この1枚 #10『Just A Stone’s Throw Away』 ヴァレリー・カーター(1977)
ヴァレリー・カーターという女性シンガーのデビュー作『Just A Stone’s Throw Away』。ウエストコーストロック最盛期に、ジャクソン・ブラウン、リンダ・ロンシュタットなど錚々たるミュージシャンのコーラスとして活躍した彼女。ローウェル・ジョージとモーリス・ホワイトと言う鬼才2人がプロデュースした知られざる名盤です。
スティーヴ・ウィンウッドに歌われたヴァレリー・カーター
1987年にスティーヴ・ウィンウッドがリリースしたValerieという曲。
これは今回の主人公であるヴァレリー・カーター(Valerie Carter)に捧げられたものであるそうです。
デビューから10年経過し、2枚のアルバムを残したまま作品が途絶えていたヴァレリー・カーターを惜しんだ歌なのだそうです。
当時、ウィンウッドの作詞をしていたウィル・ジェニングスは、「ヴァレリーは実在の人物ですが、その身元は明かしません。彼女はその職業においてほぼ世界のトップにいたのに、それを忘れ去っていました。彼女は大切な友人でした」と語った。
ジェニングスは後にグラミーとアカデミーを受賞し、クラプトンのTears in Heavenなど多くのヒット曲を持つ作詞家です。そんな彼にそこまで言わしめるヴァレリー・カーターとはどんな女性なんでしょうか?
ヴァレリー・カーターのソロ・デビュー作
今回紹介するのは、ヴァレリー・カーターのソロ・デビュー作『Just A Stone’s Throw Away』(1977年)になります。
アルバムチャート最高位182位とセールス的には振るわない本作ですが、本人はミュージシャン仲間からは熱烈的に支持を受け、本作もお宝的な名盤として継続的にマニアからは垂涎のまととなっています。
長年、探し求めていたこのアナログの中古盤にPied Piper Houseで出会い、迷わず即買いしたのです。
ジャクソン・ブラウンに追悼される
自分が彼女について知ったのは、本発売時のレビューでしたが、実際にアルバムを聴くまでには至りませんでした。
1977年はウエストコーストロックの最盛期。翌1978年にはニコレット・ラーソンがデビュー、1979年にはリッキー・リー・ジョーンズがデビューと、リンダ・ロンシュタットやジョニ・ミッチェルなどに続く次世代のミューズ達が次々と現れた頃。その中で埋もれてしまった感があります。
そして数十年が過ぎ去り1994年、渋谷公会堂で開催されたジャクソン・ブラウンの来日公演に同行し、Love Needs A Heartをデュエットした彼女を観て、久しぶりにその名前を思い出したのです。
さらに2017年のジャクソンの来日、この公演ではトム・ペティ、グレン・フライと直近に逝去した旧友たちの追悼として曲が歌われ、この年に逝去した彼女への追悼としてLove Needs A Heartも歌われたのです。
Love Needs A Heartは本作と同年にリリースされた「Running on Empty」に収録され、彼女とジャクソン、そしてローウェル・ジョージの共作となります。
そして2018年には未発表曲が集められた「The Lost Tapes」がリリースされ、リアルタイムでは聴き逃していた彼女をじっくりと聴き返し、その魅力にはまるのです。
ここでは、1996年にリリースされたカバーアルバム「The Way It Is」からのセルフカバーをご紹介します。
※ジャクソンのThat Girl Could Sing(1980年)もヴァレリーに捧げたものであるという指摘もいただきました。
ローウェル・ジョージとの親交
ローウェル・ジョージはジャクソンと共に彼女と深い関わりを持つミュージシャンです。
1979年のリッキー・リー・ジョーンズのデビューにも彼が関与していますが、本作では彼はプロデューサーとしてもクレジットされています。
本作には3人のプロデューサーがいます。
1人がローウェル、そして2人目がモーリス・ホワイト。
モーリス・ホワイトは、あのEarth, Wind&Fireのリーダーのモーリス・ホワイトその人で、意外な名前だと思ったものです。
この2人が関与しているだけで注目盤と言えます。
そしてメインのジョージ・マッセンバーグは、リトル・フィートのエンジニアを務め、後にはEWFの「All 'N All」、TOTOのSeventh Oneのプロデュース等を手掛ける人物です。1989年にはリンダ・ロンシュタットの作品でグラミー賞のベストエンジニア・アルバムも受賞しています。
Ooh Child(A-1)
70年代初頭のR&Bボーカル・グループ、 Five Stairstepsの大ヒットバラード「Ooh Child」のカバーがシングルカットされました。
本作には豪華なミュージシャンが参加していますが、曲ごとのクレジットはありませんが、本曲のクレジットが探せました。
まず、
Lowell George / Slide Guitar
Paul Barrere / Guitar
Bill Payne /Electric Piano
というリトル・フィートの3人が参加。
そしてリズムセクションは
Chuck Rainy /Bass
Jeff Porcaro / Drums
本作では数曲を除いて、この強力な2人が殆どのリズムセクションを担当。ポーカロは翌年にはTOTOとしてデビュー作をリリースする前年。チャック・レイニーが彼らしい弾むベースを聴かせます。
Too Much, Too Little, Too Lateのヒットで知られるデニース・ウィリアムス(Deniece Williams)が Backing Vocalで参加。
