなものだけど、そんなこと言ったら彼はきっとこう言うでしょ。

「人生にハッピーエンドなんて無いだろう。」

 って。人はいずれ死ぬ、その時家族に囲まれていようが、それまで幸せだったかに関わらす、結局は化学的絶命の時一人で死ぬと言いたいのだろう。でも私はこう言うの。

「メリーバッドエンドは好き。私は、幸せが何か分からないし、だからといって不幸だと思ったこともないし。このまま死ねたら良いのにな。そしたらそれはメリーバッドエンドでしょ?なんだか素敵じゃない?」

 東京湾河口をまたぐ大きな橋の上で静かな夜の海を眺めつつ、私はそんな妄想をしていたが、返事がなかなか来なかったので、橋の欄干に両ひじをつく先輩のほうを、私は申し訳なさそうな笑顔で見上げるように見ると、先輩は両ひじをついておらず、すぐ目の前で私を直立不動で見つめていたから一瞬ぎょっとしたけど次の瞬間、私は抱き締められていた。上半身は強く両腕で抱き寄せられて密着し、でも優しくほおは触れあって先輩の匂いを意識して、そして通りすがりの自転車も川の魚も覗き見してる海面の丸いお月さまも、誰も文句を言ったりはなかったけど、「答えてくださらないのね。」と私は文句を言いたい気持ちは少しあった。でも、まだ先輩は動かず何も言わないし、抱きしめられた体はますます強く圧迫されてきて、では何も考えないようにしてるのかも知れない?、ならばと、私も考えるをやめて目を閉じて抱き締められるに身を任せていた。自分の心臓が高鳴る音だけが聞こえていた。それは ときを打っているのだと初めて理解し、時間の流れというものを見た気がした。そして私は初めて、神様というものに祈った。

(このまま絶命したい。)

 でも、その願いは聞き入れられなかった。

第五章 公認の、ナイショ話し

 もう初夏ということだが夏の初々しさなど全く無しに、遠慮なく陽は街に照りつけているのが大きなオフィスの窓からうかがえる。私は仕事は脇において膝をついて窓の外を眺めていた。最新のオフィスビル、高層階なので遠くに東京タワーも見えている。太陽がもっとも一年で高くなる日はとうに過ぎ、七夕で織姫と彦星がおデートするという日も近づきつつあるがあれは真っ赤なウソで、実際は両星は十四光年も離れているから一年に一度会うことなどあり得ないのだが、最新のオフィスで、最高のテクノロジーによる空調設備のもとで働いている私は勝ち組か!などと考えていると(空調がよくないオフィスは多い)、久しぶりにひかるからLINEでメッセージが来て、近くに仕事で寄るからランチタイムにご飯食べようとのことだったので、いつものごとく私は断らない性格、あまり考えずに、ご主人の御影先輩とあんなことやこんなことがあってから音沙汰なく1ヶ月であるがその嫁でありもともと私の友人である彼女からの誘いはどういうことなのか、などは何も考えまい聞くまいとか思いながら、Okのうさぎのモフィのスタンプを速攻で送った。そして近場の、私の気に入っているおしゃれなレストランで会うこととなった。そのレストランの特に好きなところは、オープンテラスがあることと、アクセントで飾られ飼われている熱帯魚のアクアテラリウム(大きな水槽で、水中を水草で飾るだけでなく、地上部分も苔や流木などで美しく自然を模してレイアウトしたもの)があり、美しい優雅なヒレをもつ熱帯魚、ベタがうまく他の魚とともに混泳されているところだった。ベタは他の魚とほとんど相性が良くないので、私みたいだと思って親近感がある。そういえば、退職してからひかると会うのは初めてだ。そのご主人である御影先輩とは、退職してから何度か会っているというのに。私は少し緊張していた。

 レストランの前で待つことになっていたから、そのすぐそばの木陰で待っていると、かくしてゴールド系のやや派手目なスカーフを首に巻いておしゃれした、オフィススーツ姿の美人妻であるひかるが「よっ」と言いながら片手を控えめに上げた出で立ちで、現れた。

