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〜ハプスブルク伯ルドルフ4世(ルドルフ1世)以前のヨーロッパ史〜

『ハプスブルク帝国』を読んでいて、西ローマ帝国〜神聖ローマ帝国建国までがあやふやだったのと、記憶に残したいと思ったのでnoteに書いときます。勿論紙のノートにも書きますよ。

巨大帝国の滅亡と王国の誕生、そして帝国へ

かつて広大な土地を支配したローマ帝国が2つに分裂し、その一方の帝国「西ローマ帝国」が傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた(※1)後のヨーロッパ。
その頃、ゲルマン人の中で台頭した一つの国家があった。フランク王国である。

フランク王国はクローヴィスがアリウス派からアタナシウス派に改宗(※2)し、ゲルマン人の各部族を統一後、ガリア(現在のフランス)北部に建国した王国である。カール大帝(仏:シャルルマーニュ)の治世のと'き、最盛期を迎えた。

カール大帝はイタリア北部のランゴバルド王国を征服。イベリア半島ののイスラーム勢力と戦い、ピレネー山脈のふもとあたりまで侵攻。東はドナウ川まで達し、西ヨーロッパ全域を支配したのであった。
そして800年、彼はサン・ピエトロ大聖堂でレオ3世からローマ皇帝として冠をいただいた。(※3)「ローマ帝国を統べる皇帝」となったのである。(図1)

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【ジャン・フーケ 『カールの戴冠』Wikipediaより】

カール大帝の死後、王国の慣習と権力闘争(※4)の結果、843年のヴェルダン条約では西フランク王国、中央フランク王国、東フランク王国の3つに分裂。870年のメルセン条約では西フランク王国、イタリア王国、東フランク王国に。これが現在のフランス、イタリア、ドイツの基礎となった。(図2)

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【図2:ヴェルダン条約及びメルセン条約で分割されたフランク王国。Wikipediaより。(緑が西フランク、黄色が中央フランクまたはイタリア王国、オレンジが東フランク)】

その3つの中の東フランク王国(ザクセン朝)はオットー1世のとき、レヒフェルトの戦いでマジャール人を撃退(※5)した。この戦いの結果、オットー1世はキリスト教世界の守護者として名声を高め、962年に、ときのローマ教皇ヨハネス12世からローマ帝国皇帝の冠をいただいたのであった。「カールの戴冠」の再現である。これによりオットー1世は神聖ローマ帝国初代皇帝となった。(※6)
当時は神聖ローマ帝国という名前ではなく、ドイツ王国または王国と呼ばれていた。以後帝国と呼ばれたり、神聖帝国と呼ばれたりした。

また、この「神聖ローマ帝国」は「ローマ帝国」とは直接的なつながりはないものの、理念的にはローマ帝国、ひいてはカール大帝が築いた帝国の後継国家なのである。しかし、古代ローマ帝国のような皇帝が強い権力を持っているのではなく、内部の諸侯の支持を必要としていた。

余談
(この頃の神聖ローマ帝国はドイツとイタリア、そして1032年からはフランス南部でマルセイユにほど近いブルンクトの3つの王国の王を兼ねていた。また、東方には異民族などの流入を防ぐために辺境伯領を設置していた。
オットー1世の父であるハインリヒ1世はフランク王国分裂の原因の一つでもあった分割相続を否定し、帝国の分裂を防いだ。)


イタリア政策と叙任権力闘争

その後の神聖ローマ帝国は世襲制を行った中世盛期の三王朝時代(ザクセン朝、ザーリアー朝、ホーエンシュタウフェン朝)に突入した。
この三王朝時代から「イタリア政策」がたびたび行われた。普段、ローマ皇帝位はイタリアのローマ教皇が持っており、それをドイツ王国の国王に譲るという形で戴冠する制度だった。
その結果として歴代の神聖ローマ皇帝たちは、イタリアの支配権の確保をしようと目論んだ。
この政策はダンテやペトラルカなど、当時のイタリアでも希望する人が多かったとされている。特にダンテは『神曲』でイタリアにあまり関与しなかったハプスブルク家の皇帝たちを「欲得に目がくらみアルプス以北に気を奪われ、帝国の庭(イタリア)を荒れるがままに放置した」とまで非難している。

そして、「叙任権闘争」が発生する。
叙任権闘争以前には世俗的な神聖ローマ皇帝が自分に都合の良い教皇をすえるなど、聖職売買が横行した。クリニュー修道院を中心とする改革派はこれを問題視し、禁止を目指した。
1075年、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世はローマ教皇グレゴリウス7世の「世俗的権力による聖職者の叙任権」を否定し、グレゴリウス7世によって破門されてしまった。
これにより国内の諸侯たちの支持を得られなくなり、統制が難しくなってしまった。困り果てたハインリヒ4世は1077年1月、カノッサ城にいる教皇グレゴリウス7世に面会を求め3日間雪の中素足で立ち続けた。そしてようやく教皇から破門を解いてもらうことができた。これが「カノッサの屈辱」である。(図3)(※7)
この出来事の結果、教皇権が増し叙任権力闘争が活発化。これが一因となり、後に十字軍が行われることとなる。

