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音楽の情景と拘り

注釈:ほとんど筆者の備忘録用に記載するのと、某ゆる言語学ラジオが紹介してた「ビジュアル・シンカーの脳」を絶賛読んでいる最中だが、言いたいことは満載なのでせっかくなので書いた次第。なので酒の肴感覚でお読みください。


音楽から景色を

"Debussy"「月の光」と"LiSa"「紅蓮華」のタイトルから景色を想像できる曲は幾らでもあるが、より抽象的なタイトルは幾らでもある。だが同時にCDジャケットやその曲が同時に紹介されたアニメを含める映像作品のおかげで暫定的なイメージもあるし、そのままPV映像が用意されてる場合もある。
そういう直接的な映像よりも、長年の作者への理解を深めた場合に各々が勝手にイメージする場合もある。特に私がScattle氏とWaveShaper氏のファンを彼是7年ぐらい続けていて、二人の合作Remix版の「Infinite」というインスト曲があるのだが、二人のSynthwaveとRetrowaveと宇宙モチーフを取り上げることが多いため、この曲を聴くと永遠と周り続ける巨大宇宙ステーションを思い浮べる。遠心力があるとはいえ、そのステーションの人々は宇宙ステーションの中央核を眺めつつ希望を見据えるが如く見上げる景色をイメージしている。

景色の不完全性と私

ただし"やなぎなぎ"「アクアテラリウム」を聞いたからと言って、その曲5分弱の全ての瞬間に合わせてイメージを構築できるとも限らないし、偶然練習曲として弾いて一時期有名になった「Pathetique(悲愴) 第2楽章」の後半部分は当時弾いてたとしても全然イメージできずにいた。
だがそれでよかった。私が判らないことがあるということは、これら曲を再度聴き練習するきっかけにもなったし、最初のイメージの鮮明化にもつながっていた。「体操ならぬ霊操」とイエズス会という宗教一派特有の言い方があるが、これに因んで「感操」ともいうべきか、いざ歌っている・聴いている最中にその感情が充足され過ぎないように心掛けていた。
月並みな表現で(私は結構嫌いだが)「満ちれば欠ける」にも等しい。特にニッチな曲を聴いていると平然と10分曲とかも選択肢に取り上げるのに、最初の2分でお腹いっぱいになるわけにはいかない。
また不完全であるが故に、違う要素で充足させないといけない、または違うものを摂取する時のカウンターバランスにもなり易い。何故ならば完全だった場合には自分の中で最大効率の方程式が出来上がり次の一手が決まるのと同時に寝るまでの感情逆算が始まってしまう。

音楽の摂取方法

毎度完璧な状態で音楽を摂取できない。ただ特定の音楽は既に最強のセットアップが用意されていたり、あとは暇つぶしで聴く場合もある。だがそれ以外にも「音源を聞きたいわけじゃない」場合もあるので、自分の脳内ライブラリから想起させる。
その時は自分が変換しきれてなかった音や自由な声色を持ってくることもできるし周辺の音をそのまま拝借することもできる。逆の方向として、いつも居ない場所の特別な待ち時間で雨粒が滴る窓を眺めながら聞いてみると自分が抱いていた景色が若干塗り替わることもあるし長年見落としていた音やパーカッション等を拾い上げることもある。
ただし逆の方向も稀にある。特に思考が別の箇所に持っていかれてる場合、逆に音が漏れ過ぎて素の状態だと集中できない場合には、自分の感情が環境に埋もれ過ぎないために既知の音楽で希釈することもある。これを景色で例えるならば満員電車の風景を、一種のディスコステージの薄い蜃気楼のようなイメージを上乗せさせている感じ。

景色から思い出へ

完璧な景色が生まれてしまったのならば、そのまま思い出として保管させてしまえば良い。完璧ではない景色ならば代わる代わる景色から感情の浮き沈みを感知し、音楽だけでなく複数の要素を同時に体験し思い出としてパッケージ化する。故に私の再生リストが「2024_04」だったりするのは、多種多様なジャンルのごちゃまぜである事実だけでなく、その月に出会った新曲たちに無理やりラベル付けしている。現にこの月は、"いよわ"「きゅうくらりん」を聞いた後に"ナナヲアカリ"「チューリングラヴ」を聞いた後に"ドンキーコング2"「かいてんタルさんばし(Bayou Boogie)」を聞いている。これが何故か判らないが春先にかけて咲き始めたハクモクレン、乙女椿、赤躑躅、桜等を見れば見るほどこの曲が脳裏に浮かぶ。その逆もまた然り。
これはかなり歪曲されたパターンかもしれないが、現に私は直感的に音楽を嗜んでいると想えた。