 レストランの、半ばオープンテラスであった箇所は、そちら側は日照りで暑そうだった。ウェイターはテラスを案内したが、ひかるはそれを制し、「あそこにしていただけます?」と強引に席を指定した。それは良いセレクトで、テラスと店内のちょうど間ぐらい、壁沿いで、ちょうど風も入り空調も効いているような席だ。さすがこの圧、女子カースト上位女だ。そう思うと、高校生時代のことがいろいろ思い出されたから、食事をしながら、そのころの思い出話に花が咲いた。私が、いつも一人で本を読んでいたの、不思議だったでしょう?からスタートした。ひかるが、女子カーストの上位にいながら、実は使いっぱしりのようなポジションであって苦しかった話し。私が、そのことは気がついていた話し。私が、他に実は目をつけていた、読書好きの仲良くなれそうな子がいたけど、声を結局、卒業前の三学期までかけれなかった話し。ひかるはそれをずっと早くに気づいていて、好きなんだろうなと思っていたと。そして代わりに声をかけようとして彼女を呼び出したけど彼女から仲介は不要ですとはっきり断られた話し、待っているのです、と言われたと。それは知らなかった。私はその後その彼女とそこそこ仲良くなれたけど、すぐ卒業となり、引っ越しもして、交流が無い話しなど…。

 お互いに、周りを意外と良く見ている、ということで意見が一致して、私はだいぶ緊張が取れ、二人であははと笑った。楽しい、と思った。久しぶりだ、こんな気持は。会ってよかったと思った。やはり親友はひかるだけなのかも。もっと早く会っていれば、私は、癒やされた、いや、赦されていたのかもしれない…。

 すると、次の話題は、例のオフィスどすん尻もち事件について、ひかるが言及し始めた。

「あの日って、土曜日だったけど、あなたと打ち合わせて土曜日中に仕上げてしまおうって話しだったじゃない?それで、部署は違うけどそれまでうちのもと課長だった御影先輩に相談して、出てもらってその場で見てもらおうという話しだったじゃない?」

「そうだっけ」

 しまったすっかり覚えていない。その、御蔭先輩をあの日誘ったのはひかるだ。ひかるはこの会社でも誰に対しも顔が広く、その美貌で社長ですら降臨させる能力者だった。だが、そういえばどうやってひかるが御影先輩を誘ったのかを私は考えたことがなかった。ひかるは続けた。

「それで、夕方まではあなたと一緒に企画書づくり進めてたでしょ?私が見積もりを各社に聞く担当で。土曜なので電話とかで直接担当者に。それで、分からない取引先がいくつかあったから、御影先輩に聞くために、その、連絡先を聞くだけじゃなくてどんな風に聞けば良い見積もりが手に入るかも聞きたかったから、上に行こうとしたのだけど、ちょうどあなたが席を立ってたから、私、上にいますって、ふせんをPCに貼って」

 私は、何の言い訳が始まるのかな、と思いつつ、ちょっといらつき始めたが、それを表情や声で見せないよう努力しつつ、言った。

「え?どのPCに?」

「私の」

「見ないな」

「あ…、そうよね、ごめんなさい。それで上に言って御影さんに仕事のこといろいろ話してただけで、なにもやましいことはしていないのよ」

「別に、聞いてないし、気にしてないです。」

 そんなのは一向に構わないのだが。一体何が言いたいのか。ちょっと、さらに私はムカつき始めていた。

「あ、でも、結婚したら子供は何人欲しいかとかは私から聞いたんだけど…、ほら、私一人っ子じゃん?だから、基本寂しがりなのよね。だからたくさん欲しいと彼が言うならそうするし、あまりいらないならそれでいいし」

(マジかよ…、めっちゃ見てたんじゃん…)

 ひかるは続けた。冷静な私に対し、なにやら焦っているようだ。

「あ、そうそう御影さんとはね、言ったと思うけど、2ヶ月前に映画に言ってから、それから急接近して、それから、あまり言ってなかったけどとんとん拍子に関係が進んで、相性も確認して、それで」

「聞いてないんだけど。別にいいから。何も気にしてないから。あ、映画に行ったのは聞いてたよ、覚えてる。」

 相性って何のだよ。私と御影先輩の禅問答メッセージの会話のどの時代の頃のことだ?いや、早くこの話題から逃れたい。私は、彼女が言いたい主題を予想して、この話題を速攻終わらすべく、結論を先取りして、続け様に付け加えた。

「それに私、二人が付き合ってたのは知ってたから。」

 そう言ったらひかるは、さっきからの焦り気味な表情から一瞬で真顔モードになって質問してきた。

「え?そうなの?」

 そして彼女は続けた。

「でもいちか、あの時御影さんに『先輩、さっきから結婚か婚約のプロポーズのシミュレーションでもしているみたいですよね。誰か、身近にそういう人が出来たんですか』って送信しようとしてたよね。私達が上にいることは付箋を見ていなくても分かっていそうなものだから、さすがに気づいていないってことじゃなくて?」

