闇を照らす光、闇の中で聞こえる言葉
昨日からアドベント(待降節)が始まりました。昨年も書きましたが、アドベントと言えば、私は「闇を照らす光」を想います。
夜の闇に包まれたとしても、やがて朝日が昇るように、深い絶望にあっても、「義の太陽」「すべての人を照すまことの光」と呼ばれるイエス・キリストが私たちを照らしに来てくださいます。(マラキ4:2、ヨハネ1:9)
闇の中でこそわかる光のありがたさ
私たちは光があって当たり前だと考えますが、世界はそもそも闇と混沌の状態で始まりました。
それはどれほど荘厳な光景だったことでしょう。闇があったからこそ、光の素晴らしさ、ありがたさが感じられます。
今から2千年前、別の意味で混沌と闇に覆われていた世界を照らし、救いをもたらすために、イエスが来られた時も、当時の人たちはどれほどの喜びを覚えたことでしょう。(その喜びは、今も続いています。)
また、私たちはさまざまな形で闇に呑み込まれてしまうことがありますが、神が光を送って暗闇を追い払ってくださる時、それはなんと素晴らしい解放となることでしょう。
ヨブが経験した闇と光
冒頭で、夜の後には朝日が昇ると書きましたが、絶望の淵にある時には、なかなかそう思えないし、希望も感じられないものです。
ヨブは他にも、「わたしのまぶたには深いやみがある」(16:16)、「わたしは、やみによって閉じこめられ、暗黒がわたしの顔をおおっている」(23:17)、「光を待ち望んだのにやみが来た」(30:26)など、自分を呑み込んだ闇について多く語っています。
私たちも絶望の闇の中にいる時、そんなヨブの気持ちに共感し、「自分だけではなかった」と励まされます。
彼が待ち望んでいた光と救出は、神よりも自分のほうが正しいと主張して神に挑戦してしまうほど、闇が一番深まった時に現れました。
神からさとされたヨブは、自分の知恵によって神の働きを理解することも、自分の正しさによって救いを要求することもできないと悟り、さらに素晴らしいことに、この経験によって神を以前よりはるかに親しく知ることになりました。
闇の中で聞こえる希望の言葉
闇という漢字は、一説によれば、閉じられた場所に音だけがあると書くことで、光がないことを表現しているそうです。
逆に言えば、光はなくても、音や言葉が聞こえるということになります。
どれだけ闇が深くても、私たちは神の「静かな細い声」(列王記上19:12)によって、また聖書の言葉を通して、神からの励ましや、将来に関する希望の約束を聞くことができます。
私たちが闇の中にいる時、神はただ傍観しているのではありません。ユダ王国の住民の大半がバビロンに強制移住(バビロン捕囚)させられた時には、こんな言葉を送られました。
「この闇から私を救ってください」という祈りがかなえられないように思えても、実はすでにその祈りは聞かれ、私たちの見えない所で神が救出の計画を進めておられるのでしょう。
そんな時は、自分の知恵によって神の働きを理解しようとせず、神の救出のタイミングを信頼して、闇の中で主の言葉を聞くことを学び、ヨブのように主をより親しく知る機会なのかもしれません。
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