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パーティーの終わりと文明のリヴォルヴ。|weekly vol.084

今週は、うでパスタが書く。

歌舞伎町にただひとつ残っていた行きつけのバーが閉まった、という話を書いた。
いままでにもなかったことではないが、いつもと違うことはふたつ。
僕にはもう行くところがないということと、店を切り盛りしていたふたりとは、いつでも好きなときに会えるということだ。

今回は誰も死ななかった、と思っていたらどうやらひとり亡くなっているそうだ。僕のほかにはただひとり、その店を開店からずっと見てきたカウンターの常連さんが、閉店を待たずに世を去ったと店のFacebookで紹介されているのを見た。
亡くなったってどうしてわかったの、と店が閉めた翌日、残ったものを引き取りにこいと呼ばれたついでにカウンターで飲んでいるとき訊いたら、それが聞いてくださいよとオーナーのKさんが話し始めた。

うでさんがほら、囲炉端の店長が死んだとき云ってたじゃないですか。
どれだけ長い時間を過ごしても、死んだら「死んだ」と人づてに聞くだけで結局どこの誰だったかも分からないし、家族がいるかも知らない、線香一本あげられないのが飲み屋の付き合いって。
いつかそんなことをここで話してたら、「じゃあ『俺が死んだらKに連絡しろ』って手帳のいちばん最初に書いとくよ」って、そうおっしゃって、その場で店の電話番号をメモっとられたんですよ。
そうしたらこのあいだ、お姉さんっていう方がそれをご覧になって驚いて電話してくださったんです。「死んだらKに連絡しろ」とあったので、って。それで分かったんですよ。それがなければ「あのひとも来なくなったな」で終わったと思うんですけど。

インターネットの僕たちは、深い深い海の海原の、その波間を漂っているようなものだ。
そこでもやはり、ひとはしばしばいなくなる。
波がざぶりとかぶったあとに、ふと見るとさっきまで隣に浮かんでいた頭はどこかへ消えてしまっていて、ときには遠くへぷかりとまたふたたび浮かぶこともあるけれど、どんなによく目を凝らしても、それがあのときとおなじひとかどうかは分からない。ときに勇気を出して呼びかけてみると、少しこちらを振り向いて笑ったような気もするが、気が付くともうその姿は波に紛れて区別がつかなくなっている。
そしてもちろん多くの場合、いちど消えてしまったひとがまた僕らの目に触れることはない。
だがそれでいいのだ。ここでたゆたう僕たちは、波の下ではいつもじたばたと手足を振りまわして、実は必死に、堅実に、あるいはそれなりに愉快な生活をやっている。そうでなければこんなところへ浮かんではいられない。いまもこうして波間をさまよい、日常の底へ飲み込まれまいと声かけあっている僕たちの姿こそは本当は泡沫で、姿を消したひとたちは、僕たちの知らない、そのひとたちの広い、“本当の世界”のなかに深く、深く潜ってもうここへ姿をあらわす必要なんてないのだ。息を止めてじっと潜っていれば、やがて空気を吸うことなんて初めから必要なかったと思えるようになってくる。そこは天国でもないし地獄でもないが、どこかへ宙ぶらりんに浮かんでいなければ生きていけないよりは、よほどいいのかもしれない。
だから僕は、インターネットから姿を消したひとの話をあまりしない。彼らは別に供養を必要としないからだ。

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