 ❗️

 あ、あの最後に送信しようとしたテキスト、そういえばあの時消してなかったから、見られたのか…⁉

 うわ、恥ずかしすぎる、このまま絶命したい。

 それに図星がばれてしまったのもバカみたい。私はとっさに嘘に嘘を重ねた。

「あ、あれは、冗談を言おうとしただけよ。」

「そう…。」

ひかるは、怪訝そうな顔をしたが、次の瞬間、

「知っててくれたのなら良かった!いちか、聞いてなかったけど、気持ちお祝いしてくれてる?」

「もちろんよ、親友でしょ?」

「ありがとう、いちか。大好きよ。」

「へーへー。じゃ、話しは終わり?私、戻るわ。ごちそうさま。」

「ちょっと待って、いちか。まだ話しがあるの。私の主人のこと。」

「え?なに?」

 私は引き止められた。逃げたい、と思ったが高校生時代からの彼女を知っている私は、強引な彼女からは逃げ切れそうにないと悟って諦め、席に座り直した。私は断らない性格でもあるし。ひかるはスケバンらしくなくオトナ女子風にしゃんと座り直したので私もそれに習わざるを得なかった。異常な緊張感が二人の間を張り詰めているイメージが想起された。何の話題になるのだろう、幾つか思い当たるものがあった。そして思った。

(修羅場かこれは。)

 ちょうどウェイターが水を入れ替えてくれたので、私はその透明な丸いグラスに手を伸ばし、一口飲んだ。それをひかるはじっと目で追って見ていて終わるのを待ち、そしてやっと口をひらいた。

「いちか、主人と会っているでしょ。」

「それは、…報告してるじゃない」

「主人は、御影さんは、いちかのことが好きなのよ。」

 どう反応すれば正解なのか、全く分からない。やばい嬉しい、いや違う、私は、このような追い詰められた状況においても、なるべく恥をかきたくなかった。とりあえずとりつくろう返事をまず、行った。

「そう…、なんだ。」

 ひかるはしばらくこちらをまっすぐ見ていたが、その後目をテーブルに落とし、水のグラスを手に取り一口飲んで、置き、そしてまたこちらをまっすぐ見て、言った。

「いちかも、御影さんのことが好きなんでしょ?」

 バン❗

 私は咄嗟に台パンした。テーブルを拳で叩いたのだ。店内にその音が半ば響き、何人かがこちらを見た。私は一瞬で頭に血がのぼるのを感じ、感情を抑えるべきとも瞬間的に考えたがその判断を拒否し、勢いに任せてすぐに言った、大きめの早口で。

「私が誰を好きかなんて勝手に決めつけないでくれる?私は他人が私の気持ちを勝手に想像してそれを勝手に語られるのが一番嫌なの!」

 私は台パンした拳をそのままに、言い切りながら拳が痛いことを我慢していた。お水のグラスも丸いのに転がるのを我慢してくれてテーブル上は大事にはいたらなかったけど、ひかるは目を丸くして一瞬驚いたようであったけどなるべく動じないように、こちらを同じ姿勢で見続けて、我慢して耐えてくれていたようだ。レストランは静まり返り、水槽のエアポンプの音がかすかに聞こえきてて、そこで熱帯魚のどれかが跳ねた音がした。そしてひかるは言った。

「ごめんなさい、いちか。余計なことを言ってしまったわ。私が言いたいのは、だから、何、ということじゃないのだから。」

「なに…、それ…。」

 こっそり付き合うのをやめろとか言わないのかこの人は。

「いちか、ごめんね、本当にごめん!」

 そう言ってひかるは両手を合わせ頭を垂れ、それっぽいジェスチャーをしたかと思うと、また正面を向き直して静かに語りだした。

「それで、何が言いたいかというと、これも余計な解釈だといえばたしかにそうなのだけど、いちかは、論理的なことや一般論を語るのは得意だし、だから広告で成功したと思うけど、あなたは人に自分としての、あなた自身の気持ちを伝えるのは得意じゃないって私、私が個人的にそう思っていて、だから、何なら私から伝えてあげようかと提案しようと思って…。」

 はぁ?訳が分からない。なぜ、片思い浮気相手の被害者である妻張本人に、敵である私の浮気がうまくいくように手伝われなければならないのか。その異常なまでの、私のような変人でも分かる理不尽にヘドも吐きそうであったが(いやヘドを吐かれるべきは私だとも分かっているが)、そのことは置いておいて、やはり、私のことを勝手にあれこれ思われることが許せない。私はわなわなと体も声も震わせながら、頑張って言った。

