見出し画像

あなたの手にあるそれは何か

先日、アメリカの記事で、嘘をついて会社をサボろうとした人たちの言い訳集のようなものを目にしました。「太ったので、制服が入らない」とか「飼い犬が車のキーを飲み込んだので出勤できない」など、私には思いつきそうにないものばかりです。

「庭に熊がうろついていて、外に出られない」という、最近の日本だったら、本当に起こり得るかもしれないものもありました。普通は街なかに出てくることがないのですが、今年は異常でしたね。

聖書の箴言にも、熊ならぬ「獅子(ライオン)」が外にいるからと言って怠ける人が登場するので、そういうところは今も昔も変わらないようです。(箴言22:1326:13

言い訳なら、かの有名なモーセも負けては(?)いません。エジプトで奴隷状態にあったヘブル民族を助け出すために、彼をパロ(エジプト国王の呼称)のもとにつかわすと神から言われた時、なんとか行かなくてもすむよう、全力で言い訳を並べ立てました。

でも、その気持はわからないでもありません。彼はパロの娘に拾われて、40歳になるまで王室の一員として生活していたのですが、同胞(ヘブル人)を救おうとしてエジプト人を殺してしまったため、命からがら逃げ出し、今は羊を飼って生活する、80歳のただのおじいちゃんなのですから。

穏やかな生活を送っていたというのに、何百万人もの奴隷を解放するのを助けよと言われても、戸惑ってしまうことでしょう。しかも、エジプトには、当時のパロなど、彼の命を取ろうとする者たちがまだいるかもしれないので、かなり怖かったと思います。(のちに、彼らが皆死んでいることを、神から知らされます。)(出エジプト2:154:19

というわけで、なぜ自分にはそれができないのか、次から次へと理由をあげたのですが、その一つは、「彼らはわたしを信ぜず、またわたしの声に聞き従わないでしょう」というものでした。神は最初に、「彼らはあなたの声に聞き従う」と約束していたのですが、モーセはそれを信じられないほど、過去の挫折にとらわれていたようです。(出エジプト4:13:18

神はそんな彼に、「あなたの手にあるそれは何か」と言われました。その時、モーセの手にあったのは、ただの杖です。おそらく、羊飼いが羊を守り導くために持ち歩く杖だったでしょうけれど、同胞を救うには、何の役にも立ちそうにありません。

主は彼に言われた、「あなたの手にあるそれは何か」。彼は言った、「つえです」。また言われた、「それを地に投げなさい」。彼がそれを地に投げると、へびになったので、モーセはその前から身を避けた。主はモーセに言われた、「あなたの手を伸ばして、その尾を取りなさい。そこで手を伸ばしてそれを取ると、手のなかでつえとなった。

(出エジプト4:2-4)

モーセが思わず「身を避けた(飛びのいた)」ので、毒蛇に見えたのでしょう。何であれ、蛇の尻尾をつかむのは、非常に危険なことです。すぐに噛みつかれてしまいますから。荒野で長年過ごしたモーセなら、まず頭をつかまえるか何かで抑えるかすべきことをよく知っていたはずです。

しかし、神はここで、モーセが神の指示に従って行動するなら、必ず彼を守るから、恐れる必要はないと教えるために、尻尾をつかむよう言われたのかもしれません。

このあとも、モーセは自分にはできない理由を言い続け、とにかく他の人を送ってほしいという本音を言うのですが、最終的に神の計画に委ね、言われたとおりにエジプトへ向かうことにしました。そして、神はモーセに、先ほどの杖を持っていくよう言われました。

「あなたはそのつえを手に執り、それをもって、しるしを行いなさい」。モーセは手に神のつえを執った。

(出エジプト4:17, 20)

モーセが自分の杖を神に使っていただくことにした時、それは「神の杖」となりました。そして、神がこの杖を用いて行われた多くのしるし(奇跡)を見て、同胞はモーセを信じ、エジプト国王は彼らを去らせることにしたのです。

私たちも、神が個人的に示してくださったことや聖書の言葉を実行するのが難しく感じ、それをできない理由で頭がいっぱいになる時、自分の手にある「杖」を神の杖にしていただくことを考えてみるといいことでしょう。

それは、仕事道具かもしれないし、能力や才能、人脈、あるいは持ち物やお金かもしれません。

それがわずかであっても、あるいは取るに足りないように思えても、それを神に使っていただこうと決意する時、その杖は「私の杖」ではなく「神の杖」となり、「私の力」ではなく「神の力」が現れる道具となります。

あなたの手にある「それ」は何でしょうか?




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?