世界史 その15 三皇五帝と夏王朝-伝承の古代中国-

 この世界史のシリーズでは教養という視点で世界史を綴っている。また教養とは他者と分かり合うための共通の知識だと定義づけている。他者と分かり合うための歴史であるので、歴史学的に正しい歴史だけでなく、一般的にこのようだと考えられている俗説の類や、過去このようだと信じられていた歴史もないがしろにしないようにしたいと考えている。過去、というのは分かり合うことは無理でも、理解すべき他者の中には書物を通じて語り掛けてくる過去の人々も含まれているからだ。
 特に僕たち日本人にとって中国の古典は大事な教養の一部である。戦前まで漢籍は日本人にとっての基礎教養であり、本を著すような人々の多くは漢文に親しんで、その思考、思想の根幹の一部となっていた。このへんについてはいずれ「漢文は何故国語か」というテーマで取り上げられたらなぁと思っている。

 ということで、現実の歴史ではない三皇五帝についても少しだけ触れておこうと思う。古代の史書では最初の王朝である夏王朝に先立って三皇五帝が統治したとされている。三皇は神の類であり、五帝は聖人の統治者となる。
 三皇は五帝よりも新しい概念だが、伏羲(ふっき)、女媧(じょか)、神農(しんのう)を五帝以前の存在とする説や、天皇(てんこう)・地皇(ちこう)・泰皇(たいこう)または天皇・地皇・人皇(じんこう)を太古の支配者とする見解は戦国時代にはあったようだ。
 『史記』には黄帝(こうてい)・顓頊(せんぎょく)・嚳(こく)・堯(ぎょう)・舜(しゅん)が五帝として挙げられ、三皇については始皇帝本紀に「皇帝」の称号の由来として天皇・地皇・泰皇が挙げられている。また黄帝以前には神農の子孫が治めていたとされる。

 事績についての記述が少ない天皇・地皇・泰皇はほぼ概念の存在と言える。これに対し伏羲・神農・黄帝などは人々に生活の根幹となる文化や、農業・医学についての知識を授けた文化英雄の性格を強く持つ。五帝の全員が徳によって国土を治めた聖人として徳治が強調されており、多くの史書が成立した春秋戦国時代の価値観が反映されている。

 徳治を施す聖人支配者として、特に強調されるのは堯・舜・禹(う)の3人だ。黄帝の曾孫である堯は天文と暦に関する知識を人々にもたらした。後継者指名において、血筋や身分によらず、庶民となっていた黄帝の8代孫である舜を選んだ。
 舜は堯に仕えていた人々を適材適所に割り振り、大きな成果をあげた。というとなにやら地味なようだが、社会人を経験した人なら部下を適所に配し、信頼して最大限に力を発揮させるということがリーダーにとってどれ程重要で、どれほど得難い資質であるか(主に部下の立場で)身に染みていると思う。
 禹は顓頊の孫で、父の鯀(こん)は堯の時代に後継者候補になりながら治水工事で功績をあげられず追放となった人物だ。出自に関わらずに人材を登用する舜の方針によって、土木工事を担当する司空になり黄河の治水に功績をあげた。更に中国全土を九州に分けて、開発を進めた。禹は中国全土に足跡を残し、自ら犂を取って作業にあたったともされている。治水工事を最大の功績とされるが、三苗を討つなど軍事的な功績も記録には見える。

 禹の死後、統治者の座は禹の子である啓(けい)に受け継がれる。ここに中国初の世襲王朝である夏(か)王朝が始まる。禹から桀(けつ)まで14世代17人の王が続いた後、殷王朝の初代である湯(とう)によって滅ぼされた。

 以上が三皇五帝と夏王朝に関わる史書の記述の大まかな流れとなる。勿論史書によって、かなり大きな違いのある場合もあるが、できるだけ最大公約数的な話を紹介したつもりだ。
 禹の代まで実子でなく能力の優れた者に位を譲る禅譲(ぜんじょう)が行われている。これに対し禹は実子を後継とした。中国の歴史上最高クラスの徳を持った指導者とされる禹にとって、これはその徳に傷をつける事項ではないか、という疑問を持つ人もいるだろう。そのような疑問を持つ人は古代からいたようで、『孟子』にもそれに関する問答がでてくる。禹の時代に徳が衰えたために世襲になったのだという意見に、孟子は禅譲も世襲も天が望んだためにそうなると答える。
 舜は堯から後継者とされても堯の実子に遠慮して一旦は身を引くが、人々が舜を慕って集まってくるので支配者の座に就いた。禹も舜の実子に遠慮して一旦身を引いたが、人々に求められて支配者の座に就いた。禹もまた実子の啓ではなく臣下の益(えき)を後継者に指名したが、啓は堯・舜の実子と違い英明であったし、益の方も舜や禹と比べ前任者の補佐をしていた期間が短かったため、人々は啓の元に集まった。
 古代中国の人々の本音なのだろうか、現実に世襲支配者を戴いてる人々が現状を納得するためにひねり出した理屈であろうか。

 さてこの伝説の内にいくらかの史実が含まれているのか全くの虚構なのかは、古代中国に関心のある人なら気になるところだ。禹が定めた九州は、当時の王朝の支配範囲とは考えづらく、史書が成立した春秋戦国時代の中華の領域意識に基づくものと言える。
 夏王朝の系図は兄弟相続が主だった殷王朝より古いのに親子相続がなされ、王の名前も殷王朝の王に似通った名前が見いだされる。
 夏王朝の終焉についても一度は捕らえられた湯が、釈放されてのち諸侯を集めて会戦で桀を破り殷王朝をひらくという筋立ては、殷周交代の際のエピソードをそのまま複製したようだ。
 そういうこともあって、長らく夏王朝は架空の存在と考えられてきた。殷王朝の実在が確定された後、中国の研究者が夏王朝の実在を証明することに情熱を燃やし始めても、欧米や日本の研究者は慎重な姿勢をとっていた。
 それが現状どのようになっているかについては、その16とその16.5で見ていきたいと思っている。

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