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この一枚 #14 『Riptide』 ロバート・パーマー(1985)

80年代を過ごした人なら誰もが目にしたMTVがあります。それがロバート・パーマーのAddicted to Loveのビデオ。パーマーのバックでクネクネと踊る美女たち。その効果もあり初の全米1位となります。今回は1985年発売の『Riptide』を取り上げつつ、パーマーの数奇な人生を辿ります。


MTVが席巻した80年代

CDが誕生するのが1983年。
自分が最初に買ったCDが『フィル・コリンズIII』(No Jacket Required)。1985年のことでした。
今回は同じ年にリリースされたロバート・パーマー(Robert Palmer)の『Riptide』を取り上げます。

ロバート・パーマー(Robert Palmer)の8枚目となる『Riptide』

1981年にはMTVも開始し、時代を席巻しますが、パーマーもMTV時代の寵児として持て囃されるのです。

「恋におぼれて」という邦題のAddicted to loveのビデオ

日本でも84年から「The Popper’s MTV」(ザ・ポッパーズMTV)が洋楽のミュージックビデオを紹介する番組として、TBSの深夜に放映開始され、自分の音楽の嗜好もこの番組に洗脳されて行くのです。

ザ・ポッパーズMTV

バハマを愛したロバート・パーマー

前回の『Remain in Light』(1980)の記事で、バハマでのトーキングヘッズ とロバート・パーマーの縁について紹介しました。

ロバート・パーマーとクリス・フランツ

パーマーがゲスト参加した返礼で、トーキング・ヘッズのメンバーが参加したLPが「Clues」(1980)。その作品はチャート59位に終わりました。

これに先立つ70年代後半に彼はバハマナッソーに移住していました。
彼の母国はイギリスですが、NYに移り、さらにカリブ海の小島バハマに移り住んだのです。
そして、『Remain in Light』も録音されたナッソーのコンパス・ポイントスタジオの真向かいに家を持ったのです。

ナッソーの旧コンパスポイントビーチリゾート

そこで録音されたのが、「Secrets」(1979)でそれ以来彼のアルバムはナッソー録音となります。
そして近所だからか、ひょこっと人の作品にも顔を出しています。
それが『Remain in Light』であり、ジョーコッカーの「Sheffield Steel」だったりします。
パーマーは、コンパスポイントのオーナーでありアイランド・レコードの創業者クリスブラックウェルとかなり昵懇の中だったようですね。
このアルバムからはBad Case Of Loving Youが、14位とスマッシュヒットになります。

その後もバハマに在住しつつ作品をリリースし続けますが、マニア層の人気に留まりセールスも低調で、80年代の前半は冬の時代となります。

Power Stationへの参加

そして、4年が経過し1984年、彼の飛躍のきっかけとなるのが、スーパーグループPower Station(パワー・ステーション)への参加です。
Duran Duran(デュラン・デュラン)のアンディ・テイラージョン・テイラー、さらにChicトニー・トンプソンによって結成されたグループに、パーマーが加わったのです。当時人気絶頂のデュラン・デュランChicのリズムが結合、そこにマニアックな存在ながら圧倒的な存在感を持つパーマーが加わる、稀に見るスーパーグループが誕生したのです。

Power Station

主にニューヨークのパワー・ステーションスタジオで録音された彼らのデビューアルバム。バンド名はこのパワー・ステーション・スタジオに由来して名付けられます。
その後アルバムは、パーマーの本拠地バハマのコンパスポイントスタジオでオーバーダブとミキシングを行います。

シングルSome Like It Hotは85年3月に全米チャートで6位に達し、アルバムもまた6位となり、地味な存在のパーマーの名が全世界に知れ渡るのです。

全米1位を獲得

その勢いで1985年11月にリリースしたのが、パーマー8作目の『Riptide』。
そこからシングルカットされたAddicted to Loveは1986年5月にBillboardチャートで自身初の全米トップ10入りとなり、さらには1位に到達します
そして第29回グラミー賞では最優秀男性ロック・ボーカル・パフォーマンス賞を受賞したのです。
母国の全英シングルチャートでも5位を記録し、自身初の全英トップ10入りとなったのです。
遅咲きの男は齢37にして全米の頂に立ち、スーパースターの仲間入りを果たすのです。

Addicted To Loveのヴィデオは、86年のMTV大賞で最優秀男性アーティスト・ヴィデオ賞を受賞。また、99年に発表されたMTVの歴代ヴィデオ100では、8位に輝くのです。
このスーツ姿に美女の組み合わせが、その後の彼のパブリックイメージともなるのです。

ロボットのような女性モデルたちのクネクネしたフェイク演奏が一世を風靡

その勢いで初来日も果たします。(自分も89年の再来日を中野サンプラザで観ました)

ロバート・パーマーとローウェル・ジョージ

40歳の手前、中年に差し掛かろうとする頃にブレイクを果たしたロバートパーマーはどんな半生を送ってきたのでしょうか?