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【図3:カノッサの屈辱 Wikipediaより】

選挙による皇帝

ローマ皇帝位を選挙することができる有力貴族や司教、つまり選帝侯は1198年に教皇インノケンティウス3世がホーエンシュタウフェン朝とヴェルフ家のローマ皇帝位争いに「四人の選帝侯の賛同が不可欠である」としたことが始まりである。
これらの勢力は大空位時代(1250年〜73年)に拡大し、最終的には9者に拡大した。彼らはこれ以降、王と共に国政を担うようになる。
また大空位時代は暗黒時代ではない。ドイツ国内の社会状況が悪化せず、逆に経済活動が活発化している。
しかし、この状態ではまとまりが欠き、王権の存在が重要視された。それと同時に教皇グレゴリウス10世は1273年、新たな十字軍遠征を行うために強い王を求めた。
これに名乗りを上げたのがフランスのフィリップ3世とチェコのオタカル2世である。

そう、ここにはハプスブルク家のルドルフ4世がいないのである。

ではなぜルドルフ4世が神聖ローマ皇帝になることができたのか?
この続きを次回(?)にしようと思う。

※1:傭兵隊長オドアケル

オドアケルはゲルマン人の傭兵隊長で西ローマ帝国を"滅ぼした"と書いているが、正確に言えば「西ローマ皇帝を廃位させた」だけである。
その後、彼は自らローマ皇帝になろうとはせずにパトリキ(古代ローマにおける貴族の地位)として10数年間イタリアを支配したが、東ローマ皇帝がゴート人のテオドリックを差し向けた。オドアケルは連戦連敗しラヴェンナに逃げ降伏する。そしてテオドリックをラヴェンナ城へむかえ宴会を行うが暗殺されてしまう。

※2:クローヴィスの改宗

コンスタンティヌス帝が開催した、325年のニケーア公会議でアリウス派(イエスは人であるとした考え)は異端であるとし、アタナシウス派(イエスは神の子であるとした考え)が正統なものとなった。
そして、アリウス派はローマ帝国から追放され、彼らは主にゲルマン人たちに布教していった。その結果、ゲルマン人はアリウス派が多く、統治するのが難しかったと見られる。
しかし、クローヴィスがアタナシウス派に改宗したことによってゲルマン人の部族の中で唯一のアタナシウス派の王となった。
(これには当時のローマ教皇には西ローマ帝国が滅亡したために政治的な後ろ盾がいなかったので、まだ改宗していないクローヴィスに目をつけ接近、改宗に成功したという側面もある。)
これにより周りの異端者たち(ゲルマン人など)を征服するという大義名分が出来たため、勢力拡大が容易になった。

P.S.ニケーア公会議以後、アタナシウス派は「三位一体説」というものを基軸にしていく。これは以後のキリスト教世界に広く受け入れられた。
三位一体説とは、神はそれを父とするイエスと聖霊の三つの面をあわせ持つ、平たく言えば「神=イエス=聖霊」となること。(←まぁ、少し違うが。

※3:カールの戴冠

この「ローマ皇帝」は"正統なローマ帝国からの継承国家"の東ローマ帝国・東方教会から見れば「ローマ皇帝を僭称するゲルマン人」であり、到底認められるものではなかった。
しかし、カール大帝は自分がローマ皇帝であると承認させるため、東ローマ帝国に使者を送った。
そして、東ローマ帝国の女帝エイレーネーは東西統一のため、彼女とカール大帝の婚約まで提案したのである。(だが、エイレーネーはこのあとのクーデター(802年)で失脚したのでこの縁談は無くなってしまった。没年803年レスボス島にて。)
が、エイレーネーの死後の812年には東ローマ帝国の承認を得た。

※4:フランク王国の分割と権力闘争

フランク王国の初代国王クローヴィスはフランク族の風習で"分割相続"しなさいと言い残して亡くなった。その結果、クローヴィスの息子四人は王国を4分割しながらも、拡大を続けたのである。
そして、カール大帝が王国の版図を拡大後またもや分割相続しようとしましたが、やはり王国は分裂し、そこから戦争に発展してしまいました。
843年に講和を結び、そこで生まれたのが西フランク、中央フランク、東フランク王国なのである。

※5:マジャール人

このマジャール人とは現在のハンガリー人のことである。レヒフェルトの戦い後、神聖ローマ帝国の東側にハンガリー王国を建国することとなる。
この「ハンガリー」というのは英語よみで、現在でもハンガリー人は自分たちのことを「マジャル人」と呼んでいる。

※6:神聖ローマ帝国の起源

神聖ローマ帝国の始まりはカールの戴冠が始まりだとされている説やオットー1世の戴冠を起源としている説などがある。
いずれにしても、発生当時の神聖ローマ帝国は「帝国」ではなく「王国」であった。
それが11世紀から12世紀にかけて東フランク王国のあった領域を「ドイツ」とする意識が浸透した。
なので、本によっては神聖ローマ帝国のことをドイツ王国と表現するものもある。

※7:逆襲のハインリヒ4世

このカノッサの屈辱後、ハインリヒ4世は復讐の機会を狙い、数年かけて力を蓄えた。
その間に反皇帝派の諸侯たちが独自にシュヴァーベン公ルドルフをドイツ王に迎え、ドイツ国内に二人の国王が対立することになってしまった。
当然ハインリヒ4世は攻撃を加え、1080年の戦いには負けたものの、ルドルフが負傷しそのまま死去。天命をうけたハインリヒ4世はローマを包囲し教皇クレメンス3世を擁立し戴冠した。一方、グレゴリウス7世はローマを脱出し、サレルノで亡くなった。
その後は彼の息子のコンラートとハインリヒ5世と順に戦うこととなる。ハインリヒ5世に廃位され、1106年、ハインリヒ4世は破門の身のまま亡くなった。

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