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足湯にて

 足湯に入っている。場所は警固公園横の警固神社だ。この神社では無料のサービスとして、足湯を午後4時まで開放しているのだ。土日ともなると、時には定員いっぱいまで足湯は埋まってしまうが、あいにく(?)今日は平日である。真っ昼間から神社後ろから覗く近代的なビルの景色を見ながら、足湯を独占するのは中々の心地だった。こんな時間の使い方も出来るので、無職というのも悪くはない。

足湯。ちょうどいい温度。

 ところで、無職になってからというもの、案の定社会人ではしっかり正しく刻んでいた生活リズムとやらも乱れ、気持ちも大学生の頃と変わらなくなってきた。こうした時間の使い方で若かりし頃(と言っても大学院修了からまだ2年しか経っていないが…)を思い出すというのも面白い。そういえば、友達などあまり多くは無かったので、大学生の時点でほぼ無職のような行動パターンであったように思う。だからこそ、こうして悲壮なはずの無職時間をマッタリ過ごせるのかもしれない。
 大学生、特に大学院生の時代は行く先々で老人・無職たちと遭遇していた。スーパーのイートイン、図書館、自治体の映画上映会、大学の公開講座、無料の試食会、等など。思えばそこで見かける老人・無職には変な奴らが多かった。言葉さえ交わしはしなかったが、心の奥底では通じ合っていたのか、私は密かに彼らに共感したものだ。というより、暇を持て余しすぎると人間は似たような場所に集まるに違いない。
 こうした大学院時代の思い出はしばしば苦々しいエピソードを伴って思い出される。全く勉強をしていなかった修士論文の研究についてである。詳しい経緯は省くが、教授にめちゃめちゃ睨まれ、プレッシャーと孤独感から、ある焦燥感が常に付き纏っていたのだ。社会人になると孤独に勉強したこの思い出に、一種の懐かしさが感じられるようになったのだが、当時の私はとにかく必死だった。良い思い出というものは、大抵が何かを一直線に目指した過程の上に存在するのだ…。

 現在の私は必ずしも良い状況とは言えない。会社はパワハラで辞職したも同然で、つい先日だって内定取り消しを食らったばかりだ。今まさに、私の状況は大学院時代のあの頃に戻っているのだろう。人間は「語る」ことで過去に意味づけすることが出来るのだという。これだけだと、何となく、後付の言い訳とも取ってしまいかねない危うさがあるが、人生において非常に重要な構造だということは間違いないだろう。また私も今日という日を懐かしむ日々が来るのだろうか。足湯に浸かり、天神のビルがみえるこの景色に、何かしらの意味を見出すのだろうか。まだ私は考えています。

足湯場から



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