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永遠を思う

最近、世界で起きているさまざまな問題について考えていて、伝道の書(共同訳では「コヘレトの言葉」)の著者の気持ちがわかる気がしました。

空しく不条理な世界

伝道者は言う、くうの空、空の空、いっさいは空である。
(伝道の書1:2)

伝道の書は人間的視点に立って人生を説明しており、そのような人生観からすれば、たしかにいっさいが空しく、不条理であるように見えます。

たとえば、世界がどれだけ平和を求めようと、たった一人の決断によって戦争がもたらされることがあります。

こちらからは周りに優しく接しようと努めていても、誰かの愛に欠けた言動によって傷つけられることがあります。

どれだけ健康を心がけていても、病気になることはあるし、それがなかなか治らない場合もあります。

伝道の書3章1-8節には、すべての事には「季節」があって、泣く時もあれば、笑う時もあると書かれていますが、人生の冬など来なければいいのに、笑う時ばかりならよほどいいのにと、つい思ってしまうものです。

でも、その後に続くこの言葉に、人生の大切なヒントがあるように思えます。

永遠を思う思い

神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。
(伝道の書3:11)

私たち人間は、他の動物とは違って永遠という概念を神から授けられており、今見えている世界がすべてではないと直感的に知っているようです。

でも、それを忘れてしまい、「悲しい、辛い」という一時的な状態にだけ目を留めるなら、空しい気持ちが生まれてしまいます。

そんな時は、神が私たちの心に永遠を思う思いを授けられたことを覚えていて、目に見える一時的な状況にとらわれず、永遠のスパンで物事を考えることが大切です。

わたしたちは、見えるものにではなく、見えないものに目を注ぐ。見えるものは一時的であり、見えないものは永遠につづくのである。
(2コリント4:18)

永遠の世界の希望

永遠という言葉には、希望が感じられます。

この世界に生きている間にすべての問題が解決すれば最高かもしれませんが、そうは行きません。

しかし、永遠の世界で神と共に過ごす時に、それがかなうという希望があります。

見よ、神の幕屋が人と共にあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとって下さる。もはや、死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである。
(黙示録21:3-4)

この世では、「なぜ私だけがこんな目に?」と思うことがあるかもしれませんが、どれだけ辛いことも軽く一時的なものだったと思えるほど素晴らしい永遠の栄光がもたらされると、数え切れないほどの辛い経験をしたパウロは語っています。

このしばらくの軽い苦難は、私たちの内に働いて、比べものにならないほど重みのある永遠の栄光をもたらしてくれます。
(2コリント4:17 聖書協会共同訳)

私たちにその永遠の世界の希望があるのは、2千年前、イエスが私たちのために死んで復活することによって、信じる者たちが永遠に生きられるようにしてくださったからです。

神はそのひとり子【イエス】を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。
(ヨハネ3:16)

そして、神はあなたの心に、永遠を思う思いを授けておられます。

もし、「泣く時、悲しむ時」が辛すぎるように感じたり、この世の状態にがっかりしたりすることがあるなら、どうぞ永遠を思い、永遠の神に重荷をゆだねることによって、慰めと希望、励ましと強さが与えられますように。

どうか、わたしたちの主イエス・キリストご自身と、わたしたちを愛し、恵みをもって永遠の慰めと確かな望みとを賜わるわたしたちの父なる神とが、あなたがたの心を励まし、あなたがたを強めて、すべての良いわざを行い、正しい言葉を語る者として下さるように。
(2テサロニケ2:16-17)

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