1949年にイギリスで生まれたパーマーはVinegarJoeを結成。
その後、1974年にアルバム『Sneakin' Sally Through The Alley』でソロデビューを果たします。

『Sneakin' Sally Through The Alley』でデビュー

ニューオリンズ録音を敢行し、何とバックはミーターズ(The Meters)が担当しています。
最高107位と売行きは苦戦しますが、参加メンバーの凄さから、今や伝説的なアルバムとしてマニアの評価は絶大です。
リトル・フィートのカバーSailin' Shoesでは、ミーターズローウェル・ジョージという夢の合体が実現。
前年の73年に「Dixie Chicken」をリリースし、ニューオーリンズに傾倒していたローウェルにとっても願ったりの共演でした。

ローウェル・ジョージとパーマーは親交を深め、「息が合った」とパーマーも語り、Blackmailを共作します。この曲にはリチャード・ティーコーネル・デュプリーゴードン・エドワーズスタッフの面々とバーナード・パーディという豪華メンバーがNew York Rhythm Sectionというタイトルで参加しています。

そしてセカンドアルバム『Pressure Drop』にはリトル・フィートが丸ごと参加し、さらに一時的にリトル・フィートとツアーをしたのです。
これは珍しい! パーマーが歌うWillin

元フリーのアンディ・フレイザーとの友情

1978年の『Double Fun』からはEvery Kinda Peopleが全米チャートの16位を記録するヒットとなり、初のチャート入りとなります。

『Double Fun』からはEvery Kinda Peopleがヒットした

この曲で自分は彼のことを知りますが、作者は何と元フリーのベース奏者、アンディ・フレイザーだったことを後に知ります。

アンディ・フレイザー

「様々な種類の人間が共存して、世の中が廻っている。それぞれ人種は違うけど、人間としての中身は一緒なんだ」といった内容の詩で、今の多様性を先取りしたメッセージです。
LGBTだったフレイザーですが、今とは違い偏見のあった時代の中で、その思いを詩に込めた素晴らしいメッセージとなりました。
その後も曲を提供し、「Clues」にも参加するなど2人の関係は続きました。
フレイザーはAidsが元で2015年に62歳で逝去します。

フレイザーが作曲したAll Right Nowのようにベースラインを強調しており、モータウンで活躍したボブ・バビットがベースを担当しています。

79年にはBad Case of Loving You(Doctor, Doctor)が14 位を記録し、前述のようにバハマに移転したパーマーは新天地で飛躍の端緒を掴むのです。
アルバムは、1979年にビルボードで19位とベスト10アーティストは目前。

しかし80年代前半、アフリカのジュジュなども取り入れた路線はマニアック過ぎて低迷しますが、前述のように84年のパワー・ステーションへの参加を端緒にブレイクを果たします。

バーナード・エドワーズと『Riptide』

パワー・ステーションは録音後にツアーに出ますが、パーマーは参加を拒みます。(元シルバーヘッドのマイケル・デ・バレスが代役で参加、ライブ・エイドでもこのメンバーで参加)
その時間を『Riptide』の録音に充てるわけです。

そしてプロデュースをパワー・ステーションも担当したバーナード・エドワーズBernard Edwards)に依頼します。
バーナード・エドワーズと言うと、ナイル・ロジャーストニートンプソンらと共に結成したChicで知られる伝説的ベース奏者で、ダンスミュージックの重要人物。
Queenのベーシスト、ジョン・ディーコンChicGood timesのベースに影響を受けてAnother One Bites The Dustを作ったことでも知られています。
そしてエドワーズロジャースはマドンナのLike a Virginなど、当時の多くのヒット曲に関与するのです。

バーナード・エドワーズと言うとナイル・ロジャースと言うほど仲良し

本作の録音はコンパスポイント・スタジオ。
殆どのリズムセクションはエドワーズトンプソンというChicのコンビが担当し、Addicted to Loveに至ってはアンディテイラーも参加しており、ほぼパワー・ステーションのサウンドを継承しています。さらにはChicの元ボーカル、フォンジー・ソーントンも参加しています。
1985年11月に『Riptide』はリリースされ、英国アルバムチャートで5位、米国ビルボードでは8位になりダブル・プラチナに認定されるメガヒットアルバムとなるのです。
前作の「Pride」が112位と惨敗しただけに、驚く程の大成功となります。

Wembley Arenaでの大観衆を前にして、Addicted to Loveを披露するパーマー。(1991)

Addicted to Loveとチャカ・カーン

実は『Riptide』からの1枚目のシングルはDiscipline of Loveで82位と不振でした。そして意外にもAddicted to Loveは3枚目のシングルとして、86年になりカットされ大ヒットしたのです。