「わ、私が自分の気持ちを人に明かさないのは、苦手だからじゃなくて、あえてそうしているのよ、ずっと、昔から。女子高生時代からそう見えていたかもしれないけど、あえてそうしていただけだから。」

 私は、向こうを向いたまま、言った。ラジオのノイズ音がフェードインするように、レストランの喧騒がもとに戻ってきたからその中には私達のことを何かこそこそ話しているものもあったかもしれない。そういう悪い噂話を勝手に語られることは別に良かった。慣れていた。私が席をゆっくり座り直すと、ひかるは静かに目をつぶり、静かに、言った。

「だって、いちか、寂しそうだったもの。いつも一人で本を読んでたでしょ。気丈なふりしてたけど、分かるのよ、そういうの私には。」

 また勝手に人のことを分かったふりをして、何様か!エスパーか!私はもはや止められなかった。

「うそ、私のことなんて全然見てなかったくせに!私なんかより、もっと、もっと楽しい友達いっぱいいたじゃ無いひかるは!」

 ひかるは友達のふりして近づいてきて、でも私を見捨てて他の友達たちを選んだのだ。何度期待させられ、裏切られたことか…。しかし、ひかるは私の叫びを聞くと目を開けて真っ直ぐ私を、しばらく見つめてから静かに、すらすらと、言い出した。

「見てたよ。三年間でたしか百十冊ぐらい読んだでしょ。ハインラインとかフィリップ・K・ディック。クトゥルフとか北欧ものとか。村上春樹とか。ワーズワースとか世阿弥とか。フォスター、ドストエフスキー、あとプルーストは何度もずっと読んでたよね。」

「❕… ❕… ❕…」

 私はレストランのテーブルのチェアから転げ落ちそうな気分と姿勢になりながら、言った。

「わ、私、私、寂しくなんか無い…、私は分かってほしくなんか無い…、私は泣きたくなんか無い…。」

 私はもはやなにも抵抗できなくなっていた。止められなかった、嗚咽とともに洪水のように溢れる涙を。それらを注ぐとグラスの水がお代わりできそうだった。レストランのアクセントで飾られ飼われている熱帯魚のベタは肺魚であるからこのくらいの水分量なら喜んで生きられるであろう。

 レストランは再び静寂の魔法をかけられたかのように静まり、水槽と空調の音、オープンテラスの外の音だけが聞こえており、お客さん全員から聞き耳を立てられ注目を浴びていたようだったがそんなことはどうでも良い、私は涙が止まらず嗚咽が止まらずそのせいで反論の声も出せず、しかも力が抜けてその場に崩れるように倒れそうになったから、ひかるに介抱されて、そのまま退店して、それからその日のことは、あまり覚えていない。ただ、その時ひかるは私を抱き起こしながら私の耳元で、こう囁いたことを覚えている。

「いちか、好きなことを言っていいの。好きな人に、好きと言っていいの。相手が誰であっても。結婚していたとしても。私が言いたかったことはそれだけなの、ごめんね、いちか、ごめんね…。」

 この言葉は、深く、記憶に残っている。

エピローグ

 その後1ヶ月が経つが、御影先輩からのメッセージはあれからは無い。ひかるからもメッセージは届いていない。でも私の頭は混乱しっぱなしだ。オフィスでも、ふと考え込んでしまい、仕事がなかなか手につかない。どうしてくれる。それも、浮かんで来るのは柄にもないジャンルばかりの禅問答が大半だ。私はあれ以来、禅問答設問者としての才能が開花したようだ。

(私の幸せってなんなのだろう。これから幸せが訪れたりするのかな。それを認識して認定できるかが、私のせいしんの問題なのであるが。)

(女はやはり結婚して子供をもうけることが幸せなのかな。それは、好きな人とそうあるべきか。経済力などあり向こうがこちらを好きでいてさえすればよく、利用すればよいという戦略もあるか。はたまた、両思いであることが重要で、それであれば貧しくても良いか。あるいは、好きという気持ちは両思いでも、いろいろと許せないところもあるという関係もあるが、そういうのはいかがか。)

(幸せを理解しない、また理解を認めようとしないせいしん、そういう私が変われるのか、それが問題だ。それは分かってる。でも私が変わってしまったらそれは今の私の課題をクリアしたことになるのだろうか。)

(好きだから結婚するのか。結婚してから好きになるのか。あるいは、結婚した人を好きになるのか。あるいは、結婚などされて、振られてから本当に好きだったと理解したりするのか。…。)