モーリス・ホワイトが彼女の作品のプロデューサーなのでその関係かもしれませんね。
Heartache(A-3)
Heartacheはローウェル・ジョージ提供のナンバー。ローウェルはプロデュース、演奏、作曲と全力を傾けてサポートしています。
ハーモニーボーカルはリンダ・ロンシュタットだと思われます。リンダはこの年「Simple Dreams」がチャート1位を獲得し、ノリに乗ってる頃です。
録音中にリンダと共にミック・ジャガーが現れてあれこれと指示を出すので、ローウェルは怒って追い出したというエピソードがリトル・フィートの伝記に載っていました。
ローウェルのソロアルバムにも収録されて、ヴァレリーがハーモニーボーカルとして参加しています。
Just a Stone's Throw Away(B-1)
Barbara Keithのアルバム「Barbara Keith」(73年)からのカヴァー。
プロデュースはローウェル・ジョージ。演奏もOoh Childと同じく、フィートの3人に加えてSam Claytonも参加。ローウェルのスライドが活躍するフィート色の強いナンバーに仕上がりました。
1977年と言うと、フィートは事実上のラストスタジオアルバム「Time Loves a Hero」をリリースした年。既にローウェルと他メンバーに亀裂が生まれていた時期ですが、ここでは結束しています。
本作に先駆けて1975年リリースの「Last Record Album」収録のLong Distance Loveにヴァレリーがハーモニーボーカルで参加しています。
その前年にヴァレリーが参加していた3人組グループHowdy Moonの唯一のアルバムを、ローウェルがプロデュースしています。
因みにHowdy Moonのメンバーの1人ジョン・リンドは、後にEWFのBoogie Wonderlandの作曲を手掛けることになり、何かとEWFとの縁を感じます。
So, So, Happy(A-5)
本作では2曲のプロデュースをEarth, Wind & Fireのリーダーであるモーリスホワイトが担当しています。
Earth, Wind & Fireはこの年には「太陽神(All 'N All)」をリリースし、日本では翌年に宇宙のファンタジーが大ヒットしまさに最盛期の頃です。
So, So, HappyにはEWFの最盛期のメンバー、Larry Dunn(key)、Al McKay(G)、Verdine White(Bass)、Fred White(dr)、Andrew Woolfolk(sax)が参加しています。
Fred Whiteは1974年のリトル・フィートのアルバム「Feats Don’t Fail Me Now」に収録のSpanish Moonでもドラムを叩いています。「Dixie Chicken」のセールスが不振に終わると、ローウェルはドラムのRichie Haywardを首にして、一時的にFred Whiteが加入していたのです。
同時期にローウェルがプロデュースした74年作のHowdy MoonのアルバムにもFred Whiteが参加しており、その後の75年に兄のモーリスがいるEWFに参加するのです。
City Lights(B-3)
City LightsのクレジットはMaurice White, Larry Dunn, Verdine White, Al McKay, Fred Whiteと、EWFのメンバーが総出で作曲しており、雰囲気もヴァレリーがEWFにゲストで参加したかのようにEWF色が濃厚です。
その後ヴァレリーは1980年にはEWFの「Faces」収録のTurn It Into Something Goodをモーリス・ホワイトと共作しています。
TOTOと組んだ2作目
ファーストから1年後の1978年、2作目の「Wild Child」リリースします。
プロデューサーは後に映画音楽の大家となるJames Newton Howard。
CrazyはプロデューサーのJames Newton Howardとヴァレリーとの共作。
David Hungate、Jeff Porcaro、Steve Lukather、Steve PorcaroとTOTOが全面的に参加しています。
サウンドは王道のAOR路線となり、日本で言うと松原みきを彷彿させるシティポップの雛形のような聴きやすいサウンドになっています。
しかしこれも商業的な成功には至らず、3作目は18年後の1996年と活動は滞るのです。
スティーヴ・ウィンウッドがValerieで彼女の不在を嘆いた1987年は、彼女の作品が途絶えていた時期でした。
クリストファー・クロスとの共演
本人の作品は途絶えたものの、コーラスやゲストシンガーとしてもラブコールは鳴り止まずに、セッションワークでは多忙を極めるのです。
クリストファー・クロスの大ヒット作「南から来た男(Christopher Cross)」(1980)を初めとしてニコレット・ラーソン「Nicolette」(1978)、ドン・ヘンリー「The End Of The Innocence」(1989)、と様々なアルバムで活躍します。
特にジェイムス・テイラー作品(Gorilla ,In the Pocket,New Moon Shine, Live)への参加は多く、バックメンバーとしてステージも共にしています。
同様にジャクソン・ブラウンともバンドの一員としても来日し、「Looking East」(1996)等に参加しています。
特に、クリストファー・クロスとはデュエット相手としてゲスト扱いで、2人の声質の相性は抜群です。
2人がデュエットするバラード・ナンバーのSpinningは、彼女の憂いのある歌声が何ともロマンティック!
