令和6年能登半島地震 備忘録
私は地元石川県を離れて、今は北海道で暮らしています。
毎年、お盆と年末年始はだいたい帰省しているのですが、今回の地震の時も帰省していました。
実家は能登の入り口辺り。
被害は大きくなかったけれど、自分の体験を備忘録として残しておきます。
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1月1日は、実家で家族とおせちを食べてのんびりした後、昼過ぎに、石川県(特に能登の人)の多くの人が訪れる、羽咋市にある気多大社に姉と姪の3人で初詣に行きました。
気多大社は羽咋市の海の近くにある、創建2000年を超えると言われている歴史ある神社です。
元旦なので人も多く、駐車場に入るまでもかなり待ちました。
15:40頃から参拝の列に並び始め、15:56にもう少しだと思いパシャリ。
北陸の冬は常に曇りがデフォで、こんなに晴れてるのは珍しいくらいの天気。この時で15:56。
この後すぐ参拝し、おみくじを引きに行きました。
中身を見る前に、最初の地震速報。
周囲の人たちのスマホから一斉に警報音が鳴ったのでとてもびっくりした。
そう。本震の前に余震がありました。
でもこの時は外だったからかあまり揺れを感じず。そんなに揺れなかったのかな?と話しながら、おみくじを開いた。
普通のおみくじは大吉。恋みくじは末吉(笑)だったので、結ぶために内容をパシャリ。(撮ってよかった?笑)
この時点で16:07。お守りを結び、帰る前にトイレに行こうとなったので、トイレを探しつつお守りもチラ見。
そしたらまた地震速報が一斉に鳴った。
またかと思っていたら、ものすごい横揺れ。
立っていられず、思わず3人で掴まり合いながらしゃがみ込む。
長い長い横揺れ。これはやばい。とんでもない地震だと頭が真っ白。
揺れが落ち着いてからすぐに実家の母に電話。家は酷いことになってるとのこと。すぐに帰ると話して切った。
すぐにまた地震。大きい。その最中でもお守りなどを買おうとする人と、売り子の呆然とする姿が印象的だった。
誰かの一声で売り子も外に出てきた。これは酷い地震だと思っていたら、また警報音。
津波警報。
東日本大震災を神奈川で経験していた姉と姪、北海道で経験していた私。
高台を探す。どこ?海はすぐそこに見えてるのに。ここは海抜何m?海が近すぎる。とにかく上へ!と周りを見渡す。
母から電話。津波警報が入ったから帰ってくるな、高台へ!と。
本当は車に乗って逃げたかったけど、駐車場はもっと海の近く。危険。
マップを見て、山を登った先に国立能登青少年交流の家があるのがわかったので、距離はあったけど歩いて向かうことに。
トイレに行きたいねなんて話しながら30分くらい歩いて到着。その間もずっと鳴る警報音と地震。
着いたらすでに10人ほど避難して来ていた。無事にトイレにも行けた。(この時はまだ断水していなかったのか水が残っていたのか流せた)
テレビもあったので、そこでやっと状況がわかってきた。やはり珠洲の方が震源地。状況がわかっていくのが怖かった。
地震速報が鳴るたびに外に出るを何度も繰り返した。段々と人が増えてきた。小さい子が怖がって泣いていた。怖いよね…私も怖かった。
ここ数日暖かかったのに気温もぐんぐん下がってきた。津波警報から大津波警報にも変わった。いつまでここにいたらいいだろうか。津波はもう来ない?とぐるぐる考えながら待つ時間。
道産子根性で薄着で来てしまって笑、流石に寒かったので、宿泊棟から毛布を持って来た。
津波警報が解除されない限り動けないと思って、朝までいる覚悟でいたら、トイレに立った姉と姪が図書館から本を持って来た。姪が持って来たかいけつゾロリを久々に読んだ。
19:30過ぎに館内放送が鳴った。玄関に名簿を置くので名前を書いて欲しいとのこと。ずっとここにいるつもりはなかったので、このタイミングで駐車場まで移動しようと決めた。
移動する前にトイレへと思ったら、断水していた。防火用?の水を汲んできていて、それを使って流した。手を洗いたくても水は流れない。出る前にせめてもの手を消毒した。
外に出たら寒くて真っ暗。青少年交流の家は山の上にあり、田舎は電灯も少ないので本当に真っ暗。
充電が危ないiPhoneのライトを付けながら、気を紛らわすために3人で三文字しりとりをしながら歩いた。
周りは森で、今にも熊が出て来そうと思いながら口にするのが憚られていたと3人とも感じていたと、民家がある辺りまで歩いてから3人で話した。
パトカーがサイレンを鳴らしながら移動していたし、町中に警報音が響いていた。
