その車いすカッコいいじゃん、と言える社会が、目指す理想だと思う話。

 そのメガネ、新しくしたの? いいじゃん。

 ということを言ったり言われたり、耳にしたことがあるだろう。

 この状態を様々なことに平行移動させると、『その車いすどこで買ったの? どこのメーカー?』『その松葉づえ、軽くて取り回し良い?』『そのシルバーカー、容量や小回りは効く?』と言うことが出来る。

 こういう言い方を実際にすると、ひどく不遜な顔をされるだろう。

 ここに、バリアフリーの概念の、一つの壁があると思う。

 バリアフリーの概念は、なかなかその実像を形成することが難しい。というのも、考えすぎて困ることがないからだ。人の数だけ抱えている問題の種類は千差万別だ。あらゆる人間の抱える事情に対応できる環境を考慮すると、地球の面積が何個あっても足りないだろう。

 また、「歩み寄っていただけませんか」と言うのも、若干はばかられるだろう。ここに双方のバリアフリーの概念のズレがあると思う。

その概念の程度がどれくらいになればいいか。

 メガネくらいになれば良いと、メガネユーザーとして思う。

 健常者はメガネを障害者だとは思わないし、車いすや松葉づえ、盲導犬や白杖その他たくさんの器具を用いて日常生活を送る人も、メガネを障害者として考えている節はあまり見受けられない。

 車いす(中略)他多数が、それくらいの程度になれば良いなと思う。

 もっともな話、その概念はずいぶん広く議論され、敷居も低くなってきたことは明らかだ。教育や法律、もっと大きい世界的な取り組みによって、社会はかなり生きやすくなった。

 かなり生きやすくなった根拠が、『キャリーケース』だ。

『バリアフリーの概念』とは書いたが、それから派生する、『バリアフリー性(アクセシビリティと呼ぶのが本来だが、和製英語として定着したバリアフリーと、それに基づくバリアフリー性とあえて書く)』とがあることを留意してもらいたい。

 概念としての考えと、実際に実現したバリアフリー性は、後述する話によって、また別の問題だからだ。 

 一昔前、キャリーケースが用いられるのは主に空港で、それは空港そのものが水平を描いていなければいけないことに対するお釣りとして、併設するターミナルの床がフラットだったからだ。

 近年、駅舎そのものは騒音対策のための高架化などによって高低差が激しいものの、その周辺は再開発によってバリアフリー性が高まり、あらゆる場面から小さな段差がなくなりつつある。歩道も広くなり、エレベーターやエスカレーターなどは法律によって設置が義務付けられるようになった。もっとバリアフリー性が向上、刷新していけば、ガラガラゴロゴロという音も、おそらくしなくなるだろう。

後述する話』というのは、このガラゴロ音のことだ。なぜ鳴るかといえば、床に小さな段差があるからだ。街へ出れば、どこにでもある風景だが、バリアフリーによってなくそうとしている段差を、せっせと規則正しくそこに埋め込んでいるのだ。バリアフリーの概念と、バリアフリー性の乖離とが、社会の中に実態をもって現れてくる。

無題

 Googleで【レンガの歩道】と検索した画面の画像だ。

 ただ意匠や見栄えのために、白黒のタイルや、色味の異なるレンガを床に敷き詰めて、床も建物のビジュアルであるという考えによって、小さな段差が街のそこかしこにあふれている。

 実際に車いすやシルバーカーでこのタイルや歩道の上を行き来すると、かなりのストレスになる。健常者が無意識のうちに、両足で踏ん張って車いすを自力で動かしてなお、かなり段差を越えているなと実感するレベルだ。

 これはまだ、健常者側のバリアフリーの概念に成長の余地が残されているということだろう。

 それはそれでいいと思う。

 最初から完ぺきなことなんてないし、何事もそうしてちょっとずつ良くなっていくものだからだ。

 一方で、メガネはかなり――悪い意味で特別視されている。

 メガネが障害者のかけるものだという認識が、すでに社会にない。優先座席のピクトグラムにもメガネはない。眼球一センチのところにガラス板を立てておかなければ、日常生活がままならない人たちがいて、けれどもそういう人たちに対する社会の認識は、車いすや松葉づえ、白杖や盲導犬とは、かなり異なる。

 大昔、学童保育に通っていた時分、「やいメガネザル」と、突然いわれのない中傷をしてきた低学年の男の子をボッコボコにしてやったことがある。するとなぜかこちらが非難され、謝罪を強要された。

 これをメガネ以外の何かに置き換えた時、両者の間に必要なのはボッコボコにしてやった者への叱責ではなく、中傷をしたものへの教育であることは間違いない。

 それくらいメガネは、社会にとって低く見られている。

 学生時代、福祉の仕事がしたいと言った同級生に、「ぼくも障害者だからね」と言い、不思議そうな顔が返ってきたのでメガネを指さしたところ、さらに奇妙なものを見る白い眼を向けられたこともある。

 それくらいメガネは、社会にとって低く見られている。

 ただ、これは、メガネというもののバリアフリー性が非常に高いからだろう。社会の様式に関わらず、自己完結することがなにより大きい。

 古い文献には10世紀ごろからガラスレンズ越しにモノを見る概念が登場し、望遠鏡などに用いられて、人類の版図や学術の拡大に大きく寄与することになった。まもなく人類の視力に転用されるようになり、その存在はテレビや自動車、飛行機などと同じくらい、ありふれたものとなった。

 この『ありふれ』が、バリアフリーの概念が目指す一つの答えなのではないかと思う。

 そのありふれのためには、たまごが先かニワトリが先か、バリアフリー性の高い社会が必要になってくる。

 車いすの人や白杖の人、盲導犬やろう者の人が、自由意志によって行きたいところへ行ける環境を作ることで、世に対するありふれの度合いが少しずつ高まっていくことだろう。

 しかしながら、意図してメガネの人を作り出すことも、車いす(中略)他の人を作り出すことは、当然ながら不可能だ。ありふれの度合いを高めることは難しい。

 だからこそ、バリアフリーの概念によって、そういう人がいることを当然だと思う必要がある。

 とはいえ、かしこまってなにをする必要もない。メガネの人がいて何か手助けをしなきゃと思うことはないだろう。それくらい、ああ車いす(中略)の人がいるなあと思うだけで、バリアフリーの概念は高まっていくことだろう。もし手助けが必要そうであるなと思うなら、さらにその概念は高まっていくことだろう。

 そうして概念と、必要に応じてバリアフリー性の高い社会構造とを作っていけば、それはすなわち健常者にとっても生きやすい環境になる。キャリーケースに限らず、案内板の文字の大きさや配色、音声アナウンスや案内板の内容を床に記すなど、バリアフリーの概念の行き届く余地はまだまだ残されている。

「その車、かっこいいね」「でしょう?」

「そのバイク、かっこいいね」「でしょう?」

「そのメガネ、かっこいいね」「でしょう?」

「その車いす、かっこいいね」「でしょう?」

 と言えるくらい、バリアフリーの概念が高まれば、歩き始めた子どもから、人生の週末を迎えた年よりに至るまで、生きやすい社会になることだろうと思う。

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