リンダとの友情
また『Just A Stone’s Throw Away』にも参加したリンダ・ロンシュタットとは友情が続いていたようで、リンダの作品にもいくつか参加しています。
95年の「Feels Like Home」収録のニールヤングのカバーAfter The Gold rushではデュエットパートナーに選ばれています。
After The Goldrush/ Linda Ronstadt&Valerie Carter LIVE 1995
Princeとの共作曲
Valerie Carterがデュエットやコーラスで参加した曲や彼女がカバーした曲などを集めたプレイリストも作成しました。
珍しいところでは、アル・クーパーの「Championship Wrestling」(1982)にはリードボーカルとして参加して数曲、歌声を披露しています。
エディ・マネーのLet's Be Lovers Againでもデュエットし、シングルヒットにもなりました。
日本好きとしても知られ、ジャズピアニストの松居慶子のSapphire(1995)でも歌声を披露しており、その他佐橋佳幸等とも共演しています。
来日公演での佐橋佳幸との共演映像
さらに作曲家としては、Love Needs a Heartが有名ですが、Earth, Wind & FireのTurn It into Something Goodの他、PrinceともI Got Over Itを共作しています。2018年リリースの未収録音源を集めた「Lost Tapes」で世に出ましたが、録音は1977年。Jeff Porcaro(dr)、David Hungate(ba)、Steve Lukather(G)とTOTOの面々が演奏しているので2作目の収録時かと思われます。この曲以外にもPrinceとの共作曲があるようで、1978年にデビューする以前のPrinceと交流があったと言うのは興味深いことです。この辺りの黒人ミュージシャンとの共演・共作は彼女の個性なのかと思います。
Valerie Carterプレイリスト
彼女のデュエットソング、バックコーラス参加作、作曲に関わった曲、そしてカバーをセレクトしました。
カバー曲ではやはりPrinceのCrazy youが際立ちますね。そしてソロデビュー前に在籍したHowdy Moonからは、Judy Collinsに提供してシングルヒットしたCook with Honeyのセルフカバー。
最後のStayは存在自体を知らない企画もののアルバムからですが、ジャズビブラフォン奏者のWolfgang Lackerschmidと共演したジャズナンバー。こんな曲もこなすんですね。
これ程までに優れたシンガーでありながらも、セールス面では不遇の音楽家人生となってしまったのは不憫としか言いようがありません。
そして心臓発作により2017年3月に死去。64歳という若過ぎる年齢。
彼女の志向を探るとR&Bやソウル志向がありつつも、デビュー時はイーグルスの前座を務めるなど、ウエストコーストの歌姫としての枠に押し込められて売り出されたのが失敗の一因かもしれません。
Princeやモーリス・ホワイトとの密な関係を踏まえると、ブルーアイドソウル的な打ち出しが打ち出しが合っていたような気もします。
2006年には大阪のBlue Noteで来日公演があったようです。
そして最後にローウェル・ジョージのトリビュートライブのリハーサルという珍しい映像を貼って終わります。下に貼った記事でも、ヴァレリーはローウェルに感謝の気持ちを捧げていて、彼の死も彼女の活動が滞る原因となったのかもしれません。
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