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ヨーロッパでもアジアでもない食堂

あれはどこの劇場だったのか。テーブルには花柄のクロス。サリャンカと呼ばれるトマトとソーセージの刻んだものが入っている酸っぱいスープ。それに黒パンを浸して食べる。食堂のおばちゃんは無言でヨーグルトをテーブルに置く。それをスープにかけろと目で言っている。酸っぱいスープはさらに酸っぱくなって病みつきになる。その魔法のヨーグルトは、スメタナと呼ばれるサワークリームで、ここの人たちはたいてい、何にでもこれをかけて食べることを知るのは、後になってからだ。そう、ここはロシアのどこか地方の劇場だ。

大道具係のおじさんが、山盛りのチャーハンを食べている。美味しそうにそれをビールで流し込んでいる。今はまだ昼休み。この後も舞台の仕込みは続くのに、ビールを飲むのはありなんだと感心する。私のテーブルにも誰かがビールを運んでくれた。それはビールなどではなく、クワスと呼ばれるライ麦を発酵した清涼飲料水だということを知る。羊の肉と野菜を刻んだ油たっぷりの炊き込みご飯がプロフと呼ばれ、それがウズベキスタンのご馳走料理であり、ロシアではよりポピュラーな形で提供されるチャーハンみたいなものだと知るのは、もちろん後になってからである。ちなみに隣のテーブルでは、なんと水餃子を食べている。これは比喩ではない。どう見ても水餃子だ。どこかのアジアの食堂に迷い込んだのかと思いきや、やはりそこはロシアだった。さっきのおばちゃんがまた例のヨーグルトを差し出している。スメタナをかける水餃子をこの土地では、ペリメニと呼ぶらしい。もしこれに醤油をかければ水餃子と呼んでも全く差し支えないことを知るのは、モスクワ芸術座に併設されたレストラン、その名も「カフェ・チェーホフ」で、ついにこのペリメニなるものにスメタナをかけて、スプーンとフォークで格式高く食した時だが、その思い出はまた今度にしよう。

とにかく私のテーブルには、酸っぱいスープがあった。それにスメタナをかけて黒パンをひたす。黒パン自体もまたほんのり酸味がある。私のロシアでの味覚の原点はこの酸っぱさになった。今でもテーブルの上のイメージだけ鮮明に覚えている。そのせいか他の記憶が曖昧でもある。いまだにあの劇場がロシアのどこの地方だったのか思い出せない。私にとってロシアという場所は、決してヨーロッパではないと感じたのも、あの食堂の体験が大きい。かれこれ10年以上にわたって毎年のようにロシア公演を繰り返すようになったのも、不器用でどこか人懐っこい感じ、素朴でいてどこか酸っぱい感じに惹かれたからなのかもしれない。

ヨーロッパでもアジアでもない奇妙な場所だ。よく思い出せない劇場の、その食堂の壁には、一枚のポスターがあった。ひとりの紳士がレストランのテーブルに座っていて、グラスにウォッカを注がれようとしているところを『ニェット!』(飲みません!)と手で遮って断っている絵だ。このポスターは、ソビエト時代の禁酒キャンペーンで政府が使用した有名なものらしい。壁にあるそのポスターは、よく見ると『ニェット!』の文言の後に「稽古が終わるまでは!」と付け足してある。つまり「飲みません!」「稽古が終わるまでは!」となっている。裏を返せば、稽古が終わったら飲むということであり、あるいは稽古中にも飲んでしまっている、という何とも言えない皮肉にもなっている。今、思うと、あの大道具係のおじさんが美味しそうに飲んでいたのは、クワスなどではなく、やはりビールだったのではないだろうか。もちろんあの食堂にアルコールが置いてあったかは、全く覚えていない。

三浦基

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