拘りと排除

感情の予知と余地

先ほども申し上げた通り「感操のように、1日の感情量」の限度がある。至って単純な理論で摂取と消費カロリーにも限度がある。結局私だってスーパー社畜時代の時は何も耳に入れられない程多忙だった時がある。
だからか、音楽を楽しむ余地のために選り好みするのは必然だった。
自分は音楽に対して「良さ」という漠然的な評価はしないが、小学生が鬼滅の刃のおもちゃ剣を携えながら聴く「紅蓮華」と私が来月閉店するラーメン屋にて店全体の右奥からFMラジオから聞こえる「紅蓮華」は物質的にもデータ的にも同じだが、上記に私が言っていた音楽の景色は決して似たものではないと知っている。なので私は「紅蓮華」がどういう構成要素でどの付随情報があるのかを知った上で、聴いた時に得られる景色が何になるのか予知してしまうのだ。
ここまで来たのなら話そう、自分は「鬼滅の刃」に限っては淡々と白黒で見せられる動と静、そして様々なキャラクターの目くるめく感情が漫画という媒体で閲覧できるのが一番納得できた。誰かに「操作されたくない」と安直に捉えられてしまうかもしれないが、私は単に次のコマを読むのは私であって他の誰であってほしくないと思っただけだ。
何故この話をしたのかと言うと、あんな流転の心理描写と社会情勢も交えつつ倫理を堂々と提示してくる作品と、今の小学生たちが存分に楽しめている「鬼滅の刃」が同じ作品だとも思わない。厳密に言うと「現実という次元」においては同じコンテンツではあるが、そこが最低ラインだ。左記内容を承知した上で「紅蓮華」は、私の「音楽を楽しむ余地」に入れたくないと純粋に思っただけだ。

如実な排除とフィルタリング

「出会いが悪かった」これは一期一会の証左でもあり、良い時ばかりに聞く熟語だが何もなかった時も言われるべきで、熟語の本質として正しい。決して人との出会いではなく、曲との出会いを言っている。あと意外と初見ではないハズだが、初見だと錯覚する曲もあり、機会が一度だけではない。
それを踏まえても「今後会っても何も思わないだろう」のような曲もある。特徴的ではないとは言わないが、言わば「見知っている顔」だったりする。これは言わば出会い系サイトで永遠に左にスワイプする人達とやってることは本質的に代わりない。
すごい極端な話をしよう「撲〇天使ドクロちゃん」の曲を聞いた後は、「Os-宇宙人」以外はあまり電波曲を聞きたいとは思わないし、その他電波曲は結構フィルタリングされる。それは初っ端から「撲〇天使ドクロちゃん」が私の中で大きな景色の大部分を担ってしまったことも原因とされる。街路樹や公園は特別でも、住宅街の全マイホームは印象的ではない。

拘泥

幼少の頃は散歩道で新しい場所でなくとも季節が違うだけでウキウキした。その感覚は合唱部で渡された全曲にも適用された。ただ自分のオタ文化への迎合と限られたお小遣いからかなり制限された供給、ひいては大学と社会に参加することへの多忙化。その最中にピックアップしてきた音楽と共に創作した情景は、本物であるが故に、音楽の情景自体が自身を象徴するようにもなってしまった。
なので私の拘りは私を表すのと同様に、私の拘りが凄く粘っこく流行に左右されず表現しにくい物になった。拘泥、今しがた知ったがまさにそうだ。
これを無暗やたらに共有もしくは表現するものならば、私の電脳化させて疑似空間で全部再生させるぐらいの技術革新が必要になる。あるいはゲームオタク的言い方をするなら「SIRENの屍人」と同じ。

最後に

見出し画像が「若干グリッチ感があるイルカが泳ぐようなフェイク画像」である理由は「VideoGameDunkeyの動画【The Majestic World of Dolphins】から流れる"きりのもり"を聞いた時の情景」を表しているから。上記動画はそもそもジョーク動画だし"きりのもり"のBGMだと舞台が違うと言えなくはないが、絶妙にマッチしただけでなく新たな解釈が付与された瞬間でもあり、ただゲーム音楽だからこそマッチしたという直感ではなく、DKC2ならではの夢遊感をイルカに合わせたDunkeyのセンスに脱帽したこともあり、自分が抱いた海洋哺乳類に対する神聖性が音楽を通して顕現した。
私が"きりのもり"で抱いた情景を、上記画像と文字で表現したが、これが一種の「音楽的思考」から「視覚的思考」を交えつつ「言語的思考」で可能な限り落とし込んだ。私の拘りは「音楽的思考」をルーツにしており、これを判り易い形で自分で分解した時のプロセスも記載した。
私に音楽を聴かない方が良い、という結論だが同時に「音楽的思考」の片鱗を表現することができたと思う。これを機に
最後まで読んで頂きありがとうございました。


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