 禅問答を一人で問答しても、うまい答えはなかなか見出せなかった。

 もう夏は真っ盛りで、遠慮なく陽は街に照りつけて、私は仕事は脇において膝をついて窓の外を眺めていた。最新のオフィスビル、高層階なので遠くに東京タワーも見えている。もうじき一年で最も寂しい気分になる時期、お盆がやってくる。特にすることがない休日を会社から有り難く頂くことになるが、一つやることがある。実家に帰り、お母さんのお墓に手を合わせるのだ。それがすごく寂しい気分にさせられる。思えば、私の人生は寂しさだけで出来ていると例えるとかっこいいかも。これ、今度のCMのコピーに使えるかも。などと考えていると、同僚の田中が差し入れでオフィスの無料ベンダーのアイスコーヒーを持ってきてくれた。で、満面の笑みでまたディズニーランドに彼と行って来た話を弾丸のように喋るのを強制的に耳に入れられたので、感傷的な気分を自己憐憫で楽しんでいたのにちょっと残念な休憩時間になってしまった。

 でも、そういえば、と私は考えた。

 ディズニーランドはイクスピアリまでしか行ったことがない。イクスピアリとは、ランドの園外近くにある、ディズニーのお土産専用の大きなショッピングモールだ。内外観はそれなりにディズニーぽい雰囲気、ということらしいのだけれど、そこまでしか行ったことがない私はその真実の整合性は知る由もない。高校入学直後に、男子から告白され、断らない性格の私はおデートとなり、イクスピアリで待ち合わせてから一緒にディズニーに行く、という約束を騙されて、イクスピアリで何時間も待つ私を激写されてクラスの笑いものになったのだ。まあそれについては最早どうでもいい。そうだ、ディズニーランドが本当にオトナ女子でもはまるほど楽しいところか、確認しないといけないな。そうだ、今度御影先輩をディズニーランドに誘おうかな。イクスピアリでは無い本物のディズニーに。シーにも行きたいな、夜のディズニーパレードとシーの海のナイトショーとやらを見なきゃ。そしてきっと、こんなに楽しい世界があることを知らなかった自分に驚くんだわ。先輩はひかると行ったことがあるのか、無いのか分からないけど、ディズニーなんたらよりも、きっと普段より感情あらわに驚く私を見て楽しんでくれるのではなかろうか。そして疲れて、公式アンバサダーホテルに二人泊まるの。

 いいかも?きゃー!私は妄想で有頂天になった。その時、窓辺の席で浮かれている私の肩を背後から誰かから叩かれたから振り向くと、年配・定年前の上司がそこに居て、「君は…」と聞かれたと思ったので咄嗟に「はい、いちかです。」と答えてしまったが、上司の言葉には続きがあって「会議に出席するんじゃなかったのか。とっくに始まっているのだが」、だったので、注目して見ていたオフィス内の周囲の十数名による大爆笑となってしまった。恥をかくのは大嫌いな私なはずだったが、なぜか、楽しくて、一緒に笑ってしまった。そしてあろうことか、何故か同時に泣き出してしまったので変な泣き笑いとなってしまった。笑いは収まり、今度はただ泣いてる女となり、嗚咽がとまらなかった。皆、それに気づくと心配そうにこちらを遠巻きに眺めていたが、介抱してくれたのはその上司と、駆け寄ってきた田中だけだった。私が涙した理由は、今もって謎である。多分一生分からない。いや分かっている。

 私の一生にはメリーバッドエンドしか無いのだ。

 確定したのだ。

 ところで人前で恥ずかしい思いをすることは昔は許せなかったけれど最近は慣れてきた。それに、この会社で私が泣き虫なのはもうばれているので、まあ。

§

 どんなエンディングが好きかと問われたら、普通ハッピーエンドが好きに決まってるでしょ、と言いそうなものだけど、そんなこと言ったら彼はきっとこう言うでしょ。

「人生にハッピーエンドなんて無いだろう。」

 って。人はいずれ死ぬ、その時家族に囲まれていようが、それまで幸せだったかに関わらす、結局は化学的絶命の時一人で死ぬと言いたいのだろう。でも私はこう言うの。

「メリーバッドエンドは好き。私は、幸せが何か分からないし、だからといって不幸だと思ったこともないし。このまま死ねたら良いのにな。そしたらそれはメリーバッドエンドでしょ?なんだか素敵じゃない?」

  って…。

Fin.

betalayertale 
2022/6/19 
26749文字

楽しい哀しいベタの小品集 代表作は「メリーバッドエンドアンドリドル」に集めてます