第2弾シングルのRiptideの映像。1934年に発表された楽曲のカヴァーです。

Addicted to Loveは当初はチャカ・カーンとのデュエットになる予定でした。クラブで彼女に出会ったパーマーは意気投合、さらに「レコーディング中だと彼女に伝えたら、スタジオに来たいと言った。彼女が現れこの曲を一緒に歌った」そうです。
が、当時のレコード会社が彼女にパーマー所属のアイランド・レコードからのリリースを許可しなかったのです。
そのため、正式音源は彼女抜きでリリースされお蔵入りしました。
その代償でアルバムのライナーノーツにはチャカ・カーンがヴォーカル・アレンジメントとしてクレジットされました。

その後にはライブで共演

これは97年にSatisfactionを2人でデュエットする映像。Vinnie Colaiuta(Dr)、Nathan East(b)、Paulinho Da Costa(Percussion)、Michael Landau (G)、Chuck Leavell(Keyboard)という凄い演奏陣です。

因みに同じアイランドから出た86年のスティーブ・ウィンウッドHigher Loveでは、チャカ・カーンとのデュエットは実現しています。

バスドラムとベース

Hyperactive(A-2)は4枚目のシングルとなり33位にランクイン。
パーマーはバスドラムを重要要素と考えており「間違いなく、トニー・トンプソンはエド・グリーンと一緒に、私が今まで一緒に働いた中で最高のバスドラム奏者だと思います。」と語ります。
Hyperactiveでもトンプソンのバスドラムとエドワーズのチョッパーベースの重低音コンビが響き強烈。

パワーステーションでのベースは、実際はジョン・テイラーではなくエドワーズが弾いていたとアンディ・テイラーが後に暴露しています。この映像ではエドワーズがテイラーにスラップの弾き方を伝授してますね。

IDidn't Mean to Turn You On(B-2)はシェレルのカバーで、これもチャート2位となるヒットとなります。エコーの残響音を極端に切るゲートリバーブが世界中で大流行しますが、トニー・トンプソンのバスドラサウンドもまさにそれで、本曲でも炸裂します。
本作からは5枚のシングルが出て3枚がトップ40入りし1位、2位をも獲得するヒットアルバムとなるのです。

Get It Through Your Heart(B-1)は自作となりますが、ハード&ファンク路線から一転したスタンダード風となっています。
晩年の作風を考えると、タイトル曲もそうですが、彼の本当の趣味はこの路線だったのかなと感慨深いです。

バハマを去る

この大ヒットで大手レーベルのEMIと契約を結ぶことができたため、16年を過ごしたアイランド・レーベルを離れます。そして長年住み慣れたバハマを去り、スイスのルガーノに定住することになります。
長きに渡る盟友アイランドの総帥クリスブラックウェルとも離れます。

クリス・ブラックウェルと

1988年移籍後の1作目「HeavyNova」は13位、シングルSimply Irresistibleは全米2位、She Makes My Dayは英国で6位となり、移籍は成功に思われます。が、それ以降はヒットには恵まれませんでした。

1995年には、パワーステーションとしてのセカンド・アルバムをレコーディング。 ジョン・テイラーは参加せず、バーナードエドワーズが代役となります。
その後1996年、エドワーズはナイルロジャースと共に「JTスーパープロデューサーズ'96」に参加するために来日します。
しかし、ホテルの部屋で亡骸となったエドワーズがロジャースによって発見されます。死因は肺炎でした。

そして2003年9月26日ロバート・パーマーは、パリのホテルで心臓発作により54歳で亡くなりました。
腹上死という噂もあります。

90年代に入りパーマーの足跡を追い、バハマを訪ねたことがあります。
NYより空路で約2時間と意外に近いものでした。コンパスポイント・スタジオも訪ねてみましたが、想像に比べて閑散として幻想は崩壊しました。
カジノで遊んだがお金を失い、苦い訪問となりました。

コンパスポイントスタジオ

ロバート・パーマーの足跡

最後にロバート・パーマーの足跡を辿るプレイリスト20曲をまとめました。
1と5はリトルフィートのカバー。2はローウェル・ジョージとの共作。3と7はアラントゥーサンのカバー。初期のパーマーはニューオリンズ色が濃厚でした。
4はジェイムス・ジェマーソンが、6はボブ・バビットがベースを担当し、モータウン好きも伺えます。18はマーヴィン・ゲイのカバー。
6と9はアンディ・フレイザーの曲です。
8から12はバハマで録音され、ワールドミュージックとNew Waveが融合した先端的な音が目立ちます。13から17でセールス的には最盛期に。
19はUB40とのコラボレーション。
20は遺作「Drive」(2003)から。最後はブルースカバー。最後に辿り着いたのがブルース(ロバート・ジョンソン)と言うのも感慨深いです。

最後の映像は遺作「Drive」より。ドブロを弾きながら歌う渋いパーマーの姿は珍しく、この路線をもっと観続けたかったなと思いました。
スーツに美女という仮初めの虚像を脱ぎ捨てた、リアルな姿があります。

1982年バハマの自宅にて
Robert Palmer 1949年1月19日 - 2003年9月26日


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