車数台、パトカーともすれ違ったが誰からも声をかけられなかった。
ドキドキしながら駐車場まで移動すると、車はほとんどなく、初詣に来ていた人たちはすぐに車で移動したんだなと思った。
車に乗って暖房を付けて温かくなってきて、少し安心した。
それでも海近くの道を走らねばならなかった。橋も渡らなければいけなかった。怖かった。
羽咋市街に入ってあまり光景が変わっていないことに安心して車を走らせた。羽咋川は津波なのか満潮からか増水していた。
実家に近づいて行くと、実家近くの道が軽く地割れをしていた。こんな所まで…と怖かった。
ドキドキしながらやっとの思いで20:30頃、実家に帰れた。長い長い初詣だった。
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実家は電気は大丈夫だったけど断水していて、融雪用の水道から水が多少出ていたので、それをくんできてトイレに使った。
地震でガスのスイッチが切れていたので、ご飯は電子レンジで温められるものを食べた。紙皿にアルミホイルを敷いて再利用できるようにして食べた。
テレビではずっと地震のことをやっていて、実家に帰って落ち着いてからやっと、自分が被災したんだなと実感が湧いてきた。
お風呂も入れないし何もできないから、飲み水で歯磨きをして、早々と寝た。
でもやはり寝付けないし、余震で何度も目が覚める。何度も鳴る地震速報。揺れるたびに大きい揺れが来るのではと感じる恐怖。
ろくに寝れた感じがしないまま、2日の朝を迎えた。
朝になると少し水が出るようになっていた。茶色の水だったが、またいつ出るようになるか分からないからと母が鍋に水をためていた。
ガスは大元が切れていただけで、スイッチを入れると使えた。三が日だったので、おせち料理を並べてお屠蘇も飲んで、普通にお正月として過ごした。
2日の日は、隣にある誰も住んでいない祖父母宅の片付けをした。食器が割れたり物が落ちたりしているのを片付けた。住宅に僅かなズレも出ていた。
片付け以外はずっとテレビで地震の情報を見ていた。何をするでもなく、家族みんなでテレビを見て過ごしていた。
輪島の祖母の家に行った知り合いと連絡が取れないと聞き、心配になった。
慣れ親しんだ地の変わり果てた姿を見て悲しくなった。本当は泣きたかったけど、泣けなかった。ここで緊張の糸を切ってはいけないと無意識に思っていた。
夜になり、水がだいぶ出るようになったので、水は茶色だったがお風呂に入った。普通に温かいお風呂に入れる幸せを噛み締めた。
2日間の疲れからか、2日の夜はすぐに寝た。2:30頃に地震速報が鳴って目が覚め、大きめの地震が来たが、疲れていたのかまたすぐに寝れた。
3日ともなると、ほぼほぼ普通の生活に戻っていた。姉家族は無事に新幹線に乗って住まいに帰って行った。
4日に私は北海道に戻って来た。
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北海道に戻って、地元から離れてから、緊張の糸が切れたのか、より実感したのかメソメソしてしまう。
実家であれだけニュース見ても泣かなかったのに、こっちで1人でニュース見てると涙が止まらない。悲しすぎてニュースが見れない。でも知りたい。
何故私は助かって生きているのだろう。あの地震の最中、津波警報の最中、逃げている最中、死ぬかもしれないという恐怖を感じつつここで死んでたまるか!と強く思えていたけれど。
東日本大震災の時に同じような思いをした方がたくさんいたのは知っていたけれど、本当に同じような気持ちになる。
私は今、能登半島地震の影響がない地にいる。
私にできることは、元気に健康で普通の日常を生きること。募金をすること。それだけ。
それでも、私は私の人生を精一杯生きる。
日常は続く。日常を精一杯生きる。目の前のことをしっかり行う。それでいい。それでいいよね?
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余談ですが、年末に、私は地元で地震雲(そんなものはないとわかっています)かな?と思う雲を見ていて、母は3回津波がやってくる夢を見ていました。
後出しだけれど、その時はまさかと2人とも思っていた。
不思議なこともありますね…
最後になりますが、これ以上被害が広がらないこと、余震がおさまること、1日でも1分でも早く落ち着くことを祈っております。
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