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老親の謎(16) 平成狸合戦ぽんぽこな思い出(1) フキハラ

私の父は、50歳から死ぬ死ぬ詐欺でして、
本当に入院をするようになったのは、80代後半からです。
むしろ母より長生き。

90近くなって、心筋梗塞で入院2ヶ月。
腸の具合が悪くて、これは手術ではなく、管に繋がれて食事も取れずに2ヶ月。
これはかわいそうでした。
でも、特に繊細な人でなくても、あることです。
年齢ですから。
その他にも都合4回ぐらいは入院していたのかな。

彼は極度の対人恐怖症で気難しく、今の言葉でいうと「フキハラ」でした。

話が脱線しますが、私は子供の頃から、
父の暴力とパワハラ・モラハラで支配されました。
知らなかったけど、それに「フキハラ」もすごかった。

暴力の方は、私が27歳のときでしたが、木刀を持って追ってきたとき、
こうして逃げていても永遠に終わらないなと思って、気持ちを決めました。

走って逃げるのをやめて、振り返って、

「今それで殴られるとあなたを一生許さないけど、
人を許さない人生は私は嫌なので、暴力はすぐやめてください」

と言ったのでした。
父はぽかーんとして、木刀を振り翳していた手を、だらーんと下げました。
私の方では、そのときがあまりに恐ろしかったのか、
そういうことを言える環境に育っていなかったせいか、
その後の記憶が飛んでいますが、それで父からの暴力の方は止まりました。
私の方にも、譲らない気迫みたいなのは多少はあったのか、
初めてそんなふうに言い返されて、父も気持ち悪かったのかもしれませんね。

ただ、暴力は収まっても、子供の頃から続いていたこと、
当時は認識できなかったけれど、つまり、フキハラ、不機嫌ハラスメント。

「気に入らないと徹底的に不機嫌に無視し続け、自分の意思を通す」

というのは死ぬまで続きました。

私が父と共に暮らした前半生は、父の不機嫌の合間を縫うようにして、
小さな明るい部分を見つけようとすることだったようです。
私が、田舎の無人駅のトイレの蛍光灯のように、
無駄に明るいのも、このためかなと今では思っています。

ついでに書きたくなってしまったので、お許しください。
父は、死ぬから、と言って出ていって浜辺を彷徨うというのもやりました。
要するに、

俺のいうことを聞かないと、死んじゃうから

という、俺様劇場を展開するわけです。
これも本当に嫌でしたね。
これが嫌で言うことを聞いていたようなものです。

読み苦しいことを、すみません。
でも続きます。

脱線だけで1ブログ書いちゃった感じですが、
この父がこの気難しい性格と、実は極度の対人恐怖、臆病、怖がり。
このために、入院時は毎回必ず、個室に入るわけです。

一晩16,500円、ガチャピーン。

これを後から知った私が驚いて、姉や母に、

ねえ、いいの?
すごいことにならない?

と聞いても、二人とも絶対父に意見など言えませんから、

「どうしたものかねぇ」
「言っても聞かないと思うんだよね・・」

でした。

言って、聞くとかそれ以前に、フキハラ大王ですから、
誰も父が不機嫌になることを口にできないわけです。

今 考えてみたら、父がそれでお金をたくさん使ってしまおうとも、
それは父の稼いだものです。
もし、残していく妻や、独身の長女にお金を遺しておこうと思うなら、
無駄遣いせず、なんとしても残そうとするでしょう。
遺していく妻や子の将来より、今の自分が個室に入る方が大事なわけで、
そういう人を、怖いからと言って泳がせていた妻と娘の責任もあった。
もうここは、結婚で別世帯を構える私が口出しをできるものではありません。
でも当時の私は相当、憤慨していたのでした。

さて、7年ぐらい前のことです。
父の何回目かの入院中に実家に行った時、
認知症の進んでいた母が急に怒り出しました。

お父さんは勝手だよ。
あんな個室になんか、入らなくていいんだ。
あたしはなんだか、お父さんのこと、嫌いになっちゃったわ。

と。

で、私が

「お母さん、入院費が大変なんでしょう?
自分の希望で個室に入るんだから、自腹だよね?
私が止めてやろうか?」

そう言ってみたら、母はぜひそうしてくれと言います。

それで私は、父の入院中だった病院にアポをとり、
主治医の先生に面談を申し込みました。

続きます。


この病院でした。




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